むかし むかし ある ところ に 死体 が ありま した。 投稿したレビュー(流々(るる))

実験A

むかし むかし ある ところ に 死体 が ありま した

チベットは厳重なる鎖国なり。 世人呼んで世界の秘密国と言う。 その果たして 然 ( しか )るや否やは容易に断ずるを得ざるも、天然の 嶮 ( けん )によりて世界と隔絶し、別に一 乾坤 ( けんこん )をなして自ら 仏陀 ( ぶっだ )の国土、観音の浄土と誇称せるごとき、見るべきの異彩あり。 その風物習俗の奇異、 耳目 ( じもく )を 聳動 ( しょうどう )せしむるに足るものなきに 非 ( あら )ず。 童幼聞きて楽しむべく、学者学びて 蘊蓄 ( うんちく )を深からしむべし。 これそもそも世界の冒険家が幾多の 蹉跌 ( さてつ )に屈せず、奮進する 所以 ( ゆえん )なるか。 余 ( よ )のこの地に進入せしは勇敢なる冒険家諸士に 倣 ( なろ )うて、探検の功を全うし、広く世界の文明に資せんとの大志願ありしに非ず。 仏教未伝の経典の、かの国に蔵せられおるを聞き、これを求むるの外、他意あらざりしかば、探検家としての資格においては、ほとんど欠如せるものあり。 探検家として余を迎えられたる諸士に十分なる満足を供する 能 ( あた )わざりしを、深く自ら 憾 ( うら )みとす。 されど、余にも耳目の明ありて専門の宗教上以外、社会学上に、経済学上に、あるいは人類に無上の教訓を与うる歴史の上において、その幼稚なる工芸中別に一真理を 包摂 ( ほうせつ )する点において、地理上の新探検について、動植物の分布について等その見聞せるところも 尠 ( すく )なからざりしかば、帰朝以来、これら白面の観察を収集して、 梓 ( し )に 上 ( のぼ )さんと欲せしこと、一日に非ざりしも、南船北馬暖席に 暇 ( いとま )なく、かつ二雪霜の間に集積せるところは、 尨然 ( ぼうぜん ) 紛雑 ( ふんざつ )し容易に整頓すべからずして、自ら 慚愧 ( ざんき )せざるを得ざるものあり。 日ごろ旅行談の完成せるものを刊行して大方の志に 酬 ( むく )いよと強うる友多し。 余否むに辞なし。 すなわちかつて時事新報と大阪毎日新聞とに掲載せしものを再集して梓に上せて、いささか友の好意に 対 ( こた )え、他日をまちて自負の義務を果たさんと決しぬ。 チベットは仏教国なり。 チベットより仏教を除去せば、ただ荒廃せる国土と、 蒙昧 ( もうまい )なる蛮人とあるのみ。 仏教の社会に及ぼせる勢力の偉大なると、その古代における発達とは、吾人の 敬虔 ( けいけん )に値いするものなきに非ず。 この書この点において甚だしく欠けたり。 これ余の完全なる旅行談を誌さんと欲して努力せし 所以 ( ゆえん )。 しかれども事意と 差 ( たが )い容易に志を果たす能わずあえて先の所談を一書として出版するに至る、自ら 憾 ( うら )みなき能わず。 即ち懐を述べて序文に代う。 私がチベットへ行くようになった原因は、どうか平易にして読み易い仏教の 経文 ( きょうもん )を社会に供給したいという考えから、明治二十四年の四月から宇治の 黄檗山 ( おうばくさん )で 一切蔵経 ( いっさいぞうきょう )を読み始めて、二十七年の三月まで 外 ( ほか )の事はそんなにしないで 専 ( もっぱ )らその事にばかり従事して居りました。 その間に私が一つ感じた事があります。 それは 素人 ( しろうと )にも解り易い経文を 拵 ( こしら )えたいという考えで、漢訳を日本語に翻訳したところが、はたしてそれが正しいものであるかどうか。 サンスクリットの原書は一つでありますが漢訳の経文は 幾 ( いく )つにもなって居りまして、その文の同じかるべきはずのものがあるいは同じのもあればまた違って居るのもあります。 甚 ( はなは )だしきは全くその意味を 異 ( こと )にして居るのもあり、また一つの訳本に出て居る分が 外 ( ほか )の本には出て居らないのもあり順序の 顛倒 ( てんとう )したのもあるというような訳で種々 雑多 ( ざった )になって居ります。 しかしその 梵語 ( ぼんご )の経文を訳した 方々 ( かたがた )は決して嘘をつかれるような方でないからして、これには何か研究すべき事があるであろう。 銘々 ( めいめい )自分の訳したのが原書に一致して居ると信じて居られるに違いあるまい。 もし 然 ( しか )らばそんなに原書の違ったものがあるのか知らん、あるいはまた訳された方々がその土地の人情等に応じて 幾分 ( いくぶん )か 取捨 ( しゅしゃ )を加えたような点もありその意味を違えたのもあるか知らん。 何にしてもその原書に 依 ( よ )って見なければこの経文のいずれが真実でいずれが 偽 ( いつわ )りであるかは分らない。 これは原書を得るに限ると考えたのです。 ところでこのごろ原書はインドにはほとんどないらしい。 もっともセイロンには小乗の仏典はあるけれどもそれはもちろん我々にとって余り必要のものでない。 最も必要なのは大乗教の仏典であります。 しかるにその大乗教の仏典なるものは仏法の本家なるインドには 跡 ( あと )を絶って、今はネパールあるいはチベットに存在して居るという。 その原書を得る為にはぜひネパールあるいはチベットに行かなくてはならぬ。 なお欧米の東洋学者の説によるとチベット語に訳された経文は文法の上からいうても意味の上からいうてもシナ訳よりも余程確かであるという。 その説はほとんど西洋人の間には 確定説 ( かくていせつ )のようになって居ります。 はたしてチベット語の経文が完全に訳せられてあるものならば、今日の 梵語 ( ぼんご )の経文は世界にその跡を絶ったにしてもそのまたチベット語に訳された経文によって研究することが出来る。 なおチベットの経文と漢訳の経文とを比較して研究するのも余程学術上面白い事でもありまた充分研究すべき価値のある事であるから、これを研究するにはぜひチベットに行ってチベット語をやらなければならぬという考えが起りました。 この考えがつまり でありまして、ちょうどその時が明治二十六年の四月で今より満十年余以前のことでござりますけれども、チベットは 厳重 ( げんじゅう )に鎖国主義を実行して居る国で、有力なる西洋人が沢山の金を費やし多くの 光陰 ( こういん )を費やし種々の準備を 調 ( ととの )えて行ってすらも今日失敗に帰して居る者が多い中に、我々ごとき一介の貧僧が出掛けたところがはたして目的を達することが出来るかどうか。 また自分はそんな冒険な事をやらないでも 黄檗宗 ( おうばくしゅう )の一寺の 住職 ( じゅうしょく )になって居りさえすればごく安楽に過せる位置までに進んで居ります。 現に東京本所の五百 羅漢 ( らかん )の住職もし、その後は 宗内 ( しゅうない )にも 河口慧海 ( かわぐちえかい )という名が 喧 ( やかま )しく言われるようになったから、自分さえ寺を持つという考えがあれば非常に 便宜 ( べんぎ )な地位を占めて居ったのであります。 それを 打棄 ( うちす )てて死ぬか 活 ( い )きるか分らない国へ行くということはいかにも 馬鹿 ( ばか )げた話のようですけれども、これは 畢竟 ( ひっきょう )世間普通の考えで真実事業の為には便宜の地位を 犠牲 ( ぎせい )にする位の事は訳のない事であります。 ただこの際自分の父母なり同胞なり他の 朋友 ( ほうゆう )なりが私のある為に幾分の便宜を持って居る者もあり、また私の教えを受けることを好んで居る信者も沢山ある。 それを打棄てて行くことは実に忍びない。 またかれらは死にに行くようなものだから 止 ( よ )せといって 止 ( と )めるに違いないけれどもそれでは大切の原書に 依 ( よ )って仏法を研究することが出来ない。 ついてはこれらの情実に打ち勝つだけの決心をしなければ到底出掛ける訳に行かぬと考えました。 この理由は私の決心をするのに一つの補助をなしたもので、その実私は二十五歳で 出家 ( しゅっけ )してから、寺や 宗門 ( しゅうもん )の事務の為に充分仏道を専修することが出来なかった。 一切蔵経 ( いっさいぞうきょう )を読んで居る中においてもときどき 俗務 ( ぞくむ )に使われる事があってせっかく出家をした 甲斐 ( かい )がないから、かの世界第一の高山ヒマラヤ山中にて真実 修行 ( しゅぎょう )を 為 ( な )し得るならば、俗情を遠く離れて 清浄妙法 ( しょうじょうみょうほう )を専修することが出来るだろうという、この願望が私のヒマラヤ山道を越えて 入蔵 ( にゅうぞう )する主なる原因でありました。 事の行きがかり 理 ( り )の当然……なさねばならぬはずの事でもなかなか決心のつかぬことが多いもので、特に外国行とかあるいは困難な事業に当る場合には誰しも決心のつきがたいものである。 私は仏教を信じて居る 御恩蔭 ( おかげ )で世間普通の人々が決心するのに困ることをそんなに困らなかった。 普通からいうとなにか一事業を起さんとするにはまず金が資本であると、こう決めて外国行にもまず 金 ( かね )を 調 ( ととの )えてから行くとするのである。 しかるにわが本師 釈迦牟尼仏 ( しゃかむにぶつ )は我の教うる戒法を持つ者は、 何処 ( いずく )に行くとても 凍餓 ( とうが )の為に死すということはないと 命 ( めい )せられた。 よりて我ら仏教僧侶は戒法を持つことが資本である、旅行費である、通行券である。 そうして釈尊の教えられた最も 謙遜 ( けんそん )の 行 ( ぎょう )すなわち 頭陀乞食 ( ずだこつじき )を行うて行かんには何ぞ旅行費なきを 憂 ( うれ )えんやというような訳で、これが無銭で大旅行を決心した理由であります。 殊に天上天下唯我独尊の釈迦牟尼 如来 ( にょらい )が 至尊 ( しそん )の王位と金殿玉楼すなわち天下の 富貴 ( ふうき )を捨てて 破衣 ( はえ ) 乞食 ( こつじき )の出家となって我ら一切 衆生 ( しゅじょう )のために身命を 抛 ( なげう )って御修行せられたことを思いますと、我らの苦労は何でもないことと容易に決心がつきます。 まことにありがたいことでこの 後 ( のち )とてもチベット旅行中いろいろの困難が起りましたが常に 釈迦牟尼仏 ( しゃかむにぶつ )を 念 ( おも )うてその困難を忍んだことであります。 からインドのセイロンへ留学せられてその頃帰って来られた 釈興然 ( しゃくこうねん )という方があって神奈川在に居られた。 そこへ行って学んだらインドの事情が分るだろうと思って 修学 ( しゅうがく )に参りました。 始めは充分親切にパーリ語の経文及び文典等を教えてくれた。 ちょうど一年余り居りましたがその間に同師から聞いたところの話は「小乗教は即ち純正の仏教である。 日本では小乗といって居るけれどもその実、小乗という名は大乗教者がつけた名で小乗そのものには決してそういう名はない。 純粋の仏教はこの教えに限る。 それ故に本当の僧侶は黄色の 袈裟 ( けさ )を着けなければならぬ。 まずその心を正しゅうせんとする者はその 容 ( かたち )を正しゅうせよであるから、僧侶たる者はまず 黄色三衣 ( こうしょくさんい )を着けるが第一着である。 お前も黄色の袈裟を着けるがよい」といわれた。 その時分興然師はその言葉を実行する為に正風会というものを起して居られた。 その時に私は小乗の教えは学びますけれどもその主義に従いその教えを守ることが出来ませぬと答えたので、 始終 ( しじゅう )議論が起って釈興然師と衝突して居ったです。 私が大乗教の事を言うと師は空想取るに足らぬという風で始終 詰問 ( きつもん )されたけれども、私はまた余り興然師の小乗教を信じて居られるのが偏狭でお気の毒に思うたです。 ですからパーリ語は師匠として学んで居りましたがその主義に至っては全然反対で、興然師の言うことに一度も従った事はなかった。 興然師も不快に感ぜられたと見えてある時規則を設けられた。 その規則は「大乗教を 云々 ( うんぬん )してこの真実の仏教に 遵 ( したが )わない者は 此寺 ( ここ )に居ることを許さぬ、 黄色三衣 ( こうしょくさんい )を着けた僧侶でなければ 此寺 ( ここ )に居ることを許さぬ」という内規を 拵 ( こしら )えて私に示された。 その時に私は「これじゃあ私は居ることは出来ませんが、これから私は食費その他の入費を出し寺の用事も今迄通り働きますからただパーリ語だけの 弟子 ( でし )として教えてくれませぬか」といったところがそれはいけないという話であった。 その時分に興然師が熱心に私に説かれた事は「そんな大乗教などを信じてチベットへ行くなんという雲を 掴 ( つか )むような話よりかここに一つ確実な事がある。 それはまずセイロンに行って真実の仏教を学ぶことである。 学べば仏教の本旨が分るから大乗教云々など言うては居られはしない。 私の弟子として行きさえすれば船賃も出るしまた修学の入費も出来る訳だからそういう風にして行くが 宜 ( よ )かろう。 お前たちがどの位骨を折っても外国で学ぶ金が完全に出来るものじゃない」といってしきりに勧められたのです。 時に私は「たといどれだけお金を 戴 ( いただ )きどういう 結構 ( けっこう )な目に遇いましたところが、私が日本国家に必要なりと信ずる大乗教の主義を棄ててあなたの信ずる小乗教に従うことは出来ません。 今日まで教えを受けたのは有難うございますけれどもそれはただ語学上の教えを受けただけでその主義に至っては始めから教えを受けたのでないからこれは全くお断りを致します」と答えたところが、師は 余程不快を感ぜられ ( 〔それでは仕様がないからとて〕 )早速追い払われてしまいました。 それがちょうど明治三十年の二月でございます。 私は釈興然師に追い出されましたから東京に帰って来ましたが、到底日本に居ったところがチベットの事情はよく分らぬから、ぼつぼつインドの方へ出掛けて行くことにするがよかろうという考えで、東京の友人及び信者等に別れに行きました。 ところがその 中 ( うち )には何か 餞別 ( せんべつ )をしたいということでいろいろ尋ねがありましたから私は、まあ 大酒家 ( おおざけのみ )には酒を飲まぬことを餞別にしてくれ、また 煙草 ( たばこ )をのんで脳病を起すような先生には禁煙を餞別にして下さいと言って頼みました。 そういう事を餞別にしてくれた人が四十名ばかりありました。 その時から今日まで堅くその餞別を 持 ( たも )って居られる人もありまた居られぬ人もあるようですが、とにかくこれらの餞別は確かに私にとっては善い餞別でございました。 それから大阪へ帰り大阪でもまたそういう餞別を多分に貰いました。 この中でも殊に私をして愉快に感ぜしめ、これが長途の旅行中私の命を救う原因になったかもしれぬと思われた有力の餞別が三つあります。 東京で一つ大阪で一つ堺で一つです。 それほど上手な位ですからまた非常にすきで少し位の病気は網打に行くと 癒 ( なお )るという。 ちょうど私が 出立 ( しゅったつ )の際、甚だ親しい信者であるからわざわざ尋ねて行ったところが何故か同氏は非常に 憂 ( うれ )えて居られた。 どういう訳かと尋ねますと、何でも 二歳 ( ふたつ )か 三歳 ( みっつ )の子供がありましたがその可愛盛りの愛児がこの間死んだので、私の妻はほとんど狂気のごとくに歎き私も漁に出掛けても少しも面白くないという 愁歎 ( しゅうたん )話。 そこで私は尋ねた。 「あなたは子供を失うたのがそれほど悲しいが、もしあなたの愛児を縛りこれを殺してあるいは 炙 ( あぶ )りあるいは煮て喰う者があった時分にはあなたはこれをどう思うか。 」氏は答えて「そりゃ鬼です、人ではありません」という。 それから私は「そんならばあなたは魚類に対しては正しく鬼である。 かの魚類といえども生命を 愛 ( おし )むの情に至っては人間と同じ事である。 もしあなたの失うた愛児を悲しむの情が真実であるならばなぜかの残忍なる網打を止さないか。 もしこの業があなたの本職なればそりゃどうも 生業 ( なりわい )のためにやむを得ん事もあろうけれどもただ娯楽の為にするのは実に無残、無慈悲の事ではないか」とだんだん因果応報の真理を細かに説明して、ついに 不殺生戒 ( ふせっしょうかい )をもってわがチベット行の餞別にせよと勧告致しました。 始めはすこぶる難色がありまして「どうも困った、これを 止 ( よ )してしまっては外に何にも楽しみがない」といって非常に困って居りましたが、だんだん私の熱心に説くところと、かつ私が命を 棄 ( す )ててもチベット行を決行しようという、 餞別 ( せんべつ )としてはこれが適当であると感じて、決然立って家の隅に懸けてあるところの大きな網を持ち来り私に与えて言いますには「あなたのお説に従い私は今より不殺生戒を堅く持ちます。 この不殺生戒を堅く持つことをもってあなたのチベット行の餞別に致します。 その 証 ( あかし )としてこの網をあなたに差し上げます。 ついてはこの網はあなたが売ろうが棄てようがあなたの 御随意 ( ごずいい )でございます」。 聞いて私は同氏のお娘御に火を起して 貰 ( もら )って大きな火鉢の中へその網を入れて燃し掛けますとその傍に居る人々は皆驚いてしまったです。 私はその網の燃え上る火を見まして「法界の 衆生 ( しゅじょう )、他の生命を愛する 菩提心 ( ぼだいしん )を起し殺生的悪具をことごとく 燃尽 ( やきつく )すに至らんことをこいねがう」と念じ、それからまた高部氏に向い「この網を焼いたところの火は足下の煩悩罪悪を焼き滅した智慧の光である。 爾来この智慧の光を心として法界に生存せる衆生の生命を愛せらるるように」と説教致しました。 ところがその傍に同人の一族で小川勝太郎という人が居りました。 この人もまた高部氏と同じく網打、 銃猟 ( 〔魚釣〕 )をする人ですがその状態を見て非常に感じ、誓いを立てていうに「我不殺生をもってあなたのチベット行を送る。 もしこの誓いを破らば不動明王それ我に死を賜え」と。 その時には私はわが生命を救われたかのような喜びを生じたです。 堺では私の 竹馬 ( ちくば )の友である伊藤市郎氏、この方もよく慰みに網打に行かれたですが高部氏の話をして 諫 ( いさ )めたところが幸いに私の 請 ( こい )を容れ網を焼いて餞別にしてくれた。 大阪では安土町の渡辺市兵衛氏、この方は以前からなかなかの資産家で今は株式仲買業及び朝鮮で交易することを専門にして居りますが、以前は船場で泉清という名高い 鶏商屋 ( かしわや )でありました。 同氏は禅学熱心家で殊にそういう 殺生 ( せっしょう )な商売をしなくても充分生活の出来る人であるに拘わらず、 依然 ( いぜん )として 鶏商 ( かしわや )をやって居りますから東京からしばしば書面を送って 諫 ( いさ )め、また私がチベットへ行く時に諫めたところが「いかにも貴意を諒した。 しかし今急に商売換えは出来ぬからおもむろに他の商売を見付けて必ず廃業するから」といって餞別にしてくれました。 その約束通り私が出立してから一年有余の後にかの鶏商を断然廃業して今の商売に移られたのです。 これらの事は 普通 ( ふつう )の人の考えから見れば余り過ぎたる行いなるかのごとく感ずるかも知れぬけれども、病気に対する薬はいつも普通の人に対しては過ぎたる薬を用うればこそ全快もするのです。 普通の人に対し普通の教えを施す場合と重病人に対し良薬を施す場合とは違うということをよく知らなければならぬ。 これらの不殺生の原因即ち毎日多くの魚族の命を殺すところの網を焼きあるいはその業を廃するに至らしめた功徳は、正しく私がヒマラヤ山中及びチベット高原においてしばしば死ぬような困難を救うたところの最大原因となったのではあるまいかと私は常に思うて居ったです。 仏の 護 ( まも )りは申すまでもない事ながらこの信実なる餞別が私のためにどれだけ益をしたか分らぬと思っていつも諸氏の厚い 信心 ( しんじん )を感謝しました。 で、いよいよ出立するには金が 要 ( い )ります。 私の貯金が百円余、外に大阪の渡辺、松本、北村、春川、堺の肥下、伊藤、山中等の諸氏が骨を折って餞別にくれられた金が五百三十円ほどありました。 その内百円余り旅行の準備に使い五百円余りを持っていよいよ国を出立することになりました。 私がいよいよ出立の場合になると世の中の人は「彼は死にに行くのだ、馬鹿だ、突飛だ、気狂いだ」といって 罵詈 ( ばり )するものがあったです。 もっとも私の面前へ来てそういう事を言うてくれた人は信実に違いないが、蔭で 嘲笑 ( せせらわら )って居た人は私の不成功をひそかに期して居った人かも知れないけれども、それらの人も私に縁あればこそ悪口を言ってくれたのでかえってその悪口が善い因になったかも知れない。 多くの人が嘲り笑う中にも真実に私を止めた人もあります。 もはや明日出立するという前晩即ち六月二十四日大阪の牧周左衛門氏の宅に居りますと大分止めに来た人がありました。 その中でもごく熱心に止められたのは今和歌山に判事をして居る角谷大三郎という人です。 「世の 物笑 ( ものわら )いとなるような事をしてはならず、もはや君は仏教の修行も大分に出来て居るし、これから衆生済度を 為 ( し )なくちゃあならぬ。 殊に今日本の宗教社会に人物のない時にわざわざ死にに行く必要がないじゃないか」といってだんだん勧められたが、私は「死にに行くのか死なずに帰るかそりゃ分らんけれども、まず私は一旦立てた目的であるからどこどこまでも 成就 ( じょうじゅ )する 心算 ( つもり )である」というと「それじゃあ死んだらどうする。 成就されんじゃないか。 」「死ねばそれまでの事、日本に居ったところが死なないという保証は出来ない。 向うへ行ったところが必ず死ぬときまったものでもない。 運に任して出来得る限り良い方法を尽して事の成就を 謀 ( はか )るまでである。 それで死ねば軍人が戦場に出て死んだと同じ事で、仏法修行の為に死ぬほどめでたい事はない。 それが私の本望であるから惜しむに足らぬ」というような事で長く議論をして居りましたが、同氏はどう留めても 肯 ( き )かぬと見られたか若干の餞別を残して 夜深 ( よふけ )に帰って行かれた。 その 外 ( ほか )にもいくらとめてみてもとまらんと言って涙をもって別れを惜しんで送ってくれた信者の方々も沢山ありました。 世はさまざま、六月二十五日朝大阪を出立しその翌日朋友の肥下、伊藤、山中、野田等の諸氏に見送られ、神戸の波止場から和泉丸に乗船しました。 その時に故国に別るる歌があります。 久方 ( ひさかた )の月のかつらのをりを得て 帰りやすらん 天津日国 ( あまつひくに )に 郷里の親友信者が波間のボート中より各自に帽子あるいはハンカチーフを空に振りつつ壮快に西に向って進行するわが舟を見送りましたが、その後は和田の岬より古き 親近 ( なじみ )の金剛 信貴 ( しき ) 生駒 ( いこま )の諸山に別れてただ我が一心を主として行くこととなりました。 門司 ( もじ )を過ぎ玄界灘より東シナ海を経てホンコンに着くまでは船長及び船員らと親しくなって時々法話を致しました。 ホンコンでタムソンという英人が乗船した。 彼は日本に十八年間も居ったと言うのでなかなか日本語をよく使う。 彼は非常な 耶蘇 ( ヤソ )教の熱心家で私と大変な議論が始まって船中の評判になった。 なかなか愉快の事でありました。 特に船員らは法話を非常に喜んで聞きましたから私も喜んで一つの歌がでました。 御仏のみくににむかふ舟のうへのり得る人の喜べるかな 神戸港頭の袂別 七月十二日にシンガポールに到着しました。 同地の 扶桑 ( ふそう )館という宿屋に着いて十五日に日本領事館へ 尋 ( たず )ねて行きました。 その時分の領事は藤田敏郎という方で、領事は私の行く前からもはや私の乗って行った和泉丸の船長の話でチベット行のためにこの地方を過ぎるということを知って居られた。 で「あなたはチベットに行かれるそうだがどういう方法で行かれるか。 チベットに行くのは非常の困難だ。 福島さんでさえダージリンまで行かれてどうもチベット行は非常の困難だといって帰られた位だからむろん駄目な事であろう。 まあ軍隊を 率 ( ひき )いて行くかあるいは乞食になって行かれるか、どっちか知らんですが一体どういう風にして行かれるか」という問であったです。 「私はもとより僧侶の事で軍隊を率いて行くという事は思いも寄らぬ。 よし率いて行くことが出来るにしたところが私はそういう事は望まない。 出家は乞食をして行くのが当り前ですから乞食になって出掛けて行くつもりです。 どうせ今からこうああと充分方法を考えて置きましたところがその方法がはたして間に合うか合わぬか分らぬから、到る処に従いその機に応じて方法は 自 ( おのずか )ら生じて来るであろうと思って居りますからこれから出掛けて行きます」といったところが、領事はどうも危ないというような様子で手を 拱 ( こまね )いて居られました。 七月十八日に一つの出来事が私の宿屋に起った。 実に危ない話で私が死ぬべきところを助かった事ですからここに述べて置きます。 私は出家の事とて 一切到処皆帰道場 ( いさいとうしょかいきどうじょう )という考えでこの宿屋でたびたび 説法 ( せっぽう )をしました。 ところが宿の主人は特別に優待せられて毎日湯を沸かすと一番新湯に入れといってくれるです。 それが泊って居る間例のようになって居りました。 この日もやはり例のごとく湯が沸きましたからお入り下さいと女中が言って来た。 その時に私はお経を読んで居りました。 すぐに出掛けて行ってもよいのですがなんだかぐずぐずして居りました。 するとまた女中が来て「あなたがお入りになりませんと外の方が入りますからどうか早くお入り下さい」という。 はいはいと答えをして置きながら私はその 儘 ( まま )坐り込んで居りました。 ところが暫くすると 轟然 ( ごうぜん )と 酷 ( ひど )い音が聞えてその家が震え気味になったです。 「はてな地震じゃあないか知らん。 事によると外に出なくちゃあならん」と思ってずっと外の方を見て居りますと、別に地震の揺った様子でもないけれどもその音は非常で 俄 ( にわか )に人が騒ぎ出しました。 そこで様子を聞くとこの宿屋の風呂場が 堕 ( お )ちたとのことで、一体その 風呂場 ( ふろば )は二階にありますがシンガポールの家は随分二階と下の間が開いて居りましてほとんど一 丈 ( じょう )もあるように見受けます。 そんなに開いて居る二階からしてその風呂場が落ちたという 始末 ( しまつ )。 それへ指して私が入らなかったものですからある日本の婦人が先に入って居りますとどういうはずみか風呂と共にその婦人が落ちてしまった。 で柱なり石なりがその人の頭といわず身体といわずそこらを打ちまして気絶してしまいました。 非常な 負傷 ( けが )をしたそうで私はお気の毒で婦人の 傷 ( きず )を見に行くこともようしなかったですが、 直 ( すぐ )に病院へ連れて行きました。 その後死んだかどうかその婦人の事については聞きませぬが、ある人はどうもむつかしいといって非常に歎いて居られた。 もし私がこの時に女中の報知のままに直に湯に入りますれば確かに死んで居ったかあるいは死なぬにしろ 不具 ( ふぐ )の身となってとてもチベット行を満足することが出来なかったに違いない。 幸いにこういう 奇禍 ( きか )を免れる事の出来たのもこれまたチベットへ入って奇禍を免れ安全に故郷へ帰って来られるという 前兆 ( ぜんちょう )になったかも知れない。 気の毒なのはその婦人で私の身代りにそういう 難 ( なん )に陥ったようなものでございます。 その後ダージリンにおいて聞くところによるとシンガポールの宿屋は非常に困ったそうです。 それは板や柱の腐れ掛った所は土やペンキを塗って 胡魔化 ( ごまか )してあるからちょっと見ただけでは分らぬといって、警察の役人が槍を持って来てズブズブ突き通して少しでも怪しい所があると皆取り換えさせたそうです。 これはもとより当然の事でありましょう。 七月十九日英国汽船ライトニングに乗りペナン港を過ぎて七月二十五日にカルカッタ市の 摩訶菩提会 ( マハーボーデソサイチー )に着きそこに数日 逗留 ( とうりゅう )して居りましたが、同会の幹事でチャンドラ・ボースという人があります。 その人が私に向い「あなたは何の目的でこちらにお越しになったか」という尋ね。 「私はチベットに行くのが目的でチベット語を研究するために参りました。 」「それには大変好い所がある。 チベットで修学した人で今チベット語と英語の大辞典を著しつつあるサラット・チャンドラ・ダースという方がダージリンの 別荘 ( べっそう )に居る。 そこへ行けばあなたの便宜を得らるるだろう」という。 「それはよい 都合 ( つごう )であるからどうか紹介状を下さらぬか」と頼んで紹介状を貰い、八月二日に在留日本人に送られてカルカッタより汽車に乗って北に向い広大なる恒河を汽船にて横ぎったり、また汽車に乗って 椰子 ( やし )の林や青田の間を北に進行しました。 我が国で見ることの出来ない大きな螢が沢山飛んで青田の水にうつる影のおもしろさ。 それがちょうど月が西原に沈んだ後の事でござりました。 御仏の昔も思い出でまして 御仏 ( みほとけ )のひかり隠れし [#「隠れし」は底本では「穏れし」]闇ながら 猶 ( なほ )てりませと飛ぶほたるかな 翌三日の朝シリグリーというステーションで小さな山汽車に乗り替えました。 その汽車が北に向ってヒマラヤ山にだんだん上りました。 欝茂 ( うつも )せる大林すなわちタライ・ジャンガルを過ぎて汽車の 紆曲 ( うきょく )することは大蛇のごとく、汽関車の声は幾千の獅子の 奮迅 ( ふんじん )もかくやと思われるほどで山谷を震動して 上 ( のぼ )りました。 山道五十 哩 ( マイル )を上りまして午後五時頃ダージリンに着きましたが、カルカッタよりは三百八十哩を 経 ( へ )たのであります。 停車場 ( ステーション )からダンリーという 山駕籠 ( やまかご )に乗って直にサラット師の別荘〔ラハサ・ビラ〕に参りましたが、大変立派な別荘で私はそこへ泊り込むことになりました。 私がサラット師の別荘へ着いた時にはインドのアッサム地方が大地震で、やはりダージリンもその地震の影響を受けたために家が大分 毀 ( こわ )れたり 歪 ( ゆが )んだりしていた。 で、ちょうどその 普請中 ( ふしんちゅう )でありました。 その翌日 直 ( すぐ )にサラット 居士 ( こじ )と共にグンパールという所の寺に住んで居るモンゴリヤの老僧を尋ねました。 この老僧はその時分七十八歳でなかなかの学者です。 その名をセーラブ・ギャムツォ( 慧海 ( えかい ))といって私と同じ名の人であった。 その名に 因 ( ちな )んで大いに 悦 ( よろこ )ばれだんだん仏教の話も出ましたけれども、私はチベット語の一つも知らずサラット居士の通弁で幼稚な英語をもって話をしただけであります。 その時に始めてこのお方からチベット語の アルファベット ( 〔字母と母音の符号〕 )を学びました。 それから毎日 三 ( 〔四〕 )哩あるこの寺へ通うてチベット語を勉強致しました。 一月ばかりやって居りますとサラット居士は私に対し「あなたはチベットに行くというけれどもそれはもう 止 ( よ )しにするがよい。 実に困難な事である。 しかしその困難を犯しても 成就 ( じょうじゅ )すればよいけれどもまず絶望の姿である。 だから止すがよい。 もちろんチベット語の研究はここで充分出来るからその研究をして日本へ帰れば充分チベット語学者として尊崇を受ける訳じゃないか」という話でありました。 「しかし私はチベット語学者として尊崇を受けるためにチベットに行くのじゃあございません。 仏法修行のためですからどうしても行かなくちゃあならぬ必要があります」というとサラット 居士 ( こじ )は「必要はあったところで到底成就しない事に従うのは詰らんじゃないか。 行けばまあ殺されるだけの 分 ( 〔事〕 )だ」という話。 「しかしあなたはチベットに行って来たじゃあございませんか。 私とても行かれぬ訳はないじゃあございませんか」と 詰問 ( きつもん )しますと「それは時勢が違っている。 今日はもう鎖国が実に完全になったから私とてももう一遍行くことは出来ない。 その上私はよい方法を求め通行券を得てかの国に入ったのであるが、今はとても通行券を得ることは出来ないからそういう望みは止しにしてただ勉学だけして日本に帰る方が得策です」といって親切に勧められた。 「私はとにかくチベット語を学ばなくちゃあなりませずその上にただチベット仏教の学問だけ研究してもつまりませんから、どうか俗語をも学びたい。 さもなければかの国に入るに困難ですからその俗語を学ぶ 方便 ( ほうべん )をして 戴 ( いただ )きたい」と言って頼みますと仕方がないと諦めてかサラット居士は早速引き受けてくれました。 その別荘の下に小さな美しい二軒家があります。 その家はラマ・シャブズンという方の家です。 けれどもそのお方はその頃市場の方に住んで居られてその家には居りませぬ。 それをわざわざサラット居士が呼び寄せて「あなたの家内一同ここに引き移って、このジャパン・ラマにチベットの俗語を教えてやってくれまいか」と頼みますと、快く承諾してそのラマ・シャブズン師は家族と共にその家に引き移り私もその家へ寄寓することになりました。 で、その俗語を習う月謝はもちろん私が払いますので、その上私はダージリンに在る官立学校へ通ってチベット語の教頭ツーミ・ウォンデンという人から正式のチベット語を学ぶことにしました。 それらの学問に関する入費は皆私が払ったけれども食物は 総 ( すべ )てサラット居士が特に施してくれた。 私はそれに対し相当の代価を払うつもりで金を持って行きましたけれどもどうしても取ってくれない。 「あなたのような清浄の僧に 供養 ( くよう )すると私共の罪業が消滅して大いに福禄を増すことになるからぜひ受けてくれろ」という。 私はもちろん金がなくって学問をして居るのですからせっかくの親切を無にするてもないと思ってその供養を受けることにしました。 私がダージリンに着いた時分にはわずかに三百円しかなかったけれども家の借賃と月謝と書物代に 小遣 ( こづかい )だけですからその金で一ヵ年半を支うることが出来た。 もし食費を払うとすれば月に五十円位ずつはどうしても 要 ( い )りますから五、六ヵ月しか学ぶことが出来んのです。 まことに好都合の事は昼は学校に行って学問上のチベット語を研究し夜は家に帰って俗語を研究することで、その上また学校へ行くまでの間にも 朝御膳 ( あさごぜん )の時にもやはりその言葉を学ぶというような訳で俗語の進歩は非常に早かった。 俗語を学ぶにはその国人と同居するに限ります。 日に二時間三時間ずつ教師を 聘 ( へい )して学んだところが到底本当の事は出来ない。 同居して居ると知らず知らずの間に覚えることも沢山あります。 その中にも殊に俗語の良い教師は男子よりも女子、女子よりも子供で、子供と女子とはどこの国語を学ぶにもそうですが、発音の少しでも間違ったことは決して聞き 棄 ( す )てにはしない。 あなたの言うのはこういう風に間違って居るとか、どういう風に間違って居るとか、何遍か言う。 それがまた面白いと見えて私のよく言い得ない事は向うから発音して聞かせる。 こちらは一生懸命になって口の開き方、舌の使い方、歯の合せ方を見ましてその音を真似ようとするけれどもなかなかいけない。 ようやくに真似ることができたかと思うと一日経つとまたその音が出なくなってしまうというような訳で毎日笑われます。 その笑われるがために俗語の発音の進みが案外早かったです。 そういう風にして一生懸命学んで居るものですからわずか六、七ヵ月で一通りの事はまあチベット語で話せるようになった。 かえって英語で話をするより楽になりました。 日本では英語を二年余一生懸命に学んだけれども外国に出て見ると一向間に合わない。 しかるに英語よりむつかしいかと思うチベット語がわずか六、七ヵ月学んだだけでちょっと話が出来るようになったというのも全く子供や女が 喧 ( やかま )しく教えてくれたからでしょう。 チベット語が分るに従ってチベットの事情を聞く事は毎晩の事で、殊にラマ・シャブズン師は非常な話好きで得意になって自分の難儀した話をされた。 このお方はチベットで名高いセンチェン・ドルジェチャン( 大獅子金剛宝 ( おおししこんごうほう ))というチベット第二の法王〔パンチェン・ラマ〕の教師をして居られたお方の一弟子であります。 この 大獅子金剛宝 ( センチェン・ドルジェチャン )という方は大変高徳な方でチベットではこのお方ほど学問の 勝 ( すぐ )れた方はないという評判であった。 サラット 居士 ( こじ )がチベットに入った時このお方についてほんのわずかの間チベット仏教を学んだそうです。 ところがサラット居士がインドに帰ってから英領インド政府の命令でチベットの国情を取調べに来たのであるということが発覚して、サラット居士に関係あった役人すなわち 窃 ( ひそか )に旅行券を与えた者及び旅宿その他の者が獄に下された。 その際にこの高徳なる大ラマも死刑に処せられる事になりました。 その時の哀れな有様を聞いて私は思わず落涙致しました。 ちょっとそのお話を致しましょう。 当時チベット第一の高僧大獅子金剛宝は下獄の上死刑の宣告を受け 而 ( しか )して死刑に処せられた状態を聞きますに、実に仏教の道徳を備えた 御方 ( おんかた )はかくもあるべきものかと人をして讃嘆敬慕の念に堪えざらしむる事がございます。 私の説くところはただにその 弟子 ( でし )のシャブズン師から聞いたばかりでない。 その後チベットに入りラサ府において確かな学者から聞きましたものでその話の中にはなかなか感ずべき事が 沢山 ( たくさん )あります。 始めサラット 居士 ( こじ )が帰るや否やチベットに流説が起りました。 その時分に大獅子尊者はもはや自分に 禍 ( わざわい )の及ぶことを自覚して居られたけれども、ただ自覚して居られただけでその罪から身を免れるということもせられなかった。 その 尊者 ( そんじゃ )の意見なるものを聞くに「私はただ仏教をチベット人に伝うるのみならず世界の人に伝うるのが目的であるから、仏教を教えただけで決して彼が仏法を盗みに来たとかあるいはまた国内の事情を探りに来たということについては一つも私の 与 ( あずか )り知らぬ事である。 またそういう 素振 ( そぶり )も見えなかった。 我は我が本分を守って仏教を伝えたが為に罪ありとして殺されるならばぜひもないことである」と言って 自若 ( じじゃく )として居られたそうです。 この尊者は実に尊いお方で既にインドの方にも仏教を拡めたいという意見を持って居られたそうです。 というのは「もと仏教はインドの国から起ってチベットへ 伝播 ( でんぱ )されたものである。 しかるに今はかえってインドでは仏教が跡を絶ってしもうてその影すらも見ることが出来ない。 これ実に仏陀及び祖師に対し我々が 黙視 ( もくし )するに 忍 ( しの )びないことである。 どうかインドの国へ仏教を 布 ( し )きたいものである」という考えを持って居られた。 それはただ考えだけでなくそれがためにわざわざ人をインドの方へ 派遣 ( はけん )された。 今ダージリンのグンパールの寺に居らるる 蒙古 ( もうこ )の老僧セーラブ・ギャムツォ師もやはりその派遣者の一人であります。 その外にも同尊者の命を受けて来た者があったがそれほど功をなさなかったという。 同尊者はただに人を送るのみならず経文及び仏像、仏具等をインドの方へ送られて仏教を布くの材料に供せられた。 それらの点から考えても尊者は宗派的あるいは国際的関係を離れて全く仏教の 真面目 ( しんめんぼく )の意味を世界に布教したいという考えを持って居られた尊いお方であります。 日本の僧侶の中には外国布教の考えを持って居る者は沢山ありますが、チベットのごとき厳重なる鎖国においてそういう考えを 懐 ( いだ )いて居らるるというのは真に尊い事であります。 こういう尊い心の方であるからサラット居士が行かれた時分にも快く仏教を教えてくれたのでありましょう。 しかるに政府部内にはこの学識深遠にして道徳堅固なる尊者を 嫉 ( ねた )む者があって、何か折があればこの尊者を亡き者にしたいという考えを持って居る人も沢山あったそうです。 ところへそういう風説が起ったものですからこれ幸いとその風説を元としてダージリンの方に人を派遣し、だんだん取調べさせたところが、もとより事実でもありかつサラット博士は英領インド政府の依頼を受けて行ったに違いないから事実通りに確かめられて直ちに尊者は捕えられて入獄の身となり、またサラット 居士 ( こじ )に関係のあった他の役人らも皆入獄された。 で罪状いよいよ定まって 尊者 ( そんじゃ )は死刑の宣告を受けました。 それは「外国の国事探偵をその寺に住せしめてチベットの密事を 漏洩 ( ろうえい )したるが故に汝を死刑に処す」という宣告であります。 で、その宣告を受けて死刑に処せられた日は我が明治二十年の陰暦六月の何日であったか日は分らないが、六月の某日に同尊者はチベットの東方にコンボという国があってその国にコンボという大河があります。 実はブラマプトラ川であるがコンボの領内を流れるからその土地の人がコンボ川と名づけて居るです。 前にも申した通りいつもその第一弟子のシャブズン師が処刑当時の状況を話します時分には、その情真に迫って悲哀の感に堪えぬ様子で私も思わず涙を流して聞いた事でございます。 当日尊者はそのコンボ河畔の大なる 巌 ( いわ )の上に白装束のまま 坐 ( ざ )せられて居ります。 そこはいわゆる死刑に処する場所でありますので、尊者は静かにお経を読まれて居った。 すると死刑の執行者は「何か望みがあれば言って戴きたい。 また何か 喫 ( あが )りたい物があるならば言って戴きたい」と申し上げたところが「私は何も望むことはない。 ただ経文を少し読まなくてはならぬ。 経を読みおわると私が三たび指を 弾 ( はじ )くからその三たび目に私をこの川の中に投じてくれろ」と繩に掛りながら仰せられ、暫く経文を唱えて居られたが 神色自若 ( しんしょくじじゃく )として少しも今死に臨むという状態は見えない。 ごく安泰に 読経 ( どきょう )せられて居ったそうです。 大獅子金剛大ラマの水刑 その節この尊いお方が、人に憎まるるためにわずかの罪を口実に殺されるというのはいかにもお気の毒な事であるといって見送りに来て居った人が沢山ありまして、それらの人は皆涙を流して尊者の巌上にござるのを仰ぎ見る者もない位で、中には地に 俯伏 ( うつぶ )せになって大いに声を挙げて泣き立てる者が沢山あったそうです。 ただその諸人が泣くのみかその日の空は曇って 霏々 ( ひひ )として雨が降り出しました。 これ天地もかかる道徳堅固の尊者を無残にも水中に投じて死刑に処するということを悲しむにやあらんと思われるほど、空の色も 陰欝 ( いんうつ )として哀れげなる光景を呈して居ったそうでございます。 元来尊者は身に赤色の三衣を 纒 ( まと )わねばならぬ御身分ですが、罪人となって白い獄衣を着けて居られる上に荒繩で縛られたまま静かに坐禅して経を読んで居られましたが、やがて経を読みおわり繩目の間から少しく指を挙げて一度 爪弾 ( つまび )きをされたその時は、岸辺に群がる見送人は一時にワーッと泣き出したそうでございます。 尊者は 弾指 ( だんし )三たびに及んでもはや我を死刑に処せよという合図を致しましたが、死刑執行官吏は自分自ら尊者に手を 掛 ( か )けて川の中へ投げ込むに忍びず潜然と涙を流して見送人と共に 嘆 ( なげ )きに沈んで居る様はいかにも悲惨の状態であったです。 ところで尊者は静かに言わるるには「もはや時が来たのにお前達は何をして居るのか早く我を水中に投ぜよ」と促されて、立会官吏も泣きながら尊者の腰に石を 括 ( くく )り付けその石と共に静かに川に沈め暫くして上に挙げて見ますと、尊者は 定 ( じょう )に入られたごとくまだ呼吸を引き取って居りませぬ。 そこでまた一度沈めた。 もうお 逝 ( かく )れになったろうと思って挙げますとまだ 定 ( じょう )に入って居らるるようで死に切りませぬ。 この 体 ( てい )を見るより見送人は「この際どうか助ける道がないものか」と歎いて居りますと、死刑執行者も大いに歎いて今度は沈めることをようしなかった。 その時に当り尊者は静かに両眼を開き役人に向っていわるるには「 汝 ( なんじ )らは決して我が死を 歎 ( なげ )くに及ばぬ、我が 業力 ( ごうりき )ここに尽きて今日めでたく往生するのは取りも直さずわが 悪因業 ( あくいんごう )ここに消滅して今日より善因業を生ずるのである。 決して汝らが我を殺すのでない。 我は死後チベット仏教のいよいよ栄えんことを希望するのみである。 早く水中に沈めてくれるように」とせき立てられて役人達は泣く泣く水中に沈めて上げて見るともはやお 逝 ( かく )れになって居ったという。 それから尊者の死体を解いて手は手、足は足で水に流してしまったそうです。 私はこの事を聞いて悲しみに堪えられなかった。 私がもしチベットに入って後にまたこんな悲惨な事が起るような訳ではどうも行くに忍びない。 どうぞチベットへ入っても後にかかる惨事の起らないようにしたいものであるという考えはこの時からして私は充分に持って居りました。 かくも仏道を拡むる事を本趣意とせられて居る 尊 ( とうと )きお方が、かかる 奇禍 ( きか )を買い悲惨なる処刑に遇いながら人を怨まず天をも 咎 ( とが )めず自若として 往生 ( おうじょう )せられたという尊者の大量に至っては、これ仏教者の共に 欽慕 ( きんぼ )すべきところでございましょう。 ヒマラヤに匂ふ初日の影見れば 御国の旗の光とぞ思ふ この一年間は実に昼夜チベット語を専門に修める事ばかりに費やしました。 その結果として大抵これならばまあチベットへ行っても 差支 ( さしつか )えあるまいというだけ俗語の研究も学問上の研究もほぼ出来て来ましたから、いよいよ翌明治三十二年にチベットへ行くという決定を致しましたけれども、道は ということについて自ら調べなければならぬ。 その道についてはダージリンから 直 ( じか )に東北に出でニャートンを通って行く道もあり、その横に桃溪の間道もあります。 それからまたカンチェンジュンガという世界第二の高雪峰の西側を通ってワルンというチベットの国境へ出て行く道もあり、その 外 ( ほか )にシッキムから直に〔カンバ城に〕入って行く道もありますけれども、いずれも関所もありあるいは関所のない所には番兵が見張をして居りますから容易には入れない。 サラット博士の説では「ニャートンの関所へ掛り、我は日本の仏教徒で仏教修行に来た者であるから入れてくれろといって 懇切 ( こんせつ )に話をすれば入れてくれぬ事もあるまい」といわれたけれどもそれは 到底 ( とうてい ) 駄目 ( だめ )です。 私がチベット人について充分研究したところによるとそういう方法は取れない。 その外にブータンとネパールとの両国について道を発見することが出来る。 その両国の中私にとって最も利益の多い道はネパールの方であります。 ブータンには仏陀の古跡もなければまた研究するものも少ない。 もっともチベット仏教の高僧の旧跡などはありますけれどもそういうものは私にとっては余り 貴重 ( 〔必要〕 )の事でもない。 ただ必要なのはネパールにはいろいろの仏跡もありまたサンスクリット語の経文もあり、よしチベットに入り得られぬまでもこれらを取調べに行くということはよほど有益な事であります。 殊にこれまでは欧米人が入って居るけれども日本人でネパールへ入った者はまだ一人もないのでございます。 我々の研究する価値のある国ですから道をネパールに取ることが最も必要であります。 で、いよいよ ことにきめました。 そこで直にダージリンから西に進んでネパールに行くことができれば美しい山水の景色を見ることもでき、また仏跡にも参詣することができて誠に好都合ですけれどもまた危険な事があります。 このダージリンに居るチベット人はかねて私がチベットに行くためにチベット語を研究して居るということを皆聞き知って居るものですから、私がチベットの方向に向って出立すれば必ず跡を 踉 ( つ )けて来て私を殺すかあるいはチベットまで一緒に行って、チベット政府へ 告口 ( つげぐち )をすれば賞金を 貰 ( もら )うことができるという考えで注意して居る人が随分あったです。 それゆえにその追跡を免れるためには是非とも外の方法を 執 ( と )らなければならぬ。 そこで私はサラット博士だけにはチベットへ行くという秘密を明かしたけれども、その他の私に語学を教えてくれたラマ達には 俄 ( にわか )に用事ができて国へ帰ると告げてダージリンを出立しました。 幸いにその時には国の肥下、伊藤、渡辺諸氏の尽力で六百三十ルピー送ってくれましたから、その金を持って一旦カルカッタへ参りましたのは明治三十二年の一月五日であります。 その出立の時分に一首浮びました。 私はダージリンからカルカッタに着きいろいろ旅行用の買物をしましたが、その時にネパール国政府の書記官で今はチベットへ公使に 入 ( 〔行〕 )って居るジッバードルという人からネパール国に入ってから都合よく行くようにとのことで、二つの紹介状をネパールのある紳士に当てたのを 貰 ( もら )うことができました。 その月の二十日頃ブダガヤに参りました。 その当時ブダガヤにダンマパーラ 居士 ( こじ )が来て居られて、いろいろ話しましたが、折柄居士は「あなたがチベットへ行くならば法王にこの 釈迦牟尼如来 ( しゃかむににょらい )のお 舎利 ( しゃり )を上げて貰いたい」と言って舎利をおさめた銀製の塔とその捧呈書とそれから 貝多羅葉 ( ばいたらよう )の 経文 ( きょうもん )一巻を 託 ( たく )されました。 でダンマパーラ居士の言われるには「私も一遍チベットに行きたいけれどもなかなかあちらから来いというような許しでもなくてはとても入って行くことは出来ないだろう」と言うような話でありました。 私はその夜ブダガヤの 菩提樹下 ( ぼだいじゅか )の 金剛 ( こんごう )道場で坐禅を致しましたが実に愉快の感に堪えなかった。 釈迦牟尼如来が 成仏 ( じょうぶつ )なされた樹の下で私がまた坐禅することの出来るのは実に 幸福 ( しあわせ )であると我を忘れて徹夜致しましたが、菩提樹には月が宿りその影が 婆娑 ( ばさ )として 金剛坐 ( こんごうざ )の上に映って居る景色は実に美しゅうございました。 その時に 菩提樹 ( ぼだいじゅ )の 梢 ( こづゑ )に月のとゞまりて 明けゆく空の星をしぞ思ふ という歌を詠じました。 二日 逗留 ( とうりゅう )の後ブダガヤから北に向い汽車でネパールの方へ出掛けました。 一日一夜を経てネパールの国境に近いセゴーリという所の停車場に一月二十三日の朝着きました。 その停車場から向うへ二日行けばネパールの国境に着くのですがそれから先は英語も通用しなければチベット語も通用しない。 インド語を知って居れば進むに 差支 ( さしつか )えはない訳ですけれども、私はインド語もよく知らなければネパール語も知らない。 ネパール語を知らんでは何一つ物を買うことも出来ず道を 尋 ( たず )ねることも出来ぬ。 唖 ( おし )の旅行ではとても目的を達することはできないから、まずこのステーションに止まって幾分かネパール語の練習をしなければならぬ必要が生じたです。 幸いにセゴーリの郵便局長をして居るベンガル人が英語も知って居ればネパール語も知って居りますからその人に 就 ( つ )いて学び始めた。 まあ盗人を捉えて繩を 綯 ( な )うような話です。 けれども今日までは専らチベット語ばかり学んで居りましたから外の言葉を学ぶ暇がなかった。 学んだ所は一々手帳に記し道を散歩しつつその手帳を頼みにネパール語の復習をするのですが、私がそこに着いてその翌日例のごとくネパール語の復習をしつつ散歩して居りますと、汽車から上って来た人の中にチベット服を着けた四十 恰好 ( かっこう )の紳士と同じくチベット服を着けた五十余りの老僧とその 下僕 ( しもべ )ともいうべき者が二人、都合四人連の一行がこちらを指して来るです。 「こりゃよい所にチベット人が出掛けて来た。 どうかこの人に一つ話をつけて一緒に行くような都合になればよいが」と思いましてその人の 端 ( はた )に行き「あなたはどちらへお越しですか。 」「私共はネパールの方に行く」という。 「それじゃああなたがたはチベットから来たのですか。 」「いやそうでもないけれどもこの中にはチベットから来た人も居る」という。 で私に向っていいますには「あなたは一体どこか。 」「私はシナです。 」「どちらからお越しになったのか。 海の方から来られたかあるいは陸の方から来られたか」という。 ここでもし私が海の方から来たといいますと彼らの疑いを受けて私は到底ネパール国にも入ることが出来ない位置に在るのです。 というのはこの時分に海の方から出て来るシナ人はすべてチベットには入れぬ事になって居ります。 陸の方から来たといえば大抵チベットから来たという意味になりますから、そこで私は「陸の方から来た」と答えて話をしつつ私の泊って居ります 茅屋 ( あばらや )の方へ一緒に参りました。 私の泊って居る所は竹の柱に 茅葺 ( かやぶ )き屋根というごく粗末な家でその向う側にもまたそんなような家があります。 それは皆旅人の泊る所ですが別段宿賃を払う訳でもなしただ 薪代 ( まきだい )と 喰物 ( くいもの )を買うてその代を払うだけの事です。 その紳士の一行も向い側の 茅屋 ( あばらや )に入ってしまいました。 もちろんこの辺にはホテルなどという気の 利 ( き )いたものもなくまた宿屋らしいものもない。 その木賃宿が 旅籠屋 ( はたごや )であるです。 暫くするとその紳士と老僧が私の所へ尋ねて来まして「時にあなたはシナ人であるというがシナはどこか。 」「 福州 ( フーチュ )です」というと「あなたはシナ語を知ってるだろうな。 」こりゃ困ったと思いましたが「知って居ります」というとその紳士は大分にシナ語が出来ますのでシナ語を使い出したです。 私はそんなに深く知らぬものですからちょっとした事しか答えは出来ぬ。 甚だ困りましたが 俄 ( にわか )に一策を案出した。 「あなたの使って居るシナ語はそりゃ北京語だ。 私のは福州の言葉ですっかり違うからとても話が分らぬ」というと紳士は「あなたはシナの文字を知って居るか。 」「知って居ります。 文字で話をしましょう」と言って鉛筆で書き立てますと彼には 解 ( わか )る字と解らぬ字があったものですから「こりゃとても文字でも話をすることが出来ぬ」という。 「そんならチベット語で話をしましょう」といってチベット語で話をすることになりまして、だんだん話が進みついに紳士は「あなたは陸から来たというがチベットのどこから来たか」と尋ねますから「実はラサ府からダージリンを 経 ( へ )てブダガヤへ 参詣 ( さんけい )に来たのであります」というと紳士は「ラサ府のどこに居られるのか。 」「セラという寺に居ります。 」「セラにジェ・ターサンのケンボ(大教師)をして居る老僧が居るがあなたは知って居るか。 」「そりゃ知らん事はない」といって、幸いに私がラマ・シャブズン師から聞いて知って居った事ですからうまく答えが出来たです。 知って居る話ばかり聞いてくれればよいけれどもそうでないと 化 ( ばけ )の皮が顕われますからあまりむこうから尋ね掛けないように機先を制して、かねてシャブズン師から聞いて居った 機密 ( きみつ )の話を持ち掛けた。 それはシャッベー・シャーターという方はこの頃自分の権力を張るために大分にテンゲーリンに対し悪意を持って居る様子であるという次第を説明したところが、紳士は大いに私を信じてもはや一点も疑いないようになりました。 シャブズン師に聞いたお話が大分に活用できた訳でございます。 その紳士は語を改め「あなたはこれからネパールへ行くというが誰の所へ尋ねて行くか。 これまで行った事があるか」という。 「いや一度も行ったことはない。 それゆえに紹介状を持って来ました。 」「それはどこの誰からの紹介状ですか。 」「実はカルカッタにおいてネパール政府の大書記官ジッバードルという人から紹介状を二通貰って来ました。 その紹介状はネパールの 摩訶菩提 ( マハーボーダ )の 大塔 ( だいとう )のラマにあててあるのです。 そのラマの名は忘れましたがその書面には書いてあります。 このジッバードルという人は領事としてチベットに八年ばかり居って大変によくチベット語の出来る人です」といって 委 ( くわ )しくその紹介状を貰った手続を話しますと、紳士は「そりゃ妙だ。 その紹介状を書かれたジッバードルという人は私の友達だが一体誰に宛ててあるのか私にその書面を見せてくれまいか」というから「よろしゅうございます」といって荷物の中からその紹介状を出して示しますとジーッとその上書を見て居りましたが「こりゃ奇態だ、この書面で紹介された主は私です」という。 ネパールで友達というのはなかなか重いことでほとんど兄弟というほどの意味を持って居ります。 それゆえに友達と縁を結ぶ時分にも一種 奇態 ( きたい )の 礼式 ( れいしき )があって、ちょっと婚礼のような具合に沢山御馳走を 拵 ( こしら )え多くの親類縁者を呼び集めてその式を挙げます。 委しい事はくだくだしいから申しませんがつまり酒を飲む人ならば互いに盃を取かわし 下僕 ( しもべ )らにも相当の 祝儀 ( しゅうぎ )をやらなくてはならぬ。 そう言う式を挙げた上でなくては友達ということを許されない。 その紳士と私の持って居る紹介状の主とはいわゆる親友の間柄であります。 僥倖 ( ぎょうこう )にもその紳士が 大塔 ( だいとう )のラマだといいますから私は「誠に奇遇であります。 どうかよろしく頼む」といいますと「就いては明日一緒に行くことにしましょうがあなたは馬か車に乗ってお越しになりますか。 」「私はいずれでもよろしい」というと「あなたのようなよい 同伴 ( つれ )を得たのに馬に乗って話もせずに走って行くのは面白くない。 この間大分に面白い景色の所もあるからぶらぶら話しつつ歩いて行ったならばよほど愉快であろうと思うがそうしたらどうでしょう」とこういう話。 「それは願うてもない幸い、そう願えれば誠に結構です。 」というのは私の考えではそういう話の中にもネパールの国からうまくチベットに入る道を発見することができれば大いに便宜を得ることであるという考えで、大いに喜んでいよいよ一緒に行くことになりました。 ところへその紳士の 下僕 ( しもべ )が二人真っ 蒼 ( さお )になって駈け付け「大変です、泥棒が入りました」というような訳で老僧と紳士は 慌 ( あわ )てて帰ってしまいました。 衣類と三百五、六十ルピー入って居た 鞄 ( かばん )を一つ取られたそうです。 後に宿屋の主人に聞きますとかの泥棒は大変私の物を盗もうとて、うかがって居たのだそうです。 私の難を紳士が受けたようなもので、まことにお気の毒でござりました。 その紳士の名はブッダ・バッザラ( 覚金剛 ( かくこんごう ))その老僧はラサ府レブン大寺の博士でマーヤル( 継子 ( ままこ ))というなかなか 剽軽 ( ひょうきん )なお方でした。 一月二十五日早朝から出立して平原を北に進んで行きました。 翌日にネパール国境最初の関所でビールガンジという所に 着 ( き )て、そこで私はチベットに居るシナ人として通行券を貰いました。 その翌 出立 ( しゅったつ )してタライ・ジャンガルという 大林 ( だいりん )でヒマラヤ山の玄関というべき入口より少し前の村で宿りまして、その翌二十八日大林入口のシムラという村を過ぎて 幅 ( はば )四里の大林を一直線に横ぎってビチャゴリという山川の岸にある村に 着 ( き )て宿りました。 夜の十時頃日記を 認 ( したた )めつつ荒屋の窓から外を眺めますと、明月 皎々 ( こうこう )として大樹の上を照らして居るに河水 潺々 ( せんせん )としてなんとなく一種 凄寥 ( せいりょう )の気を帯びて居ります。 時に大地も 震動 ( しんどう )しそうなうら恐ろしき大声が聞えました。 なんの声かと宿主に尋ねますとあれは虎が肉を喰ってから川に水を飲みに来て唸ってる声であるとのことを聞いて思わず一つの歌ができました。 月清しおどろにうそぶく虎の音に ビチャゴリ川の水はよどめる ヒマラヤ山中虎声を聞く その後二日間 溪流 ( けいりゅう )あるいは 林中 ( りんちゅう )あるいは 山間 ( さんかん )を 経 ( へ )てビンビテーという駅に着きました。 この駅までは馬車、牛車、馬も通りますけれども、ここからは急坂ですから歩行かあるいは 山籠 ( やまかご )でなくば行くことが出来ませぬ。 私共はやはり歩行で朝四時から大急なる坂を上りましたが、ちょうど一里余上りてチスパニーという関所に着きました。 ここには税関があって出入の物品に課税して居ります。 また 砲台 ( ほうだい )があって守備の兵士も大分居ります。 そこで我らは取調べを受けましてチスガリーという峰の頂上に上りましたが、ここから始めて白雪の妙光 皚々 ( がいがい )たるヒマラヤの大山脈が見えます。 これはダージリンあるいはタイガヒルなどで見た 類 ( たぐい )でありませぬ。 非常に壮観なものであります。 その峰を超えてその夜はマルクーという駅に宿りまして、翌二月一日早朝チャンドラ・ギリーすなわち月の峰に上りまたヒマラヤ山脈の妙光を見まして少しく下ると、山間におけるネパール国の首府カトマンズ付近の全面が見えます。 同行のブッダ・バッザラ師は山原中に二つの大金色を虚空に放つところの大塔を礼拝して私に示していいますには、かの一つの大塔は 迦葉波仏陀 ( カッサパぶっだ )の舎利塔で他の一つは 尸棄 ( シキー )仏陀の舎利塔であるといわれたから、私は大いに喜んで礼拝致しまして、その急坂を下りおわりますとブッダ・バッザラ師の出迎えとして馬二 疋 ( ひき )に人が四、五名来て居りました。 私共はその馬に乗りその村の近所へ着きますとまた二十四、五名の人が迎えに来ました。 セゴーリという停車場からここまでおよそ五十里ほどであります。 カトマンズの 大塔 ( だいとう )村はいわゆるボーダという名で 迦葉波仏陀 ( カッサパぶっだ )の大塔の周囲を廻って居るのであります。 ブッダ・バッザラ師はすなわちこの村の長でまた大塔の主人であるです。 このボーダの大塔をチベット語でヤンブー・チョェテン・チェンボという。 ヤンブーはカトマンズの総称でチョェテン・チェンボというのは大塔というチベット語であります。 チベットでは大なる塔のある所は直にチョェテン・チェンボというて居りますが、この塔の本当の名はチャー・ルン・カーショル・チョェテン・チェンボといいますので、これを訳すると「成すことを許すと命じ おわれり ( 〔おわる大塔〕 )」という意味でこのような名の起ったのには 因縁 ( いんねん )のあることで、この大塔の縁起によりますと釈迦牟尼仏の前の仏で 迦葉波 ( カッサパ )仏がなくなってから後に、チャチーマという老婆が四人の子と共に迦葉波仏の遺骨を納めたとありますが、その大なる塔を建てる前にその時代の王にその老婆が大塔を建つることを願い出てその許可を受けました。 しかるにその後老婆と子供とが非常に尽力して大塔の台を築いた時分に、その時の大臣長者の人々は皆驚きましていいますには、かの貧困の一小老婆がかかる大塔を建てるとすると我らは大山のごときものを築かねば釣合の取れぬことだから、これは是非とも中止さすが好かろうと相談一決して王に願うてその次第を述べますと、王は答えて「既に我はかの老婆になすことを許すと命じおわれり。 王者に二言なし、いかんともすること能わず」と。 これによって「許成命了之大塔」という名になったのであります。 しかしこの塔の出来たのは多分釈尊以後の事であろうと思います。 (〔ネパールが文殊菩薩によって開かれた後の事だと思われます。 〕) 毎年陰暦の九月中頃から二月中頃までチベット、モンゴリヤ、シナ及びネパール等から沢山な参詣人が来ます。 夏季はヒマラヤ山中を旅行するとマラリヤ熱に冒されますから冬季に向ってから出掛けて来ますのでその中で最も多いのはチベット人であります。 チベット人の中でも貴族とか郷士とかいうような参詣人はごく少ないです。 一番多いのが巡礼乞食で、これらは 糊口 ( くちすぎ )のために廻って歩くので冬分はこの大塔へ来て居りますが夏になればチベットの方へ出掛けて行きます。 ここで私は一番 肝腎 ( かんじん )な仕事は何かと言えばまずどこからチベットへ入ればよいかということです。 ネパールへ来たとはいうもののネパールから入る道も沢山ありますからその道筋についてどこがよいかということを研究しなくちゃあならぬ。 けれどもその事をブッダ・バッザラ師に明かす訳に行かぬ。 というのは宿の 主人 ( あるじ )は私はもちろん公道を通ってラサ府に帰りラサ府からシナへ帰るシナ人であると信じて居るからです。 よしそれを明かしたところで、この人はやはりネパール政府のチベット語の訳官をして居るのですから、そういうことを知りつつ大王に申し上げない時分には罪になりましょうから、いずれ私が話をすればきっと大王に奏上するに違いない。 さすれば私はチベットに行くことができぬようになりますから、そこで恩人ではあるがブッダ・バッザラ師に明かすことができぬのです。 ブッダ・バッザラ師は世間の人からギャア・ラマすなわちシナの国の 上人 ( しょうにん )と言われて居る。 というのはこの人の 阿父 ( おとっ )さんはシナ人でネパールへ来て妻君を貰うてこの 大塔 ( だいとう )のラマになったのです。 このラマは旧教派に属して居ますからむろん妻君を貰うても差支えないのです。 ギャア・ラマは私を同郷の人であると言うて大変 好誼 ( よしみ )をもって世話をしてくれました。 それはともかく私は外に何とか方法を求めて道を 穿鑿 ( せんさく )しなければならぬ。 幸いにこの大塔へ参詣に来て居る乞食の巡礼者はいずれも皆チベットから出て来た者が多い。 これらについて道を尋ね研究することが必要であるという考えから私はそれらの乞食になるべくよけいの金銭を遣るようにしました。 それも一度ならず二度も三度も 強請 ( ねだ )らるるままにやるものですから大いに心服して、シナのラマはなかなか豪い方だと言って大いに私を信用するようになりましたからある時は私は「どうだ 己 ( おれ )は名跡へ参詣したいが案内して行ってくれないか。 」「ようございます。 案内いたしましょう」という。 その道々「お前はチベット人だというがこのネパールへ来るにどの道を通って来たか」と尋ねたところがテンリーから参りましたという者もあるです。 そのテンリーという道にもやはり三重、四重の関所があって容易に通り越すことが出来ない。 で、その道筋の関所の在る所は間道を通っても容易に通れぬと言う。 しかし関所の在る所を通って来る時分にはどうしても多分の 賄賂 ( わいろ )を使わなければ通してくれぬということはかねて聞いて居りましたから、私はその巡礼に向い「お前は乞食の身分で関所のあるテンリーを通って来たというのは嘘だ。 どこか間道から来たのだろう。 そんな嘘を 吐 ( つ )くに及ばぬじゃないか」と 詰 ( なじ )りますと「あなたはよく御承知ですな。 実はこういう間道があってそこを通って来ました。 その道はあまり人の通らない所です」というようないろいろの話をするです。 そういう話を聞いて居る間に道筋の幾つもあることが分って来たです。 で一人の乞食に聞いた事を材料にしてまた外の乞食に向い「お前こういう間道を通ったことがあるか」と尋ねますと「その道は通らないけれどもニャアナムの方にはこういう間道があります」というような訳でだんだん取調べて見ますとなかなか道が沢山あります。 けれどもネパールの首府からチベットの首府まで達する間にはどうしても一つか二つ位本道の関所へ掛らなければ行かれない。 例えばニャアナムの間道を取ればキールンの関所へは掛からずに済みますがその向うの関所で取り押えらるる憂いあり、またシャルコンブの間道を行けばテンリーの関所で取り調べられるというような都合でどうもうまく 脱 ( ぬ )けることができない。 いろいろ 穿鑿 ( せんさく )をしてみましたけれどもどうしてもネパールの首府からチベットの首府へ遠廻りをせずに行く間道はいずれも 険呑 ( けんのん )です。 必ずひと所か二所は関所を通らなければならぬ。 そういう場合には巡礼乞食はどうするかというと一生懸命に頼み少しばかりの物を納めて通して貰うのだそうです。 しかし私はチベットの乞食と違い押問答をして居る中には充分こちらに疑いを受けるだけの材料を備えて居りますから、そういう間道を通って行くことは甚だ危険であります。 だんだん穿鑿をして居る 中 ( うち )にここによい道を発見することが出来ました。 しかしこの道は大変大廻りをしなければならぬ。 普通なればネパールの首府から東北に道を取って行くのが当り前ですがそうでなく西北に進みネパール の ( 〔国〕 )境のロー州に出て、ロー州からチャンタンすなわちチベットの西北原に出で、なお西北に進んでマナサルワ湖の方に廻り、一周してチベットの首府に行く道を取れば関所を経ずにうまく入れるという道順が分りました。 これ実に私の取るべき間道であるとあらかじめ決定致しました。 道はあらかじめわかりましたが何も口実なしにその道を通って行くと決めますと、どうもこいつは怪しい男であるという疑いをブッダ・バッザラ師に起される 虞 ( おそれ )があります。 しかるにここに口実として甚だよい材料を見出した。 というのは、マナサルワ湖は経文にいわゆる 阿耨達池 ( アノクタッチ )であるということについては学問上 種々 ( しゅじゅ )の異論がありますが、とにかく普通の説に従えば阿耨達池であるという。 その阿耨達池の傍に在る天然の 曼陀羅 ( まんだら )なるマウント・カイラスは仏教の霊跡でありますから、その霊跡に 参詣 ( さんけい )するという口実を設けて行くに 若 ( し )くはないと考えました。 で、ある時にギャア・ラマに向い「私は折角ここまで来たのにむざむざチベットを 経 ( へ )てシナに帰るというのは誠に残念なことである。 シナの経文の中にチベットにはマパム・ユムツォすなわち阿耨達池があって、その岸に 聳 ( そび )えて居る山を蔵語でカン・リンボチェといって居るが、私はその山に参詣したいという 願心 ( がんしん )が起ったからどんな難儀をしても ちょっと ( 〔ぜひ〕 )行ってみたいと思うがどうでしょう。 荷持 ( にもち )を頼むことが出来ますまいか」と言いますとギャア・ラマは「やあそれは 結構 ( けっこう )な事だがお止しなさるがよろしい。 行く道は大変困難でもあるし殊に西北原には道などはありはしない。 私も是非一遍参詣したいと思って居るけれども第一容易に食物を得られないから行くには充分食物の用意もして行かねばならぬ。 それに強盗が沢山居るから多くの同勢を連れて行かないと殺されてしまう。 そんな訳で今まで延びて居るですがどうも荷持の一人や二人連れて行くのはつまり殺されに行くようなものですからおよしなさるがよろしい」と言ってだんだん私に説き勧められた。 そこで私は「そりゃ殺されに行って死んでしまえばそれで役目が済みます。 もと生れて来た限りにはいずれとも死んで行くのです。 まず仏法のありがたい所に 参詣 ( さんけい )するために殺されるというような事はこりゃ実にめでたい、結構な事であります。 私は死ぬことはなんとも思わない。 もし死ぬ時が来ればチベットの 曠原 ( こうげん )で泥棒に殺されないでもここに豊かに暮して居っても死ぬにきまって居るから決して構わぬ。 どうか 荷持 ( にもち )を世話をして戴きたい」と言ってだんだん私の決心を話しますと「それほどまでの御決心なら仕方がないからまあ一つ見つけましょう」と言って人をかれこれ捜してくれました。 ところがカムという国すなわち泥棒の本場の国の人間ですけれども、大分に正直らしい巡礼を二人頼んでくれた。 それに巡礼のお婆さんがある。 そのお婆さんは六十五、六ですけれどもなかなか 壮健 ( たっしゃ )で山を 駈 ( か )け歩くことが出来ます。 その三人と出掛けることになりましたが、ギャア・ラマはこの二人の荷持は親切にあなたに仕えるかどうかと見届けるためにツクジェという所まで送らせますからと言って人を一人つけてくれました。 主従五人、私はギャア・ラマから買った白馬に乗って出掛けました。 なかなか良い馬で、 嶮岨 ( けんそ )な坂でもほとんど人が手足で登り駆けるかのごとくうまく進みました。 ちょうど三月初めっ 方 ( かた )にカトマンズを出て山の中を西北に進み一日坂を登ってはまた一日降るというような都合で、里程およそ八十五里、十日の日数を経てポカラという山間の都会に着きました。 ポカラという所はネパール山中では甚だ美しい都会であたかも日本の山水 明媚 ( めいび )なる中に別荘が沢山建ててあるかのごとくに見えます。 竹の林に花の山、新緑 鬱茂 ( うつも )して居るその上に、 魚尾雪峯 ( マチプサ )より流れ来る水は都会の周囲を流れて遠く山間に流れ去るという。 私が通った中ではネパール第一の美しい都会でありますが、その水の色は米の 洗汁 ( とぎじる )のような色です。 これは多分山間の土を溶かして来るのでございましょう。 この都会はネパール国中で一番物価の安い所で、米などはごく安いのは二十五銭で四升位、普通二升五合位、それに準じて物も 総 ( すべ )て安い。 物産は銅で製した器具類。 私はテントを 拵 ( こしら )える必要がありますので六日ばかり逗留しましたが、二十五ルピー(一ルピーは六十七銭)で中で 煮炊 ( にたき )の出来る位の広さのテントが出来ました。 それからポカラを後にして北方に進みましたがなかなか 嶮 ( けわ )しい山で馬に乗れない場所が沢山あるのです。 それゆえにまず馬をわざわざ谷間に廻して半日位歩いてまた馬に乗るというような都合にして行ったです。 ある日の事私の荷持は先に立ち馬を導いてくれるものですから、私は別段心も 留 ( と )めず行く先々の事を考えつつ馬に乗って進んで行きますと自分の眼先に樹の枝が横たわって居ります。 ハッと思ってその枝を 避 ( よ )けようとする 途端 ( とたん )に馬は進む。 私は仰向けになるという訳でとうとう馬から落ちてしまいました。 幸いに馬も気がついたと見えて走り上らずにジーッと踏み止まり、私もまた 手綱 ( たづな )を放さずにしかと握って居りましたから、岩で痛く腰を打っただけで谷へは落ちませんでしたが、もしその時馬が驚いて 駈 ( か )け出すか、私が手綱を放しますと と消えてしまったのでございます。 これはいい 塩梅 ( あんばい )だと思って立とうとするけれども、よほど 酷 ( ひど )く腰を打ったと見えてどうしても立つことが出来ない。 で、その山の頂上まで十 丁 ( ちょう ) 程 ( ほど )ある所を 下僕 ( しもべ )二人に 負 ( お )ぶさって昇りましたけれども、何分にも痛くて動けませんので二日ばかり山中に 逗留 ( とうりゅう )いたし、幸いにカンプラチンキを持って居りましたから自分でよく腰を 揉 ( も )んでそれを 塗 ( ぬ )ったり何かしたので、格別の事もなく治ってしまいました。 三日目に馬は谷間の方から先に廻し、私達は世に 謂 ( い )う深山 幽谷 ( ゆうこく )というのは真にこういう所を言うのであろうというような恐ろしい深山幽谷の間を歩いて参りますと、カックー、カックーという 杜鵑 ( ほととぎす )の声が幾度か聞こえます。 その時に ヒマラヤの 樹 ( こ )の 間 ( ま ) 岩間 ( いはま )の 羊腸折 ( つづらをり ) うらさびしきに 杜鵑 ( ほととぎす ) 啼 ( な )く そういう 淋 ( さび )しい山の 間 ( あい )を通って参りましたが、人は一日二日交わって居る間は誰も慎んで居りますからその性質等も分らんけれども、長く伴うに従って 自 ( おのず )からその人の性質も現われて来るもので、二人の 荷持 ( にもち )のうち一人は非常に大きな男でごく果断な 質 ( たち )、一人は甚だ温順ですがちょっと読み書きも出来るという訳で大分に自負心も強い。 それが果断の人の気に喰わないで折々衝突が起ります。 お婆さんの巡礼は正直な人で二人の荷持については何事も知って居るらしく見えます。 私は誰にも同じように付き合って居ります。 殊にそのお婆さんは大変に酒好きですから宿場に着くと荷持は申すに及ばずそのお婆さんにも同じように買って 遣 ( や )ります。 またいろいろ人からくれた物などがあると、殊に老人は 可哀 ( かあい )そうですから 沢山 ( たくさん )遣るようにして居りました。 老婆はそんな事に感じたのかあるいはまた私が日に一度ずつ飯を喰って少しも肉類を 喰 ( く )わぬということに感じたものか、何しろ大変私を 敬 ( うやも )うて少しも巡礼視するような風が見えませんでした。 で、そのお婆さんは何か私に 秘密 ( ないしょ )で言いたいような 素振 ( そぶり )が見えますが他の二人の男を 憚 ( はばか )って居るらしい。 それから私が気転を利かしてある日お婆さんを先に立たして私は馬、二人の 下僕 ( しもべ )は 徒歩 ( かち )で出掛けましたが、彼らは荷を背負って居るのですから大分私より遅れ、私はとうとうお婆さんに追い付きまして共に話しつつ行きますとそのお婆さんは「あの二人の人たちはよほど 後 ( あと )ですか」という。 「そうさ二里位遅れて居るかも知れぬ。 」「実はこの間からあなたに 内々 ( ないない )申し上げたいと思って居った事ですが、実は彼の二人の荷持はあなたの身にとっては恐ろしい人です。 一人はカムで人を殺しまた強盗をした人です。 もう一人はそれほどにもないけれども 喧嘩 ( けんか )をして人を殺した事のある人でどうせ二人とも人を殺すのを何とも思いはしません。 しかし一人の温順な方はまさかそんな事はありますまいが、一人の方はあなたが西北原へお越しになればきっとあなたを殺してお金や何かを取るに違いありません。 どうもあなたのような御親切な尊いお方がああいう悪い人のために殺されるかと思うとお気の毒で 堪 ( たま )りませんからお話し致します」と言う。 「なにそんな事があるものか。 あの人たちは大変正直な人だ」といいますと、老婆は本気になりまして「 南無三宝 ( クンジョスム )、もしこの事が 偽 ( いつわ )りであるならば私に死を 賜 ( たま )え」と証拠立てたです。 これはチベット人の間に普通に行われて居る誓いの仕方であります。 その上お婆さんのいうことは偽りであろうとも思われず、どうもその様子を見るに全く事実らしい。 はて困った事が出来たとこれにはなんとか方法を 廻 ( めぐ )らさねばならぬと考えました。 私は 荷持 ( にもち )二人を 気遣 ( きづか )いながら四十里の路を六日間かかってヒマラヤ山中のツクジェという村に着きました。 そこにはハルカマン・スッバという知事が居りますがその知事の宅へギャア・ラマの紹介で泊ることになりました。 其家 ( そこ )へ泊って一両日 経 ( た )ちますとギャア・ラマの好意で送られた 下僕 ( しもべ )は、まあこの 塩梅 ( あんばい )なら大丈夫でございましょうといって帰ってしまいました。 けれども私はこの二人の下僕を追い払わなくてはチベット行を全うすることができぬと案じて居る矢先に、いろいろ話を聞きますとこれから北のロー州を過ぎて行く間道にはこの三ヵ月以前からチベット政府が五名の兵隊を置いて道を守らしむる事になったから、外国人あるいは風の変った人間は誰も入ることが出来ぬようになったという。 それはこの間道ばかりでなくいずれの間道でも、人の一人でも通って来られるような所にはすべて五名ずつの兵隊に道を守らしむる事になったという 噂 ( うわさ )、だんだん聞いて見ると事実で、とてもこの間道からチベット高原へ進むことが出来ぬようになりました。 ここに蒙古の博士でセーラブ・ギャルツァン( 慧幢 ( えどう ))というお方が来て居りますが、なかなかの学者で 僧侶 ( そうりょ )らに経文を教えて居る 傍 ( かたわ )ら医者の真似をして居ります。 その人がしばしば私の所へ遊びに来て話をしました。 ある夜荷持二人が酒宴をして居りました 揚句 ( あげく )喧嘩を始め、いよいよ悪漢の本性顕わして互いにその身の悪事を 罵 ( ののし )り合って居る所を聞くと、老婆の言う通りの悪漢でその互いに言うところを聞きますと、手前は強盗をして人を殺したに似合わず表部は猫のように柔和な姿をして居るが、時が来たら鼠を 掴 ( つか )むようにシナのラマに荒い仕事をしようと考えて我を邪魔にするのであろうといいますと、一方はそりゃ手前の考えを手前にいって居るのだからよしおれが邪魔になれば退いてやろうというような事で、非常な争いをした揚句私の 許 ( もと )に来て、彼が居れば私に暇をくれと互いに言いましたから、それを 倖 ( さいわ )いに相当の礼金を 遣 ( つか )わして断然その二人を解雇し、老婆にも小遣いとカタを与えて放してしまいました。 ところで私の執るべき方針は今 直 ( ただ )ちに西北原へ進んだところが到底行けるものでない、といって後へ帰ることはむろん出来ない。 なんとか方法を 運 ( めぐ )らさねばならぬと考えて居ります 中 ( うち )に、この間から私の所へ 度々 ( たびたび )遊びに来る 慧幢 ( ギャルツァン )博士はただに仏教上の学問あるばかりでなく文学上の学問もありますから、博士と相談の上私は博士にシナ仏教の説明をし博士は私にチベット仏教及び文学を教えるという約束で、博士の住んで居るロー、ツァーラン指して参ることにしました。 その途中のチュミク・ギャーツァ(百の泉という意味)すなわちサンスクリット語にいわゆるムクテナートと言って居る霊跡に参詣致しました。 ムクテナートというのは首の 蔵 ( おさ )め所という意味、すなわちマハーデーバの首を蔵めた所であるといって今インド教では名高い霊跡としインド教徒も仏教徒も共に霊跡として尊崇して居ります。 百の泉というのは申すまでもなく百の泉から百条の水が流れ出るというところからそういう名を付けたので、なおその百泉という所にはサーラ・メーバル(土に火が燃る)、チュラ・メーバル(水に火が燃る)、ドーラ・メーバル(石に火が燃る)という名所があってなかなか名高い。 どんな所かと思って行って見ましたところが、実に馬鹿気た話で縦二尺に横一尺位の岩の間に美しい泉がある。 その水平線より少し上の岩の間に穴があってその穴から火が出るのですが、その火が水の上を 匐 ( は )って上に 騰 ( あが )るのです。 愚民がこれを見ると全く水の中から火が燃えて出るように見えるのです。 その他も皆そんなもので一向 不思議 ( ふしぎ )な事はないが、この辺の山の一体の形を見ますと 古昔 ( むかし )は噴火山があったのじゃああるまいかと思われるような 形跡 ( けいせき )もあります。 というのは雪の 積 ( つも )ってある向う側には昔の噴火口の跡らしき池があるのみならず、この辺の岩は普通の山の岩と違って皆噴火山の岩であるからです。 そこの参詣を済まし山を降ってカリガンガーという川の端に出て一夜を明かしました。 乗馬陥泥の難 その翌日川に 沿 ( そ )うて上りました。 浅き砂底の川を 対 ( むこ )うに渡らんとて乗馬のまま川に入りますと、馬は二足三足進んで深き泥の中に腹を着くまで 陥 ( おちい )りました。 私は早速馬より飛び下りましたが博士も馬上で驚いて居られたが、下馬していいますには馬はとても駄目だがあの荷物を取る工夫はあるまいかといわれました。 そこで私は 直 ( すぐ )に着物を脱いで山に少しく上りて大いなる石を一つ馬の居る側に 擲 ( な )げつけましたが、馬は自分を打たるると思ってかびくびくして居りました。 こんな事をしますのは大きな石を沢山泥の中へ入れて馬上の荷物を取るための足場を造るつもりです。 ところでまた大きな石を前の石の上に 擲 ( な )げんとしますと馬は私の様子を見て非常に恐れて居りましたが、やがてズドンと一つ擲げますと馬は大変な勢いで飛び上って 対 ( むこ )うの岸へ着きました。 それから博士と共に博士の馬を渡す道造りに大石を泥中に沢山 擲 ( な )げました。 およそ三、四時間土木業をやってようやくの事で自分らと博士の馬をも対岸に渡すことが出来ました。 それからサーマル(赤土)という村に着きその翌日山の中をだんだん北へ北へと行きました。 いわゆるドーラギリーの北の方に進んで行くのであります。 ツクジェ村から下の山には松、杉の類がありましたけれどもこの辺にはそういう樹はなくてただ 檜葉 ( 〔ねずの木〕 )が沢山生えて居るだけです。 その 檜葉 ( ひば )とても高さ一丈五、六尺から二丈位の樹があるだけでその 外 ( ほか )には 灌木 ( かんぼく )しかございませぬ。 そういう雪山の中を五、六里ばかり参りますとキルンという小村がありますが、その村には柳の樹が大分に生えて居りました。 外には別に変ったものはございませぬ。 で、この辺に住んで居るのはチベット人ばかりでネパール種族は居りませぬ。 ですからその屋根の隅々には皆白い旗を立ててありましてその旗には真言の文句を木版 摺 ( ずり )にしてあります。 これはチベットのどこへ行っても見ることが出来るので、たといテントを張ってある所でもそういうような旗が立ててあります。 その村を通り抜けてだんだん北へ北へと雪山を進んで行きますとちょうど日が暮れたです。 深い谷間には 檜葉 ( ひば )の木が沢山生えて居りますが 杜鵑 ( ほととぎす )は月の出たのを悦びてか 幽邃 ( ゆうすい )なる谷の間より美しい声を放って居ります。 行き暮れて月に宿らむ 雪山 ( ゆきやま )の 淋 ( さび )しき空に 杜鵑 ( ほととぎす ) 啼 ( な )く やがてキミイ(福泉)という雪山の間の小村に着いて宿り、その翌日北に進んで行くこと四里ばかりにしてツァーラン村が見えます。 もはやこの辺は西北原へ一日足らずで出られる所でありますから、雪山とはいいながらほぼ西北原と変らぬような有様で山はなんとなく淋しく樹は見えませぬ。 私のツァーランに着いたのはちょうど五月中頃でございましたからようやく麦を 蒔 ( ま )き付けた位でした。 村の様子を見ますと四方は皆雪山をもって 繞 ( めぐ )らし東西四里半、南北はごく広い所で一里半程の高原地にある村落で、しかして西の雪峰から東の方の谷間へかけてごく緩い斜線状になって居りますが、その斜線状に沿うて西の雪峰から流れ来る川があります。 これがすなわちカリガンガーという大いなる川の源をなして居るのであります。 その川はツァーランという村の下を廻って南の雪峰の方に流れ去りその 河岸 ( かがん )の遙か上に村があるのですが、その村のある一部に小高い山がある。 その山の上にロー州の王の住んで居る城があります。 ゴルカ種族がネパールを統一するまではこのロー州もやはり独立して居りました。 その城と相対して大分大きな寺がありますが、これはチベットの旧教の一派で カルジクパ ( 〔カーギュッパ〕 )という宗派に属して居るのです。 で、その寺はやはりチベット風の四角形の石造りの堂で赤塗になって居ります。 その本堂に沿うて建てられてある白塗の石造りの家屋はすなわち僧舎であります。 その城と寺との西側の平地の間に当り大小三十軒ばかりの村が見えてあります。 私は博士と共にいよいよ雪の山を 踰 ( こ )えて行きますと広い原の入口に門が立ってあります。 それは別段軍事上の目的で建てられたものでなくて、宗教上その門に仏を祭りあるいは神を祭りその村に悪神等の入り込まないように建ててあるところのものであります。 ですから別段に門の両側に高塀があるとかなんとかいうようなことはございませぬ。 ただ門だけ建てられてあるのです。 その門の高さは四間ばかり、それに相応した大きさの石造りでありましてちょうど我が国における楼門に似て居ります。 その門を通り抜けて半里ばかり行くとツァーラン村に着きました。 博士はその村のある大きな家へ私を案内した。 それがその村の長の家であります。 前から我々が行くということを知らしてあったものと見えて、十四、五名も迎えに出て居りまして我々を導いて入ったです。 チベットでもこの辺でも同じ事ですが少しよい家では別に仏堂を建ててあります。 というのはこの辺でごく尊いお客さんといえばまずラマであります。 そのラマを自分の住んで居る所に置くというのは 穢 ( けが )れるだろうというところから、特に仏堂を設けて仏を祭ると共に自分の最も尊敬すべきラマの接待所にしてあるのです。 その堂の建て方も自分の家よりはよほど 丁寧 ( ていねい )で中も綺麗になって居ります。 その 仏壇 ( 〔仏堂〕 )の 傍 ( かたわ )らには特別に経蔵を設けまた仏像の中に経文を備えてあるところもある。 これは何も自分たちが読むという目的よりは 功徳 ( くどく )のためすなわち仏陀に 供養 ( くよう )すると同一の敬礼をもって供養するためであります。 いわゆる 臨済 ( りんざい )の三乗十二分教もその真を知らざれば 故紙 ( ほご )に等しというような考えはチベット人には全く無い。 解っても解らいでも仏 法 ( 〔経〕 )に対してはただこれを 尊崇 ( そんそう )するというのがこの辺の人の習慣であります。 その仏堂に私は住み込むことになりました。 その仏堂の向いにまた小さな離れ家があって博士はそこに住んで居ります。 で博士と私との御膳を 拵 ( こしら )えるために一人の 下僕 ( しもべ )を置きました。 その村長の名はニェルバ・タルボと言って誠に温順な人で、その妻君は 疾 ( とく )に 逝 ( かく )れて二人の娘があるです。 その頃姉は二十二、三で妹は十七、八、この二人の娘は日々男衆や女衆を使って牧畜あるいは農業をやって居る。 その働きはなかなか感心なものです。 さてこの村人の楽しみは何かというとやはり夜分歌を謡い踊を踊る位のもので、その外には折々 摩尼講 ( マニこう )まあ日本で言えば念仏講とか観音講とかいうようなものでありまして、その摩尼講にラマ摩尼が出て昔の高僧とか仏法守護の大王の伝記などを詳しく説き聞かせるですが、それを聞きに行くのが無上の楽しみであるらしい。 チベット人のごとくこの辺の人たちは非常に不潔であるいはラサ府の人間よりもこの辺の人間の方がなお 汚穢 ( おわい )です。 ラサ府では折々洗うことがありますけれどもこの辺では私が一年ばかり居った間に二度位洗うのを見た位のものです。 それとてもすっかり身体を洗うのでなく顔と首筋を洗うだけですから、 身体 ( からだ )は真っ黒で見るからが嫌に黒く光って居ります。 よく洗えば随分色の白い人もあるですが、もしもこざっぱりと洗って綺麗な顔をして居るとあれは不潔の女であるといって笑うです。 ここで私はチベットにおいての汚ない事に堪える習慣をよほど養いました。 もしここで充分その汚ない事に慣れなかったならば私はチベットに行ってよう物を喰い得なかったかも知れぬ。 ここでもやはり 手洟 ( てばな )をかんだ手で 直 ( じか )に椀を 拭 ( ぬぐ )ってその椀に茶を注いでくれます。 それを嫌がって飲まぬとむこうで 忌 ( い )み 嫌 ( きら )いますから忍んで飲まねばならぬような始末。 実際はそれよりも酷い事があって実に言うに堪えない、見るに堪えない汚ない事をやります。 折々はその習慣に慣れようと思いましてもいかにも不潔で 窃 ( ひそか )に自分で茶椀なりあるいは椀なりを洗って喰うような事もあります。 で私の仕事というのは毎日朝三時間ずつ博士に就いて講義を聞くだけです。 しかし朝三時間の講義はむつかしいものを学んで居るから下調べもし復習もしなければならぬけれども、昼からの三時間はごくやさしい楽しみ半分の修辞学とかあるいは習字作文等が主ですからその時は折々議論をすることもあるのです。 それはチベットの修辞学中には仏教上の事が沢山入って居ります。 それも普通の仏説を応用して居るならば少しも怪しむに足らないですが、チベットには一種不可思議に 卑猥 ( ひわい )なる宗教がありまして、その宗教の真理を修辞学に応用してあるのでございます。 しこうして男女間の情交を説くのに仏と 多羅尼 ( タラニ )、あるいは 独鈷 ( どくこ )と 蓮華 ( れんげ )との関係をもってし、またその蓮華の露の働きを男女の関係に及ぼしていろいろの説明をし、そうしてそのごく 穢 ( けがら )わしい関係からして清浄 無垢 ( むく )の悟りを開かしむるというような所に落し込んであるのです。 こんな修辞学は恐らく昔はインドに在ったでしょうが、今はチベットに残って居るだけのことであろうと思われる。 私は修辞学を非常に研究しましたが何しろそういう説明の仕方ですから博士と意見が合わんでしばしば激論したのであります。 この両性交合教の開山は 蓮華生 ( れんげしょう )という僧侶でありますが肉も喰えば酒も飲み八人の妻君を持って居った人です。 その僧を清浄なる僧侶とし救世主として尊崇したのであります。 これは恐らく悪魔の大王が仏法を破滅するためにこの世に 降 ( くだ )りかかる教えを説かれたものであろうと私は断定して居ります。 ですから私は博士と意見は合わないので、博士は蓮華生その人は仏の化身であるということを信じて居ります。 またこの辺の土民はこの穢わしい蓮華生の仏教を盲信することは実に 酷 ( ひど )いもので、全くこの辺に行われて居るのは旧教ばかりで新教派は一人もない。 博士はもと新教派の教育を受けたる清浄無垢の僧侶で、二十年間セラ大学で修行を 為 ( な )し博士の名を得た人であるということは確かですけれども、女のために一旦その身を誤りそれがために蒙古に帰ることが出来ず、といってラサに住して居るのも面目ないというところからこういう山家に 零落 ( おちぶ )れて、不潔な婦女子などを相手にして居るのだと村人はいいましたが、しかし非常に博学の人でありました。 前回に述べた通り修辞学の上について博士と私との間に議論の起る事はしばしばで、ある時博士は怒って講義を 罷 ( や )め「あなたは確かに 外道 ( げどう )の人でチベットの仏法を破壊するために来た悪魔である。 いくら金を 貰 ( もら )ってもそういう悪魔に教えを説くことは出来ない」と言って二、三日講義を休んだことがあったです。 私は打ち棄てて置くとモンゴリア人の癖として怒ることも早い代りにまたなおることも早い。 暫 ( しばら )くすると忘れてしまって「いやこの間のことはあなたの言うのも少しは道理があるようだ。 だんだん考えて見ると私の主張が間違って居ったようだ。 まあ講義をやろうじゃないか」というてむこうから折れて来ます。 「それじゃあお願い申します」というてまた講義を聴きます。 ある時などは 無着菩薩 ( むちゃくぼさつ )の論部の講義を聞いていました。 その間博士のいわるるには「もはやこの菩薩の言うところより上に仏法はない」と断言しました。 「いやそれは間違って居る。 この菩薩は実に有難いけれども 龍樹 ( りゅうじゅ )菩薩の主張された中道論には及ばない」といってだんだんその訳を説明しますと 仕舞 ( しまい )には「どうもチベット仏教に侮辱を加えた。 なぜならばチベットでは無着菩薩を非常に尊ぶ。 そりゃむろん龍樹菩薩も同じく尊んで居るけれども無着菩薩の仏法が低いというのは確かにあなたはチベット仏教に侮辱を加えたのである。 そういう悪魔はぶん 擲 ( なぐ )る」というて前にあるレクシン( 経帙 ( きょうちつ )の締木)を取り左の手に私の胸倉を 捉 ( つか )まえて私の 頭顱 ( あたま )をめがけてぶん擲ろうとしたです。 その時は私は大いに声を発して笑いました。 するとその笑い声の奇態なるに驚いてレクシンを少し横にやったですけれども私の胸倉はやはり 捉 ( とら )えて放さなかった。 そこで私はいうた。 「いやどうも無着の仏法を論じながらそんなに執着するというのは困ったものじゃないか」というと博士はその一言の 尖先 ( きっさき )に打たれて捉えて居る手を放し歯を喰い縛って怒って居られた。 暫くするともう顔を見るのも厭だというてほとんど人事を 弁 ( わきま )えて居らんような有様である。 こりゃ大方モンゴリヤ人普通の癖かと思われる。 実にモンゴリヤに居る人たちは大抵こういう人たちが多い。 皆そうとは言えんが私の出遇うたモンゴリヤ人には怒り易い人が多くって閉口しました。 また怒るということは馬鹿の性癖であると悟りまして私はその後 辱 ( はずかし )めに逢うても忍ぶという心を養成した訳でございます。 こういう風で毎日六時間ずつ勉強して居りました。 その間下調べといったらどうしても七時間掛からなければ終らんです。 あるいは八時間九時間になることもある。 そうすると日に十二時間あるいは十五時間位勉強する。 その外に御膳を一度喰い茶を飲んでそうして散歩に出掛ける。 日曜日は全くの休みで山の中へ指して散歩に出掛ける。 その時は山をどしどし駆け登る稽古をやりました。 この一週間に一度の大運動、これは私がこれから雪山の道のない所を 踰 ( こ )えて行く 下拵 ( したごしら )えをして置くのでそうして修練しませんければ、私は高い山に登って空気の稀薄な所に至って重い荷物を背負って行く事が到底出来ないという考えでありますから、用のないのにわざわざ石を背負って山の上へ登る稽古をしたです。 そして大いに肺部が強壮になって来たように思われました。 実際身体も強壮でありました。 ところでこの辺の人々の無上の楽しみはなんであるかといえば、女に戯れ肉を喰い酒を飲むことであります。 その外には 物観遊山 ( ものみゆさん )というような事もない。 また何か面白い話を聞きに行くというたところがわずかにラマ 摩尼 ( マニ )のお説教を聞きに行く位の事で、それとても毎晩ある訳のものではない。 夏は随分 忙 ( せわ )しいから肉慾上の事もよけいに起らんですけれども、夏過ぎて少し暇になりますと彼らが打寄って話をすることは 穢 ( けが )らわしい男女間の話よりほかにはなんにもございません。 ちょっと考えて見るとほとんど動物のようです。 心の中に思って居る事は喰う事と寝る事だけであって着物はどんな汚ない物を着て居っても 構 ( かま )わない。 それも年に一度ずつ新しい物と取り替えるに過ぎぬからバタと 垢 ( あか )で黒光りに光って居るです。 なお一年よりも二年着て居れば 豪 ( えら )いと讃められるような風習であります。 その間一度でも洗うという事はない。 身はそんなに 穢 ( けがら )わしゅうて居るけれども喰う物と 寝る事 ( 〔房事〕 )には大変骨を折ります。 で、その心に熱心に欲するところは男子は女子を求め女子は男子を求める事で、これは老人から少年少女に至るまでそういう有様ですから 婬風 ( いんぷう )は実に盛んであります。 私はそういうような不潔な事をやる人と 交際 ( つきあわ )んものですから一向始めの内は様子が知れなかった。 日曜日には休みという事を知って居る村人らは折々病気を診て貰いに来ることがある。 もう彼らはラマであると言えば未来の事を知って居るかのように思うて未来記を聞きに来る者もあります。 自分の行末はどうなりましょうか、あるいはこれから先どういう風にしたらよいかと尋ねる。 どの位 断 ( ことわ )ってもそれをいわなければ何遍も出て来てこちらの時間が 費 ( つい )えて誠に困るから、まずどっちとも付かぬような返事をしてやるとそれで満足して帰る、どういう心の置き方かこちらはわからんような事を言ってやるのですがそれがむこうにはわかるように聞こえるものと見えます。 そう言うような風にして勉強して居る内に私は大変 になりました。 あのラマはただ書物を読むだけでその外には考え事ばかりして居られる。 そうしてまた山の中へ行っても坐禅をして考えてばかり居る。 あれはひととおりの人でないというような種々の評判が立ちました。 その中に薬を 遣 ( や )った病人が 癒 ( なお )ったとかいうような事で、それがまた評判になる。 何か 話種 ( 〔話題〕 )のない村の内では私の事が 話種 ( 〔話題〕 )の主なるものになって、そうして私と博士との間について色々の想像話を 逞 ( たくま )しゅうするような事があります。 それはなぜかというと私が博士と議論の揚句 擲 ( なぐ )られ掛けたその時に、大いに笑ったその声が四隣を驚かした事もあり、またただ議論をして居る時でも互いに大きな声をして居るものですから、近隣の村人などは博士とシナのラマと今日喧嘩をして居るというて大いに心配して外で聞いて居るです。 ところがしまいには笑って事なく済んでしまう事もある。 そういう事が 度々 ( たびたび )あって度々驚かされて居るものですからその 噂 ( うわさ )がなかなか面白い。 あの博士は仏法の事で議論して居るのではない。 あれはこの間シナのラマがどこそこの貧乏人に喰う物をやった。 それを自分の方にくれないというてああいう事をしたのであろうとか、あるいはまたこの間私共の方では麦を一升上げに行ったところが、その麦を乞食に分けてやってしまった。 それだから大方博士が怒ってああいう事をしたんだろうというような詰らん事ばかりが評判になって居る。 それも私は知らなかったが、私の住んで居る家の娘子は長くそこに住むに随って茶などをくれたり、あるいはその村で最も上菓子と 珍重 ( ちんちょう )せるところの 蕎麦 ( そば )パンを 拵 ( こしら )えて折々私にくれるです。 ある時もそういう物を持って来て「この間あなたとゲーセと 大喧嘩 ( おおげんか )なされましたが、ありゃあなたがどこそこの乞食に金を遣ったからそれでゲーセが怒ったという世間の評判です」というような事をいって一々私に話をしてくれます。 それで私はなるほど世間というものは妙なものだ。 我々は自分に考えて居る事しか世間の人の心中を 忖 ( はか )る事は出来んが、実に面白いものだという感覚が起りました。 ところでおよそこの世の中というものは純粋の親切ばかりで交際するということはほとんどむつかしいものと見える。 利益の上の関係あるいは愛情の関係がなければ、交際は円満にして行くことはむつかしいものと見える。 ツァーラン村に居る間に深くその事を感じました。 私はただ普通どの人に対しても親切に尽すというつもりで居るのです。 ところがその親切を誤解して私の夢にも思い寄らぬ事を言う者がありましたがそれは余りくだくだしゅうございますから省略致します。 さて私はこのツァーラン山村には一年ばかりも住んで居りましたから四時の変る光景はよく解りました。 しかしこの辺はチベットの内地と同じことで夏と冬との二季に分つのが至当であります。 実際もそうなって居りますので、この辺の土人でも春とか秋とかいうような名を知らぬ者が沢山あります。 この村の夏の景色の美しさはこの 山人 ( やまびと )も自ら他に誇って居るように清くして美しい。 麦畑は四方の白雪 皚々 ( がいがい )たる雪峰の間に青々と快き光を放ち、その間には光沢ある薄桃色の蕎麦の花が今を盛りと咲き競う、 彼方此方 ( かなたこなた )に 蝴蝶 ( こちょう )の数々が 翩々 ( へんぺん )として花に戯れ空に舞い、 雲雀 ( ひばり )はまた 華蔵 ( けぞう )世界の音楽師は我のみぞと言わぬばかりに謡うて居る。 その愉快なる声に和して 賤 ( しず )の女らが美しき声で謡う歌は楽器か、雲雀の声は歌か、いずれがいずれとも分ち難きに、なお天然の真妙を現実に顕わしたるカックー、カックーという美しき 郭公 ( ほととぎす )の声はこれぞ宇宙自体真秘 幽邃 ( ゆうすい )の消息であります。 それからまた数里を隔てたる西の山々は皆 白雪 ( はくせつ )を 戴 ( いただ )いて居りますが、その頂きに夕日が入り掛りますとツァーラン村の東に列んで居る雪の峰々は夕日の反射で 珊瑚 ( さんご )色に光って居る素晴らしさ。 夕日がだんだん山の 端 ( は )に入るに従って珊瑚の色は薄らいで黄金色となり、 其色 ( それ )もまた 束 ( つか )の 間 ( ま )に薄らいで 白銀 ( しろがね )の色となったかと思いますと、 蒼空 ( あおぞら )は 拭 ( ぬぐ )うがごとく晴れ渡って一点の 雲翳 ( うんえい )をも止めず、 見惚 ( みと )れて居ります中に 朧気 ( おぼろげ )に 幽邃 ( ゆうすい )なる 高雪峰 ( こうせつほう )いな 兜卒天上 ( とそつてんじょう )の 銀光殿 ( ぎんこうでん )かと思わるる峰の間から、幾千万の真珠を集めたかのごとき 嫦娥 ( つき )が得もいわれぬ光を放ちつつ静かに姿を現わして、 皚々 ( がいがい )たるヒマラヤの雪峰を照す光景は、 氷 ( 〔宝〕 )光か何とも 譬 ( たと )えようのない光景であります。 冬の月夜は以上述べたようでありますが、さて雪が 劇 ( はげ )しく降り出して四方の雪峰に積るばかりでなく自分たちの居ります平原地にも一尺、二尺と積り三尺と重なり、かてて加えて暴風が恐ろしい勢いをもってその雪を吹き散らしあるいは空に 捲 ( ま )き上ぐるのみならず、雪峰より 雪崩 ( なだ )れ来る雪の 瀾 ( なみ )がその暴風と共に波を打って平原地を荒れ廻るその凄まじき声は、かのビンドラバンの大林の獣王なる幾千の大獅子の 奮迅 ( ふんじん )して 吼 ( ほ )ゆる声もかくやあらんかと思わるるばかりであります。 この時に当ってもし旅人があるならば、その雪のために 忽 ( たちま )ち捲き込まれて幾 千仞 ( せんじん )の幽谷に葬られてしまうということは珍しからぬことであります。 ある所の田畑は砂を掘り立てられて荒地となり、また平原のある所には雪の山を形造るというは、これ雪の波と暴風の過ぎ去った後の光景であります。 その跡を見ても身の毛がよだつばかりであります。 この時に ( 〔暴雪風時に〕 )当り外に出でて有様を見ようと思いましたが、ただその恐ろしい吹雪の音を聞くばかりで顔は雪に打たれて身体は凍え手足は 痺 ( しび )れ眼も開くことが容易に出来ないという有様でございますから、どんな有様か 確 ( しか )と見定めることが出来ませぬ。 暴風降雪の過ぎ去った跡でさえなお雪を持て来る雲か、ただしは暴風を追う雲かは知らぬが、 疎 ( まばら )に飛んで居るその下にごく細かな雪が煙のように 飜 ( と )んで居ます。 その切々の間から折々月影が 朦朧 ( もうろう )と見えますが、その色は物凄き薄鼠色を現わして見るからがヒマラヤの凄絶、愴絶なる光景はかくもあるべきかと自ら驚きに堪えぬ程の凄い景色であります。 私はこういうような山家に一年ばかり住んで居ったのですから真に愉快の観念に満されて居りました。 で日々の学問はどれだけ勉強しても少しも 身体 ( からだ )に 応 ( こた )えるようなことはなかったです。 ヒマラヤ山村の夏景 空気は稀薄ですけれども非常に 清浄 ( しょうじょう )な空気で、その上にごく成分に富んで居る 麦焦 ( むぎこがし )粉を日に一度ずつどっさり喰って居ります。 もっとも動物性の食物はただバタばかりでありますが、 蕎麦 ( そば )のできる時分にはその新芽を 酸乳 ( さんにゅう )でまぶしたちょうど 白和 ( しらあ )えのようなご馳走もありますので 身体 ( からだ )は 至極 ( しごく )健全でありました。 陽暦の八月頃は 蕎麦 ( そば )の花盛りで非常に 綺麗 ( きれい )です。 私はその時分に 仏間 ( ぶつま )に閉じ籠って夕景までお経を読んで少し疲れて来たかと思いますと 颯 ( さっ )と吹き来る風の香が非常に 馥 ( こう )ばしい。 何か知らんと思って窓を開けて見ますと雪山から吹き 下 ( おろ )す風が静かに蕎麦の花の上に波を打ちつつ渡って来る風でございました。 その時に一首浮びました。 あやしさにかほる 風上 ( かざかみ ) 眺 ( なが )むれば 花の波立つ雪の 山里 ( やまざと ) このツァーラン村の人口は二百五十名、その内で坊さんが百十四、五名、なおその 内 ( うち )尼が五十名で男の坊さんは六十余名、いずれも旧教派の僧侶ですから酒を飲み肉を喰うことは平気です。 尼はもちろん男を持つことは許さないのでありますけれども五十名の尼の中で男を持たぬのは一人だけ、また女に触れない坊さんは二人すなわちその寺のラマとその弟子一人だけでその外は皆汚れて居るという話です。 中には尼と坊さんと一緒になって居るのもあれば普通の娘と坊さんと一緒になって居るのもあり、また尼と在家の男と一緒になって居るのもあります。 子が生れなければ別段人が何とも言わぬ。 ところが子ができるといよいよ戒法に背いたということになるのです。 実におかしい話ですけれどもその戒律に背いた時分にはシャクパすなわち 懺悔 ( ざんげ )をしなければならぬ。 その懺悔の仕方がまた面白い。 どっさりと酒を買うて百十四、五名のラマ及び尼さんを招き、銘々本堂の仏の前にずらりと 並 ( なら )んで椀を持って居ります側からどしどし 注 ( つ )いで 廻 ( まわ )るのです。 始めの間はいずれも 殊勝 ( しゅしょう )らしくお経を読んで居りますがそろそろ酔の廻るに従ってお経の声は変じて 管 ( くだ )を捲く声となり、管を捲く声が変じて 汚穢 ( おわい )を談ずる声となる。 その見苦しい事といったら何と評してよいか。 始めて見た時分にはほとんど評のして見ようがなかったです。 これが 釈尊 ( しゃくそん )の弟子の集会日だとはどうしても思えなかった。 で、その当事者たる尼と相手の男は別に寺に対して五円ずつの罰金を納めなければならぬ。 しかしその当事者がもし男僧でありますとその男僧と相手の女は十円ずつの罰金を納めなければならぬ。 これは同胞の間で犯したような者だから罰金が高いとのことです。 その 外 ( ほか )に酒と肉とバタ茶との供養費が少くも二十五円や三十円は 掛 ( かか )ります。 少し派手にやると四、五十円も掛るそうですがなるたけ派手に酒を飲ますのを名誉とし、またよく懺悔が届いたと言って誉めるです。 如来 ( にょらい )は酒はよくないものであると言って在家の人にさえ戒めた位でありますのにいかにツァーランの出家にもせよ、戒律を無にして仏の前で酒を飲み汚穢を談ずるというのは 怪 ( け )しからぬ振舞でございます。 私はこの有様を見た時ひそかに東方に向いわが堂々たる日本の仏教社会の僧侶諸君の多くも、あるいはこのツァーラン村の僧侶に対しどれだけの差をもって居らるるだろうかと思って実に悲しみました。 明治三十三年の一月一日には例の通り祝意を表さなければなりませぬゆえ、この前からこの土地で得られるだけのご馳走を買い集めて 揚物 ( あげもの )その他村人には珍しいような物を沢山 拵 ( こしら )えました。 で例のごとく元日に天皇皇后両陛下、皇太子殿下の万歳を祝しましたが、山海三千里を隔てたるこのヒマラヤ山中において明治天皇陛下の万々歳を祝することの出来るのは実に愉快であると思うて覚えず嬉し涙に 咽 ( むせ )びました。 その式終りて後村人らにそのご馳走を施したところが、彼らはこの村 創 ( はじ )まって以来かかる珍味を得た事はないといって 悦 ( よろこ )んで居りました。 私がこの村に参りましてから満八ヵ月になりますが、村人らは全くこの村に私が生れた人かのように親しみ 敬 ( うやま )うようになったです。 それは折々私の 遣 ( や )った薬がよく 利 ( き )いた事もあるからですが、その薬は私の友達の広岡修造という医師から貰った薬も大分あります。 また私がカルカッタで貰った薬も沢山あったので充分人に 施 ( ほどこ )すことが出来ました。 それやこれやで私を余程必要な人間と認めてこの村に永住されん事を希望する者が沢山ありまして、折々は博士にその事を伝えるようになったです。 博士は学問のある人に似合わず俗情に通じてそういう俗情にはごく一致し易い性質を備えて居ります。 ところで博士はいろいろ方法を考えて見たけれどもどうも安全に止めて置くには妻を持たせるより外に策がないと考えたものか、しきりに自分の居る家の主人の妹を妻にしろと言わぬばかりに策を 運 ( めぐ )らしたです。 しかし私は 釈尊 ( しゃくそん )の教えを堅く信じこれを守らなければ自分の生命は無きものであるとまで確信して居りますから一向取り合いませぬ。 ほとんど手の着けようがないものですから、博士は種々の方法を運らして私に酒をすすめあるいは汁の中へ肉の刻んだ奴などを入れて誘惑致しましたけれども、私は幸いにして仏陀の光明裡に接取せられて居りましたからそういう誘惑の中から 免 ( まぬか )れる事が出来ました。 もし私が雪山の 垢塗 ( あかまみ )れの土人と一つになるようなことがあったならば、私は今時分はかのヒマラヤの 谷間 ( たにあい )の 黒坊主 ( くろぼうず )となって居ったかも知れぬ。 かような訳で村人とは大分親しくなりましたから道のない山の間からチベットに進入する筋道はどこであるかということを探る 便宜 ( べんぎ )を得ました。 けれども特別にそれだけの事を尋ねますと疑われる 虞 ( おそれ )があります。 既に私については不思議な薬を持って居るとかあるいは色が白いとか、綺麗好きであるから西洋人ではないか知らんといって眼を着けて居る人もある際に、チベットへ入る道を尋ねますとどんな危険が起るかも知れませんから、うまく彼らの疑いを起さないように尋ねなければならぬ。 そこで私は村民らが出て来ますと殊更に言葉を和げて「一体チベットあたりへ 商 ( あきな )いに行く時分には税金を取られたりあるいは政府の官吏に 賄賂 ( わいろ )を遣わねばならぬような道筋を行くのは不得策である。 そういう場合には本当の道筋から行かずに外の道筋から行かぬばなるまい」と暗に問い掛けると「従来はそんな事もなかったがしばしば外国人が入り込もうとするのでこの頃は間道にも五名ずつの兵士を置いてある。 だからそういう道を通って行くと兵士がぐずぐずいって荷物に対しやはり幾分か金を取ったり何かするから、大切な品物、 珊瑚珠 ( さんごじゅ )とかあるいは西洋小間物を持って西北原に出掛ける時分には外の所から行かなければいけません」という。 「どんな道から行くのか。 」「道はありませんけれどもこの西の山の隅へ指して行ってあの雪の山を 踰 ( こ )えて 降 ( くだ )って行くと川がある。 その川はどういう所を渡ってどういう山の方向に進んで行けば人なき所を渡って行かれる」という詳しい話をしてくれるです。 私は一々 其言 ( それ )を書き取って置きまして外の人が来た時分にその話を材料にして尋ねると、そこにはこういう危い所があるとかあるいは注意しないと 雪豹 ( せつびょう )のために喰い殺されてしまうというような話を聞いた。 そういう具合にして間道の研究をしたがさてこの村から 突如 ( とつじょ )飛び出して道のない山の方へ行くことの出来ない事情があります。 長くツァーランに住んで居ったものですから私が出掛けるについてはどの方面に出掛けるかということを非常に懸念するです。 もし道のない所を 無闇 ( むやみ )に進んで行こうものならそれがために村人の疑いを深くして 追窮 ( ついきゅう )されるかも知れない。 よってひとまず跡戻りをしてそれから村人らに気付かれぬように、またチベット兵士の守って居らぬ所へ出て行く道はあるまいかとだんだん 穿鑿 ( せんさく )したところが、ドーラギリー雪峰の山北を横ぎってトルボへ出てから道のない山の間を三日路ばかり 辿 ( たど )って行くと、遊牧民の来て居る西北原に出られる道筋があるという。 仮 ( よ )し遊牧民が来て居らいでも 其原 ( それ )から一日か一日半行くとゲロン・リンボチェの居る所に出られるというような話を聞きました。 これ最も私の 執 ( と )るべき 道筋 ( みちすじ )でありますからその方向に進むことに 極 ( き )めました。 で、その時季を待つことにしましたがどうしても陽暦の六月にならなければ雪の山を 踰 ( こ )ゆることが出来ないという。 六、七、八月と三月は通り得られるそうですがもう九月に入って一度雪が降れば 塞 ( ふさ )がってしまうそうです。 もちろんこの三月の間とても雪の降らぬということはないけれども、まず夏の間は雪が降っても途中で 凍 ( こご )えて死ぬほどの事もなくどうにか助かる範囲において進んで行くことが出来るという。 それらの研究までして時の到るを待って居りますとこのツァーラン村から南の方向に当りツクジェ村の近所にマルバという所があります。 その村長のアダム・ナリンという人がツァーラン及び西北原の方へ商いに来るのみならず、西北原には四、五十頭のヤクを放ってありますので、その 下僕 ( しもべ )がテントを張ってその番をしているという。 で時々見廻りに出て行きますそうで、この人達は公然道のある所を通って行くのですから行こうと思えばいつでも行かれるのです。 この度も見廻りのために出て来てちょうど私の世話になって居る宅に泊りました。 その時に私がその人の 請 ( こい )に応じて仏教の説明をして 遣 ( や )ったものですから非常に悦んで私に言いますには「私がチベットから求めて来た一切蔵経が仏堂に供えてあるがまだ一度も誰にも読んで 貰 ( もら )った事がない。 是非あなたが私の宅へ来て供養のために読んでくれまいか」というたっての 請求 ( せいきゅう )ですから、それではいずれ近い 中 ( うち )にあなたの方へ出掛けることにしようという約束を致しました。 私がマルバ村長のアダム・ナリンと約束をしたのは三十二年の十月でございます。 しかしその後その人はインドの方へ商業のために旅行したといいますからその 儘 ( まま )に過ぎ去りました。 話は戻りますが私がネパールから買うて来た白馬の処分に困って居ったです。 ところがこのツァーランの寺の住職でニェンダクという方が私の馬を見て非常に欲しがりました。 この人は種々の事情に通じて大酒を飲む人でありますから、こういう人に 要 ( い )らざる口を利かすのもどうかと思って馬をやってしまいました。 で、お経か何か礼にくれるものがあるならば貰いたいといいますと、喜んで (〔紺紙金泥の〕)経文四 帙 ( ちつ )とサッキャア・パンジットの拵えたチベット語の仏教辞典(筆記物)とその外二、三の書物をくれました。 およそこれらの書物を金に見積りますと 六百 ( 〔六千〕 )ルピー位のものはありましょう。 これは私がツァーランに居る間常に愛読して居った書物です。 ちょうど三十三年の三月十日チベット 暦 ( れき )の二月十一日にツァーランを出立することになりました。 私がツァーランに居る間に全く酒を 罷 ( や )めさした者が十五人、それからこの村では煙草の葉を噛んでその辛い汁を吸い込むことが盛んに行われて居りますが、私が宗教上から説き付けて罷めさした者が三十人ばかりありました。 それはいずれも私が病気を診察をして薬を与えた人々で、その薬代の代りに禁酒禁煙の約束を貰うたのでございます。 一年も居りましたのでこの村で私を 知合 ( しりあい )にならぬ者は一人もございませぬ。 懇意な人たちが餞別であるといって 蕎麦 ( そば )、パン、 マル ( (バター) )、 乾酪 ( (チーズ) )、 乾桃 ( ほしもも )、中にはカタと銀貨をくれた者も四、五名ございました。 その日の午後三時頃二疋の馬に経文その他の荷物を負わせ、自分は一疋の馬に乗り一人の村人に案内されて村 端 ( はず )れまで参りますと、私に 按手礼 ( あんしゅれい )を受けんがために礼拝して列んで居る人が百名余りありました。 一々に按手礼をし話をして居ります中にもはや午後五時頃、よほど遅くなりましたけれども次の村まで来て宿ります 心算 ( つもり )で出立しました。 で先に通って来ました村の入口の門の所に立ち再び跡を顧み「わがツァーラン村に居る間親切にしてくれた人々がますます仏道に 帰依 ( きえ )して永く幸福を受けらるるように」という願いを掛けて別れました。 で、もと来た路を後戻りしてその夜はキミイに一宿し、その翌日カリガンガーの河岸のツクという村に宿りました。 そこにもまたお説教を聞きたいという者がありますから説教いたし、その翌朝出立しようとすると按手礼を 請 ( こ )いに来た者が二十名ばかりありました。 私の師匠の博士は私の出立の少し以前から他の方へ行って居られましたが、ちょうどこのツクという村でお逢い申して 懇 ( ねんご )ろに別れを告げ、この日の夕暮マルバ山村のアダム・ナリンの宅に着きました。 アダム・ナリン氏は未だ帰って居りませぬがその父のソェナム・ノルブーという方が私を綺麗な仏堂に導いてくれました。 この仏堂にはチベット語の 一切蔵経 ( いっさいぞうきょう )及び他の論部等も安置してあり立派な仏陀も沢山あります。 室は二室あって前室の窓から望むと桃園があります。 この辺の土地はツァーランよりはよほど低いので物が二季に取れます。 まず麦を取ってそれから 蕎麦 ( そば )を取るのです。 その畑の四、五丁向うにカリガンガーがあってその向うに低い松が 生 ( は )えて居ります。 その松山の上には例のごとく 雪山 ( せつざん )が 聳 ( そび )えて居る。 実に 清浄 ( しょうじょう )の 境涯 ( きょうがい )でございます。 家の 主 ( あるじ )は長く止まって一切蔵経を読んで貰いたいという希望でありますけれども、私はただ雪峰を越す時季を待つために逗留して居るのでございます。 で私は毎日チベット語の経文を読みあるいは抜書きなど致して居りましたが、チベット語の経典でも論部でも自由に解釈の出来るようになりましたのは、全く 慧幢 ( ギャルツァン )博士が毎日六時間ずつほとんど一年間教授してくれたからであると大いに感謝致しました。 半月ばかり経ちますと私がツァーランに居りました時分にこのツクジェ村の者でインド、カルカッタへ行商に行く者がございました。 その行商に託してサラット師に手紙を出しました。 その手紙の内には日本へ送る手紙もあります。 その男はサラット師の所へ手紙を持って行きまして 返書 ( へんしょ )を持って来てくれました。 その返書の中にマハーボーデ・ソサイティの雑誌が一冊ありました。 その雑誌の中を見ると大谷派の 能海寛 ( のうみかん )氏がチベットの国境まで行かれたが、その関所の官吏のために追い返されたという記事が、日本のある新聞から翻訳されて載って居ります。 それは能海氏同行の寺本氏がその事実を通信したということになって居りました。 そこでサラット先生がこの記事の通りであるから容易にチベットには入れない。 もちろんあなたはいろいろ成功する方法を考えて居なさるでしょうが無理な事をして命を落さないようにという注意書がありました。 ところが私がその手紙を頼んだ行商がいろいろの事を流言したです。 あの人は英国政府の高等官吏に違いない。 というものは私が手紙を 託 ( ことづ )かって行ったサラット・チャンドラ・ダースという人は英国政府の官吏であって月に三百六十ルピーずつ 貰 ( もら )って居る。 どうもベンゴール人でそれだけの月給を貰って居る人は沢山はない。 そういう人の所へ手紙を 遣 ( や )るというのはどうも怪しい。 あのラマはシナ人だと言って居るけれども実は英国人でなかなか沢山な金を英国政府から貰うてこの辺の地理を取調べ、それからチベットに入り込んで地理を穿鑿する 心算 ( つもり )で来たらしい。 論より証拠サラット先生が英語の書物を送って来たところを見ると英語が解っているに違いない。 どうもあのラマをこの村に置いては為にならぬという流言。 それもただ流言だけならよいが 仕舞 ( しまい )には私の世話になっている主人に対しても告げたです。 その時分にはアダム・ナリン氏も帰って来ましてその事を聞いたものですから顔色を変えて私に向い「あなたの事をこうこういって悪く言う人がありますがもしもその言う通りであると、私共はどんな刑罰を受けるかも知れないが 如何 ( いかが )でございましょう」という。 アダム・ナリンという人は至って正直な人ですから私は「あなたがもし私に対して三ヵ年間私の言うた事は誰にも告げないという誓いを立てるならば私はあなたに秘密を明かしましょう。 もし誓いを立てなければその流言は流言として打ち棄てて置くより外はない。 いずれネパール政府から何とか言うて来るでしょうからそれまで待ちましょう」というと「よろしい、誓いを立てましょう。 就いてはあのお経を私の頭に載せて下さい」といいますからその通りにしてそこで誓いを立てさせました。 ところでその 主 ( あるじ )は始終インド辺へ行商に来て英語の綴り位解る人でございますから、私は日本の外務省から貰うて参りました旅行券を示しました。 私はその旅行券を示し「これは日本という国の政府から受けて来た旅行券である。 日本という国は仏教国であって私はその仏教僧侶の一人である。 で仏教を修行するためにこの山国に来りこれよりまたチベット国に行くので、決して人の疑いを受けるような秘密の用向を帯びて居るものでない。 だからこの点において政府に訴える 心算 ( つもり )なら訴えるがよい。 事に依っては私に繩を掛けて差し出してもよい。 しかし道筋はどうなさるか。 」「これから私はトルボ、セーに参詣し、それから少しく後戻りをしてドーラギリーの谷間に在る仙人の国すなわち 桃源郷 ( カンブータン )という所はどんな所であるか、そこまで案内者を連れて行って見ようと思う。 それから 直 ( すぐ )にチベットに行くか行かぬかまだ分らない。 とにかくあなたがたの迷惑にならぬようにこの六、七月頃になれば早速ここを出立して出掛けましょう」といったところが主人は大いに安心した様子でありました。 しかしその家に居るのも気の毒でありますから、この村の寺に移って読経することになりました。 そこで着類あるいは食物、飲物等すべてを 調 ( ととの )えましたが、ちょうど九貫匁ばかりの荷物が出来ました。 その荷物を案内者に持たし自分は経文だけ背負って六月十二日にこのマルバ山村を出立しました。 これからどういう風にしてチベットに入るかという困難のところに臨むのですが、これから二十日間程は案内者を連れて山の中を廻ることになって居ります。 その後三日ほどの間は道のない所を出て行くのですが、もし一直線に進んで行けば十日位で西北原に出られますが、私はその辺の名跡を巡ったりあるいは山の様子を見て途中間違いないようにして向うへ出ようという考えがありますから二十三日間の予定をしたのでございます。 で、いよいよ準備を調えて出立する時分に一首の歌が出来ました。 空の屋根、土をしとねの 草枕 ( くさまくら ) 雲と水との旅をするなり しかしこれからの旅はこの歌のようではなかったです。 実はこの歌はこれまでの旅に適合して居るので、これから後の旅は「空の屋根雪をしとねの岩枕」で雪と岩との間を旅するような訳でございました。 この村を 出立 ( しゅったつ )して西北に向いてカリガンガー川に添うて一里ばかり登って参りますと雨が降り出しましたから小さな家のある所に宿りました。 その翌日午前七時に出立して巌石 突兀 ( とっこつ )たる狭い道を登って行くこと二里ばかりにして細い桃林のある谷へ出ました。 其谷 ( そこ )で少し食物をたべそれから細い急な坂を二里半ばかり進みましたが、非常に急な坂で殊に空気が稀薄ですから、身体は疲れる呼吸は切れるという訳で進み兼ねましたから午後三時ダンカル村に着いて泊りました。 ところが稀薄なる空気に打たれたのかあるいは他の原因か非常に疲れましたから翌一日逗留して十五日に出立しました。 今度は北に向い急な坂を登ること二里にして巌山の氷の谷を渡りなおそれよりごく急な坂を北に登ること一里半にしてやや広き急坂に出てだんだん登って行きますと、大分疲れましたので午前十一時ちょっと休息しましたがその辺には水がない。 雪の少しく積ってある岩の間に小さな草の 生 ( は )えて居る所があります。 餓 ( う )えたる時は食を 択 ( えら )ばずではない。 渇したる時は水を択ばずというような訳でその草を引き抜いて根を 噛 ( か )んでみたところがごく 酸 ( す )っぱいです。 それからその根を噛みつつ 蕎麦 ( そば )の焼パンを喰いました。 暫く休んで北に登ること一里にして西に折れ一方に 千仞 ( せんじん )の谷間を望みつつ崖道の恐ろしい 牟伽羅坂 ( ムカラざか )という坂を登って参りましたが、その坂路の 嶮峻 ( けんしゅん )なることはなんとも形容のしようがございません。 で、その坂の左側には高雪峰が剣を列べたごとくに 聳 ( そび )えて居るです。 それからその山の 頂 ( いただ )きから直下してほとんど道のない岩と岩との間を猿が樹渡りするような具合に 辿 ( たど )って行くのですが、さすがに山に慣れて居る荷持は重い荷を背負いながらヒョイヒョイとうまく飛んで行くばかりでなく、私にはよう飛ばぬものですからこうしてああしてといろいろ指図をしてくれた。 また私自分の持って居る杖を岩と岩との間に突き立て転び落ちようとするのを防いだり、まるで杖をば船頭が 櫂 ( かい )を使うような具合に自在に使う、あるいはヒョイと雪車に載せられて千仞の谷底に落ちようとする場合にはうまく岩の端へ杖を突き立てて防ぐ。 その杖の先には 鎗 ( やり )のような 鉄 ( かね )が付いて居るです。 もっとも 沢山 ( たくさん )雪の広く積ってある所はそれほど巌も厳しくもなし、まあ平坦になって居りますから登り易いがそうでない所は実に危ない。 そういう危ない間をだんだん登って行く間に雪に映ずる日光の反射のために眼を打たれて、その痛さが甚しいのみならずいかにも空気の稀薄なるために呼吸をすることが困難で、 胸膈 ( むないた )を圧迫されて居るのかあるいは 胸膈 ( むないた )が突き出るのか訳が分らぬが今思い出してもぞっとする位苦しかった。 案内者兼荷持は「こういう急な坂ですからあまり急いで行ってもいけませんが、しかし長くここに止まって居てこの辺の悪い空気を沢山吸うと死んでしまいます」という。 けだし荷持は空気の稀薄なることを知らんのです。 勇を 鼓 ( こ )して上に登れば登るほど空気が稀薄になりますので 動悸 ( どうき )は 劇 ( はげ )しく打ち出し呼吸は迫って気管が変な気合になり、その上頭脳の半面は発火したかのごとく感じて どうにもして見ようがない ( 〔困った〕 )。 もちろんその辺には水は一滴もなし雪を 噛 ( か )んでは口を 潤 ( うるお )しつつ進みましたけれども、折々 昏倒 ( こんとう )しかかるその上に持病のリューマチのために急に足部が痛み出してほとんど進行することが出来なくなって来ました。 いかにも苦しくて堪らんのでその雪の上へ寝てしまいたくなった事が度々ありましたけれども、ここに寝て居って時間を費やすと死んでしまいますという注意がありますので案内者に引っ張られて進んで行きました。 この際は実に危険であると思いましたがこの危険はなおドーラギリーの一番高い所を 踰 ( こ )ゆる時に比すればまだ優しかったです。 ほとんど自分は生命あることを覚えて居らぬ位、ある山腹のごときは 雪崩 ( なだれ )のために積雪と岩とを持ち去られて砂ばかり残って居る所があります。 そういう坂道を進んで行く時分には砂車のために谷間に落ちそうになりますと、例の杖をもってこれを防ぎつつ向うへ渡って行きましたが、随分熟練してうまく杖が使えるようになりました。 けれどもまだ案内者のごとくにはいかぬ。 案内者は猿よりもうまく通って行くです。 そういう危ない所を通り抜けてまた平坦な岩の上に出ましたがもうそこで倒れたくなってどうしても仕方がない。 ジーッと立ち止まって居りますともう少し下へ行けば水があるからと言ってくれたけれども 何分 ( なにぶん )にも進むことが出来ない。 そこで案内者は水を汲んで持って来てくれた。 その水を飲んで少し宝丹を含んで居りますと大分に気持が快くなって来た。 自分の手の痛い所へはカンプラチンキを塗り少し休息して居りましたが、日は既に暮れて星の光と雪の光が闇を照して居るだけであります。 ようやく気分も爽快になりましたからその星と雪の光を頼りに甚だ急なる岩の坂を西北に降ること一里半、ほとんど坂落しのような山です。 やがてサンダーという十 軒 ( けん )ほどある山村に着きました。 この村は一年の間に三ヵ月間他の村と交通するだけで後の九ヵ月間は雪のために閉じられて交通することが出来ないのです。 その交通する道筋は私が通って来た道筋であります。 こんな驚くばかりの危ない所によくまあ人が住んで居ったものと思われるようです。 その辺の雪山及び岩山の景色といったら物凄いようでまたその奇観も一々いうに暇ないが、私の身体はそれほど疲労して居るにかかわらず精神は豪壮を感ずるの情緒勃発し来りて真に愉快に堪えない。 それがために自身の 身体 ( からだ )の苦しみも忘れてしまう位です。 けれどもその翌日はとても進めないから逗留いたし、その翌日もまた逗留して十八日に出立しました。 この村では妙な物を喰って居ります。 ターウと言って 蕎麦 ( そば )のような物でありますけれども蕎麦よりはまだ悪い。 この村ではこういう物しか出来ぬ。 それも年に 一遍 ( いっぺん )です。 それからだんだん西北に進んで一里余も行きますとまた砂車の坂へ出ました。 この坂では去年も巡礼がこの砂車に乗せられて死んだというような気味の悪い話のあります所で、その坂を過ぎるとまた 達磨 ( だるま )の座禅して居るような雪峰がありますが、その雪峰の前を通りだんだん進んで谷間に降りますとその谷間の岩の間にもまた 檜 ( 〔ねず〕 )の古木が生えて居りますがその 檜 ( 〔樹〕 )は実に美しいです。 そういう谷間の大いなる流れに沿うて西南方に登って行くこと一里ばかりにして午前十一時にターシータン(栄光溪)という美しい 溪 ( たに )に着きました。 それから数々の山及び猛獣の棲んで居る山際を通り、あるいは一歩を誤れば数千仞下の谷間の鬼となってしまわにゃあならぬ所を沢山進んで行きましたけれども、案内者がありますから道に踏み迷うような気遣いはございません。 何しろ道かと言えば道のようなものですけれども、どうにか足や手で駈け登ったり駈け降ったりする所があるという 峻 ( けわ )しい坂路を通って行くのですから随分難儀です。 谷間にはやはり樹もあれば美しい草花が咲いて居ります。 その中には薬草も沢山あり、また 麝鹿 ( じゃろく )も沢山棲んで居ります。 その夜は雪山の間の巌の中に泊り、その翌十九日もまた同じような道を西北に進みターシンラという大きな雪山の坂に懸りましたが何分にも寒くて 堪 ( こた )えられない。 寒いばかりではない、もう苦しくて荷を背負って居る 荷持に縋らなくてはならぬ ( 〔荷物を下さなくては苦しい〕 )けれども景色もまた 佳 ( よ )いです。 よく見る勇気もなかったが起伏 蜿 ( えんえん )、 突兀 ( とっこつ )として 四端 ( あたり )に聳えて居る群雪峰は互いに相映じて宇宙の真美を現わし、その東南に泰然として安坐せるごとく聳えて居る高雪峰はこれぞドーラギリーであります。 あたかも 毘廬沙那大仏 ( びるしゃなだいぶつ )の虚空に 蟠 ( わだかま )って居るがごとき雪峰にてその四方に聳えて居る群峰は、菩薩のごとき姿を現わして居ります。 苦しいながらも思わず荘厳雄大なる絶景に 見惚 ( みと )れて居りますと「久しくここに 止 ( とど )まって居ると死んでしまいますから早く 降 ( くだ )りましょう」と言って手を引いてくれますので、この日は四里ばかり山を降ってやはり巌の間に泊りましたがなかなか寒いです。 その時苦しい中にも一首浮びました。 ヒマラヤの雪の岩間に宿りてはやまとに上る月をしぞ思ふ 六月二十日また出立して例のごとく恐ろしい山を登って行きました。 この辺には灰色の 斑紋 ( はんもん )あるナーという鹿が居りまして、多い所には二百疋も三百疋も谷間に群がって居るです。 だんだん山の中へ進んで行きますと山ヤクも居りますし、また雪豹とか 山犬 ( チャンクウ )というような猛獣も遙かの山に見えて居ります。 そういう奴が折々出て来るそうで、ある場所には喰われたのか死んだのか動物の骨の散らばって居る所もあり、また雪の中に凍え死んだ死骸の骨の散らばって居る所もありますが、頭の皿と足の骨は一向ないです。 これはチベットの仏具に使うために倒れた人があると通る人が皆持って行ってしまうのでただ残って居るのは 肋 ( あばら )の骨位です。 そういう物を見る度に無常の観念に打たれるです。 私もまた 何処 ( いずこ )の山の端でこういう風になって果てるか知らんと思うと、 幾許 ( いくばく )か先に死んだ人の事を想い出して後を弔う心も起りました。 その山を 踰 ( こ )えて (〔二十三日〕)トルボという村に着きました。 そこはツァルカともいう。 この一村はチベットの古代の教えなるポン教を信じて居ります。 同じような山の中を毎日進んで行きましたが ( 〔二日逗留してから、トルボ、セーの霊場を廻りに行きました。 この霊場〕 )その間には景色のよい所も沢山あり、また仏のような姿をして居る天然の岩もありその他珍しい植物や動物も沢山見ました。 (〔ちょうどわが国の妙義山を広大にしたような山で、石門も天空駆けるように見える岩も見えます。 〕)けれどもこれは略します。 とにかく険しい山路をある時は一日ある時は二日位逗留して英気を養いつつ七月一日まで進みました。 そこで私に付いて来た案内者を 還 ( かえ )すことにしました。 その間に大分食物を喰いましたから荷物は一貫五百 匁 ( もんめ )ばかり減って八貫匁位になりました。 それを今度は自分で背負って行かねばならぬ。 で、いよいよ を 踰 ( こ )えねばならぬ。 私は荷持に対し「私はこれからドーラギリーの山中にある桃源郷に行かなければならぬ。 だからお前は帰ってくれろ」と言ったところが荷持は一緒に帰ることと思いの外、ドーラギリーへ行くと聞いてびっくり 愕 ( おどろ )き「それはいけません。 あんな所へは仏様か菩薩でなければ行けやしません。 あなたもそういうお方か知りません。 あすこへは昔から一人か二人しか行った者がないという話です。 恐ろしい所だそうですから行けば必ず死んでしまいます。 そうでなくとも桃源郷の外を守って居る猛獣のために喰われてしまいますからお 止 ( よ )しなさい」と言って親切に止めてくれましたけれども、私の目的はそこにあるのだからとていろいろと言い聞かしますと彼は涙を流しながら立ち去りました。 私はその 朔日 ( ついたち )の朝彼の去るのを影の見えなくなるまで見届けまして、それから八貫匁ばかりの荷物を背負い桃源郷には進まずにかねて聞いてあります北方の山の間へ進んで参りました。 これからは実に言語に尽くし難いほど困難を極めたけれども、山はそれほど厳しくなかったです。 突兀 ( とっこつ )たる岩などは誠に少なかったから割合に安楽でありましたけれども、何分雪の中ばかり一人で進んで行くのですから 堪 ( たま )らない。 夜は雪の中へ寝た事もありまた幸いに岩陰でもありますとそこへ泊り込むことにして、ただ磁石を頼りにかねて聞いてある山の形を見てはだんだん北へ北へと進んで行きましたが、聞いた通り少しも違わず荷持と別れてから三日路を経てドーラギリーの北方の雪峰を踏破し、いよいよチベットとネパールの国境たる高き雪山の頂上に到達することが出来ました。 国境雪峰よりチベット内地を望む ここはすなわちネパールの 国端 ( くにはず )れでチベットの国の始まりという絶頂です。 そこで一番にやらにゃあならぬ事は自分の背負って居る荷物を 卸 ( おろ )す事ですが、それはちょっとどこへでも卸すという訳にはいかぬ。 その辺は一面の積雪で埋って居りますから……で都合のよい石のあるような所を見付けてそこの雪を払ってまずそこに荷物を卸し、ヤレヤレとそこでまず一息して南の方を眺めますとドーラギリーの高雪峰が雲際高く虚空に聳えて居る。 高山雪路の長旅苦しい中にも遙かに北を眺めて見ると、チベット高原の山々が波を打ったごとくに見えて居るです。 その間には 蜿 ( えんえん )たる川が幾筋か流れて居りましてそのよって遠く来る所を知らずまたその去る所をも見ることが出来ない。 雲の裡に隠れて居るという有様でござりますが、実にその景色を見た時には何となく愉快なる感に打たれてまずその南方に対しては、これより遙か以南なる 釈迦牟尼如来 ( しゃかむににょらい )が 成仏 ( じょうぶつ )なされたブダガヤの霊場を追想し、 曩日 ( のうじつ )彼の霊場において誓願を立てたがこの国境までにはまずどうにか無事に着いたかと思うと、かつて郷関を辞する時分には今より三ヵ年の後にはチベットの国境にはいることが出来るであろう、何かの準備を整えなくては到底望みを達することは覚束ないからまず三ヵ年と見積らねばなるまいという考えをして参りましたが、ちょうどその 予考 ( よこう )通りに三ヵ年の日子を費やした。 明治三十年六月二十六日に 出立 ( しゅったつ )して明治三十三年七月四日にこの国境に着いたのであるから自分の予期の違わざりし嬉しさに堪えられなかったです。 とにかく 身体 ( からだ )が非常に疲れて居るからまずその辺で一休みとこう思うたけれども雪ばかりでどうもよい所がない。 ……そこでまあ袋の中から 麦焦 ( むぎこが )しの粉を出して椀の中に取り入れそれに雪と幾分かのバタを加えてうまい具合に 捏 ( こ )ねるです。 それからまた一方の椀には 唐辛子 ( とうがらし )と塩とを入れて置きまして、そうして一方の麦焦しを雪とバタとでよく捏ねてその唐辛子の粉と塩とを付けて喰うのです。 そのうまさ加減というものは実にどうも もこれに及ぶまいかと思うほど 旨 ( うま )かったです。 でまあ椀に二杯位喰いますとそれでその日の食事はすむのです。 もちろんこれまでとてもいつも 一食 ( いちじき )しかやりません。 朝はちょっと樹の実の乾したものすなわち乾桃とかあるいは乾葡萄とかいう物を喰って居ったです。 で昼だけ 麦焦 ( むぎこがし )粉のねったものを椀に二杯ずつ喰べる切り。 その椀も随分大きな椀ですからなかなか腹が太くなるのです。 ちょっと注意までに申して置きますがその麦焦粉もかの地のはなかなか力が強い。 どうも寒国に出来た麦は余程成分に富んで居ると思われるです。 でまあそれをゆっくりと喰いまして四面皆雪という雪中に坐り込んで四方を眺めて居ると何となく愉快というだけで、誰もが居らずただジーッと独りで考え込んで居るだけでこれからどちらへ出掛けたらよいのかさっぱり見当が付かない。 どっちみち北の方に降って行くのであるが、さていずれの方面に降ったならば今志すところのマナサルワ湖の方面に近いか知らんという考えから、まず山中ただ一つの頼みとする磁石の指し示すところに従ってまず西北の方に向って雪の中を降ろうと決定した。 まあこの方向が一番よさそうなという道筋を山の絶頂からよく望んで置きまして、それから荷物をやっとこさと背負って息杖を頼りにその雪の中を進んで行ったです。 ところがこれまでは 日表 ( ひおもて )の山の方であるから雪も格別沢山はない。 五、六寸積って居る所もあればまた積って居らぬ所もある。 あるいは諸所に 雪融 ( ゆきどけ )の痕があって石がゴロゴロ転がって居るというような所も随分あったです。 ところが〔今おりる道は〕 日裏 ( ひうら )の方ですからどうもその雪の深いことといったらなんとも堪えられない。 それはどれだけ深いか分らぬけれどもグッと踏んで見ると一尺四、五寸は確かに足がはいってしまう。 稀には七、八寸位ですむこともあるけれどもどうもその足を抜くのが困難です。 それゆえに杖をもってよい 塩梅 ( あんばい )に 舵 ( かじ )を取ってズブリズブリ渡って行くようにしてだんだん降って行きましたが、雪の積ってある下に石の高低があるものですから、折にはその石と石との間に足を突っ込んで足を抜くに非常に困難したこともあるです。 まあそんな具合でぼつぼつと下の方に降って行きました。 昇りと違って八貫匁の荷物も下りはごく平気なものですがどうも雪のために足を抜くのが困難でこれには閉口したです。 ちょうど一里ばかり降って行きますともうはや雪もなくなった。 さあそうすると 石磧 ( いしかわら )です。 ようやく でゴロゴロした石が一面に散らばって居てどこに足を突っ込んでよいのか解らない。 チベット 履 ( くつ )を 穿 ( は )いて居ますけれどもその履が石磧のために破れてしまいました。 もちろんそこへ来るまでには大分長らくの時日も経って居るものですからその履の破れるのも当り前の事で、履は破れる、足に出来て居る豆が破れて血が出る、そうしてそのゴロゴロした石にその血が染って行くという訳で、もうその痛さといったら実に堪えられないです。 それもただ円い石だけならよいが角の立った石が折々あってそれを 踏 ( ふ )まなければ行かれない所がある。 その上に重い荷物を背負って居るものですからどうも 身体 ( からだ )を軽く扱うことが出来ない。 ヒョッとその 角石 ( かくいし )の上に乗るとその荷の重みと共に足を踏み付けるものですから、要らない所に足を 辷 ( すべ )らしてまた 怪我 ( けが )をすることもある。 履が破れた上にも破れてしまったです。 で二里ばかり行きますと雪融の水の集った周囲の二里位の池と周囲一里位の池がある。 その池がちゃんと並んで居る。 その一つの池は長方形で一つのは円い池、その池の 端 ( はた )に出ますと誠に美しい鴨が居る。 茶色や赤色や白い所に黒点の混って居る大小幾羽の鴨がその池の辺に遊んで居るです。 誠にその水の 清冽 ( せいれつ )なることは透き通るばかり、 雪融 ( ゆきどけ )の水の集まった清浄な池といってよい。 そういう所に来るとまあその景色のよい所に荷を卸して一つよく眺めたら旅の疲れも充分休まるだろうと考えて、池の端にドッカリ坐り込んでゆっくり眺めて居るその時の愉快さはまたとない。 足は痛み腰は棒のようになって折曲げするのも実に辛いが、しかしその景色を見るとその苦しみは忘れてしまって遂には我を忘れて居るというような有様、しかしこういう所に昔から誰が来たことがあるか知らん、ないか知らんなどいう考えが起って来るです。 独り旅ですからな。 とにかく私がここへ行き当ったんだから一つ名を 命 ( つ )けて遣ろうと思って長方形の池には それからまた円い池には私が別名の「 仁広 ( じんこう )池」という名を 命 ( つ )けたです。 そんな池を発見したところで手柄でも何でもありませんけれども、まあそこは昔から人の来た跡もないような所ですからチベットに入った記念のためにそういう名を命けたのです。 しかしそんな事をしてそこに居ても仕方がない、まだ大分の時間もあるものですからもう少し西北の方に向って進んで行こうという考えで、だんだんとその池の縁を伝ってまた下へ指して降ったです。 下の方へ降って行きますとちょうど 瓢 ( ひさご )の形をして居る池がある。 それはその形によって「 瓢池 ( ひさごいけ )」と名を命けて置いた。 その池の 周囲 ( めぐり )は恐らく半里位しかなかったろうと思います。 それからだんだん下に降って行くと、ずっと向うに雪山がある。 その山の西北の方を見るとテントが二つ三つ見えて居る。 奇態だどうも、この辺にも人が住んで居るのか知らん、遊牧民でも来て居るのか知らんというような考えが起りました。 それはともかく私はそこで一つの心配が起りました。 ははああの家のある方向を指して行くとあるいは彼は道のない所から出て来た、怪しい奴だと疑われるような事があるとわがチベット進入の目的を達することが出来ぬかも知れない、こりゃ外の道を取るがよかろうといって外の方向を見ますと実に深山 重畳 ( ちょうじょう )として外に取るべき途はどこにも見当たらぬ。 その雪の 山辺 ( やまべ )のテントのある横に大変低い 山間 ( やまあい )があってその山が西北の方に向って走って居る。 まず間道でもあるであろうかというような所がちょっと見えて居る、どうもその方向へ指して行きたいような心持もした。 ともかくどうにか 極 ( きま )りを付けなければならんと言ってその荷物を卸してそれからまあそこへゆっくり坐り込んだ、というのは私は例の理論上で極められぬ事があるといつも 断事観三昧 ( だんじかんさんまい )に入って事をきめるのであります。 その例の手段を執ろうと思ってそこへ 廓然無聖 ( かくねんむしょう )と坐り込んだ訳です。 そもそもこの ということはおよそ事柄が道理で極められる事はその道理によりて善悪の判断を定めると言うことはむつかしくない。 ところが理論上において少しもきめられぬ事で将来に対してはどういう事が起って来るか、未定の問題については何か一つきめて置かなければならぬ事がある。 それは私は仏陀の坐禅を示された法則に従ってまず無我の観に入るのであります。 その無我の観中発見された観念のある点に傾くのをもって執るべき方法をいずれにか決定するのでござります。 そこで仮にこれを断事観三昧という名をつけたのでござります。 すなわちその方法によって向う所を決しようと思ってそこに坐り込んで 坐禅 ( ざぜん )を組んで我を忘れて居ったのですが、その時はどの位多くの時間を費やしたかも自分ながら分らなかったのでござります。 断事観三昧 ( だんじかんさんまい )の示すところによると深山の方へ行くのはよろしくない。 テントのある方に行くのが安全であるという決定でありますからそこでまた荷物を肩に背負うてぼつぼつと出掛けました。 普通の考えからいうとどういう困難な道でもまず 人家 ( じんか )のある方には行かないのがよいのですけれども、しかし人家がないからといって全く道のない所に出てしまってはまた困難な場合に陥るから、とにかくこれまで通り断事観三昧の指示するところに従ってやはり進行したのであります。

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寝てる間にゴキブリが来る確率

むかし むかし ある ところ に 死体 が ありま した

Q すずめやカラス、野鳩など 普段多くの野鳥が 空を飛び回っているのを目にしますが、 あの鳥たちの死骸を目にすることは稀です。 子どもの頃から30年来の謎なんですが、 一体全体、鳥はどこで死ぬんでしょうか。 山へ行って死ぬ?都会の真ん中に沢山いるのに? 巣で死ぬ?巣もそのうち落ちてくるのではないでしょうか。 死骸は落ちて野犬や猫に食われる?にしても残骸も見かけません。 私の父はむかし、幼い私に 鳥は死期が近づくと、太陽に向かって高く高く飛び、力尽きて海に落ちるんだよ、と話してくれましたが 夢はあっても、それってどう考えても嘘っぱち~です。 誰か、どうにか教えてくださると助かります! お願いします! A ベストアンサー 烏や野良猫に食べられるのと、野鳥は腐るのが速いそうです、我が家でもメジロの為にと蜜柑を半分に切り木の枝に刺して食べさせますが、蜜柑が地上に落ちた時、メジロも降りて餌を食べるのを狙って、猫がくわえて逃げるの何度かみました、罪なことをして可愛そうです 又飛ぶ為に骨が空洞になっている事と、頭骨の一部が嘴になっている、哺乳動物は顎があり食べ物を租借するので顎が発達して重くなるのと反対に、身体を軽く飛び易くする構造に進化したものと思われます 鳥類は食べ物を飲み込む為、軽いくちばしになり空気抵抗も少なく、空を飛ぶのに便利ななっている 落ちた死骸は腐って土になるのが早く昆虫に食べられ分解するため比較的死骸が眼にふれない A ベストアンサー 私の地元では最近、鳥インフルエンザが発生しました。 そのとき、地域住民から恐るべき数の鳥の死亡情報が寄せられました。 私の同僚の獣医がその鑑定にあたったのですが、まさに恐るべき数であったと聞いています。 その中にはもちろん、カラスもありました。 ということで、基本的にたくさんのカラスの死体は目撃されています。 でも、生体を見る数より死体を見る数が少ないのも事実。 しかし翻って、人間はどうですか? 遺体より遙かに大量の生体を見ていますよね? 結局、死亡する場所というのが偏在しているのです。 カラスは繁殖期以外は集団の塒(ねぐら)で過ごします。 この塒の下に他の動物(人間を含む)が立ち入ることをカラスは極端に嫌います。 逆に言うと、人の立ち入らないところにカラスは塒を作ります。 ということで、カラスの主な死に場所は、人間が立ち入らない場所なのです。 ちなみに人間の主な死に場所はいまや病院でしょう。 病院関係者は多数の人の死に立ち会っているはずです。

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#3 墓あなを掘る者

むかし むかし ある ところ に 死体 が ありま した

記念すべき実験A群の100回目は「栗」でございます。 茹でた栗を温かい状態と冷めた状態で食べてそれぞれ血糖値計りなさいというリクエストをいくつかいただいております。 ちなみにAB両群合わせると今回で113回目(公表してるもののみでってことですが)となって特に記念するような数字ではありません。 おヒマな方はでも見て復習しといて下さい。 さて、「栗」と聞けば96. 3%の方が「さるかに合戦」を思い浮かべるというのがブドゥ党計学上明らかとなっております。 熱々の焼け栗が顔面めがけて飛んでくるなんてのは経験してなくても見聞きしただけで十分にトラウマになる場面ですからね。 多少のバリエーションがあるものの、さるかに合戦の概要については皆さんご存知かと思うので省略し、この話の出来事が現在のあ・な・た・に起こったらどうなるかを考えてみましょう。 あなたがお猿さんの役です。 ある寒い冬の夜、あなたは仕事(または遊びまたは何らかの悪事)を終え、ワンルームマンションの一室に帰宅します。 色気も素っ気もない病院の照明のような蛍光灯の灯りをつけると、そこはすっかり見慣れたあなたのあなただけのシェルター。 没個性的な壁紙が張り巡らされた、息の詰まるような機密性を保つ狭い部屋には、何枚かの思い出写真や海外旅行のお土産、衝動買いしてしまったキャラクターグッズに滅多に使わないアロマポットやキャンドル。 一言で言えば「殺風景」。 でもあなたにとっては地上で唯一の、誰にも邪魔されず一人でくつろげる空間です。 そして寒さに震えるあなたは、すっかり冷え切った手でエアコンのスイッチをON。 エアコンが爆発 何が起こったがを把握するまでには多少の時間がかかりますが、ほどなくあなたは血まみれの全身に突き刺さったエアコンの破片と主に顔面に感じる火傷の痛みに事の重大さを理解します。 スマホが火を噴きながら破裂 実はリチウム系充電池って結構コワいんですよ膨らんだ爆発した火ぃ噴いたなんてのはそんなに珍しい話ではありませんからねー。 まあそれはいいとして、再びあなたを襲う火傷と金属片、カーペットに燃え移る炎。 刺し傷切り傷大やけど、血まみれのウ〇コまみれの玄関先。 うつ伏せで瀕死の虫のごとくピクピク蠢くあなたが最後の力を振り絞って上を向き天井を仰ぎ見ると、 廊下の天井が崩落 あなたが最後に見たものは、まるで空中で静止しているかのような大量のコンクリート片。 圧し潰される直前、あなたは呟きます。 「か…. 合戦じあ…. 仕方がない。 門外不出ではありますが、神代よりブドゥ党に伝わる真の「さるかに合戦」を伝授して存ぜよう。 心して読むがよい。 本来の「さるかに合戦」とは、文字通り「猿の妖怪軍」対「蟹の妖怪軍」の壮大な合戦の記録のことです。 蟹がおにぎり持ってたり猿が家屋に住んでたり子蟹が無生物の臼とか牛糞を誑かしたりする中途半端に妖怪じみたお子ちゃま向けのお話しとは間口も奥行きも資産価値も利回りも違うのです。 むかーしむかし、あるところに猿神を祀る神社がありました。 猿神伝承なんて本邦には腐るほどあるので昔どっかにお猿さん神社があったとしても何も不自然ではない。 そこに突然訪ねてきた僧形の男、宮司に会おうとしたのですがこの神社には管理者が常駐しておりません。 がしかしこの僧(というか僧っぽい者。 以下僧)、まごつくどころか勝手に神殿から社務所から侵入しまくります。 境内には神と崇め奉られて調子に乗り気味の猿がおりまして、僧の勝手な振る舞いに若干イラっとします。 まあそりゃするでしょうな。 そこでこの猿が宮司に化けて僧の前にまろび出まして、おんどりゃ何さらしてけつかんどんねんわーれーと河内弁そっくりの言語で怒鳴りつけようとした刹那。 適もさる者、いや猿なのは猿の方で僧ではないのですが、とにかくものに驚かない図々しい僧でございまして、口を開きかけた猿宮司に向かってこう怒鳴りました。 両足八足横行自在にして眼天を差す時如何っ!? 神主相手に問答仕掛ける坊主なんてのはそうそうおりません。 ましてや相手は宮司に扮したただの猿でございまして、答える以前に固まってしまいました。 僧は宮司(猿)が答えに詰まったと見るやいなや、右手を高々と振り上げますがよく見ればそれはなんと人の手ではなく巨大な蟹のハサミ。 チョッキンナべいべッ! あわれ猿宮司は真っ二つに切断されてしまいました。 この僧形の者、巨大な蟹の化け物、蟹坊主だったのです。 そしてこの神社には滅多に人がやってこないことをいいことに、蟹坊主はそのまま蟹宮司兼坊主として居座ってしまいました。 坊主が神社乗っ取ってどうすんだとかそれ以前にお前蟹だろうとか色々突っ込みたくはなりますがガマンして話を続けます。 蟹宮司兼坊主…. ややこしいから蟹坊主に戻しますが、ヤツは境内で甲羅干ししたりプクプク泡吹いたり横歩きしたりしてのほほんと暮らしておりましたが。 収まらないのは仲間の猿を両断された他の猿たちですな。 我が物顔の化け蟹めを退治するか追い出したい。 しかし相手は固い殻に覆われた横幅4メートルはあろうかという巨大蟹。 両手のいかついハサミは見るからに恐ろしく、また巨体にもかかわらず横移動の早いこと。 大抵の攻撃は華麗なサイドステップで避けられてしまうに違いありません。 猿ども(一応神なんですが)、協議を重ねた結果「ムリ。 助っ人が必要」との結論に至り、妖怪ポストにおてまみを投函しました。 と言っても鬼太郎宛のおてまみではありません。 猿神もまあまあ問題児の集まりですから、鬼太郎が来たらまとめて退治されてしまいかねませんからね。 ちゃんと全国の猿神に充てて郵送したのです。 さらには国内郵便だけでは不安だと、妖怪エアメールとか妖怪twitterとか妖怪facebookとか使えそうなものは全て使ってきっききっきと秘密裡に対蟹坊主連合軍の編成に勤しみました。 がしかし、猿神の類は一応霊長類の妖怪なものでして、たかだか甲殻類の変化、ざっくり言えば虫の仲間ごときと本気で戦うなんてやってられるかーい、てなもんで。 賛同してくれる者は意外と…. というか予想通り…. 少なかったのです。 超怪力。 玃猿:千年以上生きたアカゲザルの化け物。 身長1. 6メートルくらい。 人間の女子を拉致って子供を産ませるのが特技ってゆーかそれしかしない。 玃:覚と混同されてる残念キャラ。 能力的にはほぼ覚と一緒。 まあ、各地に適当な伝承があるのでお話が錯綜しまくっておるところを無理やりまとめておりますが、とにかくこんな連中が集まったのであります。 ととかく騒がしいのがデフォルトですから、一連の動きは蟹坊主には筒抜けでございまして。 のんびり泡吹いてるように見せかけて、こちらも密かに猿神どもと戦う準備を進めておりました。 向こうか猿尽くしでくるならこちらは色物尽くしで対抗してやろうと、なんか対抗するところ間違ってるような気もいたしますが、さすが坊主に化けて全国行脚していただけあって人脈というか妖脈は大したもの、なかなかバラエティ豊かな連中を集めました。 ご紹介しましょう。 古庫裏婆は有名な人食い婆ですし、赤蜂は能登の海上を赤く染めるほどの火力の持ち主、臼追い婆はただの臼背負ったババアですが常に臼しょってるんだからそこそこ力持ちでしょう。 牙も生えてるそうですし。 牛鬼に至っては毒は吐くわ狂暴だわ人間にも化けられるわ祟りで人を病気にするなんて朝飯前だわでもう攻撃力だけ見れば最強レベルでございます。 さて、これで役者は揃いました。 猿連合軍(以下、猿軍)が数日かけてひそひそきゃっきゃ(うるさい)と乗っ取られた神社を包囲する中、蟹連合軍(以下、蟹軍)は割と普通に包囲網をくぐり抜けて境内に集結いたします。 蟹と蜂とババアと牛って共通点探すの難しいし会話のネタがなかったんでしょうね。 そして戦闘の機運が高まってきたある日の明け方、前代未聞の激しい戦いが始まるので・す・が。 まず仕掛けたのは….. なんて書きだすと戦闘シーンを全部書かなければならなくなる。 てゆーか争い嫌いだし。 どのような戦いが繰り広げられたかは読者諸氏のご想像にお任せするとしましょう。 ただこれだけはないと言っておきます。 古庫裏婆が囲炉裏から飛び出して猿に噛み付いたり 赤蜂が水瓶に潜んで猿に火傷を負わせたり 本殿から慌てて外に逃げ出した猿どもが牛鬼のウ〇コで滑って転んだり そこに臼追い婆がマウンティングしたり そういう下品というかセコい戦いではなかったと伝えられております。 セコいどころか、この戦いの終盤ではなかなか派手なことになっておりまして。 蟹軍にはギリシアからカルキノス がそれぞれ合流いたしました。 巨大化け蟹のカルキノス様はに出てきたヒュドラの異父兄弟でございます。 ヒュドラがヘラクレスにやられそうになった時に、加勢しようとヘラクレスの脚を挟みましたが、あっさり踏みつぶされて 蟹汁お星さまになってしまった哀しみのカニです。 もちろんその星というか星座はかに座Cancer。 ちなみに同じく倒されてしまったヒュドラも天に上がってうみへび座Hydraとなりました。 そしてこの壮絶バトルの行く末も想像に任せてしまおうと思ったけど、さすがにそれは怒られそうなので簡単にお伝えしておきましょう。 結論から言えば、双方痛み分けというか共倒れと言うか、軍配の上げようがない結末でうやむやに終わったらしい。 概ねこのような内容です。 天空から神々しく降り立ったハヌマーンに対して両のハサミを高々と振り上げて迎撃態勢を整えていたカルキノス。 それを押しのけた割り込んできた蟹坊主、なぜか 両足八足横行自在にして眼天を差す時如何っ!? またもや問答を仕掛けちゃったらしい。 しかし今度は相手が悪かった。 いや悪すぎた。 なんせインドの神ですから。 音速を超えて飛ぶ独鈷杵は勢い余り過ぎて蟹坊主の身体を貫通、あえなく死亡しただの大蟹の死体となり果てます。 それを見ていたカルキノス、前世の反省からハヌマーンにいきなりしがみつくような事はせず、落ちた独鈷杵を素早く拾って超音速の横歩きでハヌマーンのサイドを取り、力いっぱいクラッシュザモンキーズチン! 再び顎を砕かれたハヌマーンは一旦地面に倒れたものの、今度は空を登ってたわけではないので転落死することはなく、ふらふらと立ち上がりこう呟きました。 そしてそのまま立ち去り、残されたカルキノスはしばらく所在なさげに佇んでおりましたが、どうにもアホらしくなってバツが悪そうな感じですごすごとお空に帰っていきましたとさ。 以上がブドゥ書記二十二巻四章十~十八節には記載されている内容です。 証拠はないものの、これが真の「さるかに合戦」であることは間違いない。 ということで特に党員の皆さまにおかれましては、今後はあのような悪趣味な集団リンチ話ではなく、こちらの壮大な妖怪バトルこそが「さるかに合戦」であると認識を改めるよう申し伝えておきます。 やっと終わったので栗のお話しに戻します。 かなり上の方でも申しました。 今回の実験材料は「 茹で栗」なんですが、 ・茹でたてホカホカ ・完全に冷ましたもの の両方で比較実験して欲しいというリクエストにお答えしたものであります。 どっちがどっちだか忘れましたけど。 一方は茹でたて、他方は冷蔵庫で一晩冷やしたものです。 茹で栗は重量比30%が糖質らしいのでそれぞれ100gずつ食べて血糖値計りました。 空腹時:75• 60分:111• 120分:90 【茹で栗(冷)】• 空腹時:75• 30分:134• 120分:90 デンプンが多そうなので、温かいのと冷たいので食べ比べたら、冷たい方が多少上がりにくいのでしょうねぇとこれまでの実験から類推しておりましたし、そうなったと言えばそうなったのですが。 ご飯の時ほど大きな差は見られませんでした。 ついでなのでご飯(温・冷)とも比べておきましょうかね。 糖質量は30gで同じです。 緑が温ご飯、黄色が冷ご飯。 大差あるでしょ。 最後に上昇分の比較グラフのっけときます。

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