イラン イラク 違い。 シーア派

イランの治安はとても良い!ただし日本との習慣の違いに注意!

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【バグダッド時事】米国が核合意離脱に伴い制裁を7日に再発動したイランをめぐり、隣国イラクが対応に苦慮している。 イスラム教シーア派が主導するイラクのアバディ政権は、シーア派大国イランと緊密な関係だったが、アバディ首相はこれまで巨額の復興支援を拠出してきた米国に配慮して対イラン制裁を順守する意向を表明。 反発するイランと溝が深まれば、中東の勢力図にも影響を及ぼしかねない。 イラクは1980年代、スンニ派のフセイン大統領(当時)の下でイランと戦火を交えた。 2003年のイラク戦争でフセイン政権が崩壊し、シーア派主導政権に代わると両国は急速に接近。 イラクにとって、今やイランはトルコ、中国などと並ぶ主要貿易相手国だ。 イラク国内には食品や建築材、自動車など安価なイラン製品が大量に出回り、苦境が続くイラク経済を支える柱の一つとなっている。 イラクで支配地域を広げたスンニ派の過激派組織「イスラム国」(IS)掃討作戦では、イランが支援するシーア派民兵がイラク正規軍と共に活躍した。 昨年には、独立の是非を問う住民投票でイラク中央政府と対立したイラク北部クルド自治政府の実効支配地域への進攻でも共闘。 軍事面でもイランの影響力は増している。 それだけに、イラン側は不満を募らせている。 アバディ首相は「制裁は戦略的な誤りであり、支持はしないが従う」と強調したものの、8月中旬に予定したイラン訪問を急きょ中止。 AFP通信は関係筋の話として、イランは当初訪問に同意していたが、アバディ氏の発言で態度を硬化させ、方針転換したと報じている。 報道によると、イラン最高指導者ハメネイ師の代理人は「イラクを守るために血を流したイラン殉教者に対する義理を欠いた態度だ。 (アバディ氏は)米国を前に心理的な敗北を喫した」と批判。 良好だった関係にきしみが生じている。

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サクッと5分で知る。スンニ派とシーア派の違いをわかりやすく解説

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ハローベイベー! こんにちは杉森です! さてさて今回は、 イスラム教の教派の違いでございます! キリスト教のカトリックやプロテスタントの様に、イスラム教でも教派の違いがあります。 それでは早速いきましょう! イスラム教には、どんな教派があるの? 主に「シーア派」と「スンニ派」に大別できる まずは下図をみてみましょう! うわお!ほぼスンニ派!そして次にシーア派!そして申し訳程度のその他! ということで、とりあえずスンニとシーアだけ抑えていたらOKです! どこの国がスンニ派で、どこの国がシーア派? 下の地図をご覧ください! 濃い茶色= スンニ派で、 明るい茶色= シーア派です。 具体的に国名をあげていきます! まずは少ない方の シーア派から! シーア派の代表の国といえば、 イラン! 国民の95%ほどがシーア派です! その他は、 イラク、アゼルバイジャン、バーレーン、レバノンはシーア派が主流の国です。 次に多い方の スンニ派! スンニ派の代表の国といえば、 サウジアラビア! 国民の90%弱がスンニ派です。 その他は、 シーア派で挙げた国以外の国は、基本的にスンニ派の国になります。 このように分かれているシーア派とスンニ派ですが、宗教的な基本的な教義はほぼ同じものですし、どちらもクルアーンを大切にしています。 しかし、ニュースなんかで「スンニ派武装勢力が行ったテロで、シーア派の市民が数十名死亡しました」というようなことを聞いたことがある方も多いのではないでしょうか。 ニュースなどを聞く限り、このスンニ派とシーア派は、非常に仲が悪そうです。 ではそもそも、このシーア派とスンニ派、なにが違うのでしょうか? スンニ派とシーア派の違い そもそもなんでわかれてるの? イスラム教の誕生時まで遡りましょう。 イスラム教は、 ムハンマドが創始者かつリーダーとして作られました。 ムハンマドの死後、そのリーダーの座には アブー・バクルという人が座りました。 リーダーなので、 イスラム教で一番偉い人になります。 このポストを、 カリフと言います ! そしてこの初代カリフである、アブー・バクルの後は、 ウマル1世 2代目カリフ 、ウスマーン 3代目 、アリー 4代目 と続いていきました。 ところが、4代目カリフのアリーが死んだ際、5代目カリフの選出は揉めに揉めました。 揉めた原因は、 血筋です。 一方は、 「ムハンマド一家の血筋のものがリーダーになるべき!」と声をあげ、もう一方は 「血筋関係なく、リーダーとして一番ふさわしい人がなればいいやん!」と言いました。 この意見の別れによって、スンニ派とシーア派の対立が、大々的に表面化しました。 血筋関係無い主義の人たちは、ムアーウィアという新リーダーのもと、ウマイア朝という政府をつくりました。 これが スンニ派の始まりです。 一方、 血筋が大切主義の人たちは、 イマームという新たなリーダーの地位を作り、死んでしまった 4代目カリフのアリー ムハンマドの従兄弟 を 初代イマームとし、そのアリーの息子の ハサンという人を 2代目イマームに任命、その後もスンニ派のウマイア朝と戦ってきました。 この人たちが後の シーア派になるのですね。 で、実際なにが違うの? わかりやすい大きな違いとしては、 偶像崇拝に対しての考え方の違いというものがあります。 基本的にイスラム教は偶像崇拝を禁止しているので、神様や創始者ムハンマドの絵画や像などは作られません。 また、キリスト教の十字架のような、祈りの対象となるものも存在しません。 しかし、シーア派の大国・イランに行くと、街中やモスクなどの至る所で シーア派イスラム教指導者の写真が多く飾られているのですね。 こんな感じです! これはイランのスーク(商店街)の写真ですが、真ん中上部の旗の右が現在の指導者の ハメネイさん、左がイラン革命を起こした昔の指導者 ホメイニさんですね。 このような宗教的指導者の写真や絵画が飾られるということは、スンニ派の国えはほとんどありません。 これが、わかりやすい大きな差ですね! 他にも、1日のお祈り回数の違いや、イスラム教徒として抱える義務の違い( スンニ派:五行六信と シーア派:十行五信)などがありますが、両者ともアッラーとクルアーンを信じ、モスクでお祈りし、一年に一回は断食するなど、実際のところ、我々日本人からみてもわかるほどの大きな違いはほとんどない、といえるのではないでしょうか。 スンニ派とシーア派が仲が悪いって本当? 宗派戦争ってなんだ? そしてやはり、イスラム教の宗派のお話をする上では、この話題は避けて通れません。 長年、多くのメディアではこのスンニ派とシーア派による 宗派戦争が起こっていると言われております。 例えば、2011年から起こっている シリア騒乱。 このシリア騒乱は、簡単に言うと アサド政権vs 反体制派の対立です。 このアサド政権は宗派で言うと アラウィー派という宗派に属し、アラウィー派はシーア派の一派とされている宗派です。 一方の反体制派は大部分が スンニ派で占められています。 そこで、アサド政権にはイランやイラクなどシーア派の国が、反体制派にはサウジアラビアなどのスンニ派の国が支援をしているのですね。 また、イエメンという国でも大統領とフーシさんという人の対立による内戦が起きており、ここでは大統領派が スンニ派、フーシ派は ザイド派(シーア派の一派)という形に分かれております。 図にするとこんな感じです。 このように、スンニ派とシーア派で陣営が分かれている戦争を、しばしば「宗派戦争」と呼ばれたりします。 でも、実はスンニ派とシーア派の対立には、大きく分けて 2種類あるのです。 そして全てが全て宗派が原因で争っているわけではないのですね。 むしろ、宗派以外の理由で争っている方が多いです。 では、この 「宗派の争い」と 「宗派以外での争い」の違いを見ていきましょう。 宗派の争い 宗派の争いとは、文字通り 「自分の宗派の考え方をゴリ押しするがために起こる争い」です。 これは主に、 イスラム教過激派によるものが多いです。 イスラム教過激派とは、「自分たちの理想とするイスラムの教えを完璧に再現するためであれば、例え人を殺しても構わない」と考える人たちです。 ISや アルカイダなどが有名ですよね。 この人たちは、自分とは異なる考えを持つもの、すなわち他宗派や他宗教の人は殺しても構わない、と考える傾向があります。 したがって、この人たちは宗派の違いが原因で争っていると言えるでしょう。 しかし、この様なイスラム教過激派の人たちは、イスラム教全体でみると ごく一部しか存在しません。 宗派以外での争い 宗派以外の争いとは、目的が「自分の宗派をゴリ押しする」ことではなく、 利権や覇権を獲得したいがために起こる争いです。 そしてやはり利権となると、中東という土地柄 「石油」に関しては大きいですね。 そんな石油に関する利権で争っているのが、中東の2つの大国である サウジアラビアとイランです。 この2つの国は、中東での石油埋蔵量の1位2位を争う国であり、激しく対立しています。 そして、国際社会ではやはり対立した2つの国というのは、より多くの仲間を獲得し、その力を大きくたいと考えるのですね。 (サウジとイランの関係に関しては、別の記事で詳しく解説いたします!) 例えばシリア騒乱にしてみると、 イランとしては中東で数少ない親シーア派(親イラン)政権であるアサド政権に倒れて欲しくないと思うのと同時に、 サウジアラビアとしては反体制派に勝ってもらい、サウジアラビアの息がかかるスンニ派政権を樹立したいと考えています。 そしてこれは、イエメンでも同じですね。 同じ理由から、サウジサラビア・イランの両国はイエメン内戦にも介入しています。 このような中東の 覇権や 利権を獲得したいがために、この2つの大国は他の国の戦争に介入します。 そして、サウジアラビアとイランはそれぞれスンニ派とシーア派のリーダー的存在なので、イラクやカタールなどのその他の国もそれに連れて介入をする傾向があります。 したがって、このような対立は、 「宗派で対立している」のではなく、「 覇権争いのを有利に進めたいがために、宗派を利用して仲間を集めている」と言えるのではないでしょうか。 (少し悪意のある言い方ですが。 ) と、以上のように、決して「スンニ派とシーア派は仲が悪いから対立しているのだ!」とは 安直には言い切れない部分もあるのです。 実際のイスラム社会の中でも、一般の人々の間では自分の宗派を意識することはほとんどない人の方が多い様です。 中には、欧米のメディアがシーアとスンニの対立ばっかり言うので、それを聞いて逆に意識をしだした、という人もいるくらいです。 とは言っても、実際に国際社会ではシリア情勢の様に、シーア派とスンニ派で2チームに分かれる場合が多いので、ニュースを理解するためには「どの国がスンニ派で、どの国がシーア派の国」という点は理解しておいた方が良いのは間違いがないです。 ただし、 「スンニ派とシーア派で分かれているからといって、彼らは宗派で争っているとは言い切れない!」ということは重大な事実なので、覚えておきましょう! 以上!今回はここまでにします! それではまた別記事でお会いしましょう!チャオ!.

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イランとイラクの違いってわかる?『イラン人は面白すぎる!』

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アケメネス朝の後、226~651年にわたって栄えたササン朝ペルシャ時代には、シルクロードを経由して、遠く日本とのつながりも生まれました。 奈良・正倉院に収蔵されているガラス器「白瑠璃碗」は、往時のペルシャ帝国の繁栄をしのぶ品として有名です。 現在のイランは、日本の4. 4倍(約165万平方km)の広大な国土に、7,000万人以上の人々が暮らす地域大国です。 ペルシャといえば、「砂漠」に「ラクダ」のイメージが強いかもしれませんが、首都テヘラン(Tehran)などイラン北西部はとても緑豊かな高原が広がっており、中東最高峰のダマーヴァンド山(標高5,604m)をはじめとする4,000m級の山々も連なっています。 冬には国内外からスキーヤーが集まるスキー場もあります。 カスピ海沿岸地方では、水田による稲作も行われています。 すべて手織りのため同じものは二つとない上、品質の高さと文様の華麗さは、今も変わらず世界中を魅了しています。 意外と知られていないペルシャ発祥のものに「古典音楽の楽器」があり、ペルシャの打弦楽器「サントゥール」は、ヨーロッパに伝わって「ピアノ」のルーツになったと言われています。 また、も世界各地に伝わり、例えば、英語のレモン(lemon)とライム(lime)はペルシャ語のリームー(limu)から、パラダイス(paradise)、シャーベット(sherbet)、キャラバン(caravan)、市場(bazar)などもペルシャ語からきた言葉です。 世紀を超えて世界に影響を与えてきたペルシャの面影は、「ペルセポリス」「イスファハンのイマーム広場」などの歴史的遺跡に凝縮されています。 イスラム化が進んだのは、ササン朝滅亡後、モンゴル帝国の侵攻などを経て、1501年にイスラム教シーア派を国教とするサファヴィー朝が成立して以来のことです。 しかし、1925年、クーデターによってパフラヴィ朝を開いたレザー・ハーンは、政治の非宗教化などによってイランの近代化を進める政策を急速に進めました。 それは、イランを「脱イスラム化」路線に転換させるもので、1936年にはイスラム女性が全身を覆うために着る黒い布「チャードル」の着用禁止令を出し、代わりに洋服着用令を発令、さらには、後継の国王が1962年から農地改革、婦人参政権、識字運動を進めていきました(白色革命)。 しかし、この急激な改革は、秘密警察などを伴った強権的なものでもあったため、結果として国民の強い反発を招くこととなりました。 そして、それが後にイスラム革命を引き起こす要因となりました。 国民はこれを宗教弾圧だとして不満を募らせていき、1978年、ついにこの不満が表面化しました。 ホメイニ師を中傷する記事を巡る暴動を皮切りに、国内各地で暴動が相次ぎ、次第に民主化を求める勢力や左翼勢力も巻き込んで、大規模な王制打倒運動へと発展していきました。 軍とデモ隊が衝突し死傷者が出る事件も起こり、事態収拾に行き詰まった国王は翌1979年、国外に退去。 国王と入れ替わる形で、ホメイニ師が15年ぶりに母国イランへ帰国し、パフラヴィ朝に代わる「イスラム共和国」の設立を宣言しました(イラン・イスラム革命)。 革命後、新政権はパフラヴィ朝をバックアップしていた米国との対決姿勢を強め、両国の関係は急速に悪化していきます(1980年、国交断絶)。 一方、周辺のイスラム諸国(主にスンニ派)は、厳格なシーア派国家となったイランからの「革命の輸出」に対する警戒感を強めました。 この結果、イランは欧米諸国だけでなく、イスラム諸国の中でも次第に孤立を深めていくことになりました。 高学歴化する現代ムスリム女性たち イラン・イスラム革命後に表れた変化のひとつに、「女性の活躍」があります。 一般的に、イスラム社会では女子教育に消極的なケースが多いとされていますが、イランではイスラム教の教義に基づき、「男女隔離政策」を徹底した上で、女子校の増設や女性教諭の育成・派遣など女子教育にも力を入れてきました。 こうした取組が、「男性の目に触れるのではないか」という両親の懸念を払拭し、都市部だけでなく、保守的な地方農村などでも女子教育が浸透したと言われています。 また、イラン・イスラム革命から約30年が経過した現在、イランでは大都市を中心に女性の高学歴化が進み、教育や医療をはじめ多くの分野で女性が活躍するようになりました。 企業の管理職や閣僚、国会議員にも、少数ながら女性の姿が見られるようになり、女性専用タクシー会社の設立や女性のバス運転手採用なども話題となっています。 それが、「イラン・イラク戦争」です。 争いの発端は、両国経済を支える「石油」の輸出の要所で、国境付近を流れる「アルヴァンド川(シャットル・アラブ川)」の使用権をめぐる衝突でした。 この時、米国、欧州、ソ連などは、敵対するのサダム・フセイン政権を強力に支援。 1988年に停戦が成立するまで、攻防が続けられました。 8年間に及んだイラン・イラク戦争は、両国に多くの犠牲と経済的損失をもたらしただけでなく、中東地域、ひいては国際社会の安定にも大きな影を落としました。 なお、この戦争からわずか2年後の1990年、今度はイラクがに軍事侵攻し、米国など多国籍軍との間で「湾岸戦争」が始まったのでした。 イラン人の"ジャパニーズ・ドリーム" イラン・イラク戦争の停戦後、イラン政府は復員兵士の雇用促進を図るため、海外への「出稼ぎ労働」を奨励しました。 当時、バブル経済に沸いていた日本では円高が進んでおり、イランの人々にとって、日本はとても魅力的な出稼ぎ先でした。 さらに、日本とイランは石油貿易などで経済的結びつきが強く、査証免除協定によって「ビザなし」で入国ができたため、「日本へ行けば、将来豊かな生活が送れる」という"ジャパニーズ・ドリーム"がイラン人の間に広まっていきました。 このため、1990年頃には多くのイラン人が出稼ぎのためにやってきました。 しかし、一部のイラン人による麻薬取引や偽造テレフォンカード売買など違法行為が後を絶たず、1992年、査証免除協定は一時停止されました。 イランのアフマディネジャード大統領は、原子力発電など「平和利用目的」での核開発を主張し、ウラン濃縮活動を続けているとしています。 しかしながら、米国などは「核兵器開発の懸念が払拭できない」としてイランを非難し、国連安全保障理事会は制裁措置などを含む決議を採択しています。 これに対し、イランは査察の受け入れなどとの協力を継続していますが、今なお国際社会の理解は得られていません。 日本は、この問題が平和的・外交的に解決されるよう、あらゆる場でさまざまな働きかけを行っています。 イランでは、ゾロアスター教の文化習慣が色濃く残っているため、日常生活では、春分の日(毎年3月21日)に新しい年が始まる「ヒジュラ太陽暦」を使っています。 3月20日の「年末」には、家族でペルシャ絨毯を洗って大掃除をし、「正月」は親戚の家に集まって新年の挨拶をしたり、子どもにお年玉やプレゼントをあげたりして過ごします。 また、日本人が俳句や短歌を楽しむように、イラン人も幼い頃から詩に親しみ、普段の会話の中にも古典詩句をよく引用します。 日本の書道によく似たペルシャ文字の「書道」も盛んです。 の会話では、「お疲れさまです」「お手を煩わせます」といった日本的な表現や、「ここは私が払います」「いやいや、ここは私が・・・」といったお約束のやりとりもあります(これらは「ターロフ文化」と呼ばれています)。 「おもてなしの心」や「義理人情」「恩義」を大切にするところも、どこか日本人に通じるものがあり、日本のTVドラマ「おしん」はイラン人の琴線に触れて大ブームを巻き起こしました。 その代表的な例として挙げられるのが、「地震」と「環境汚染」です。 イランは日本と同じく火山帯に位置しており、2003年12月にはイラン南東部でが発生し、約34,000人の死者を出す大災害となりました。 地震大国の日本は、すぐに国際緊急援助隊医療チームの派遣、緊急援助物資の供与、緊急無償資金協力などを実施。 さらに、を通じて、地震対策に関する日本の知見を伝えたり、早期被害予測システム開発への協力をしたりしています。 また、首都テヘランで深刻な問題となっている大気汚染対策についても、日本の知恵と経験に基づいた技術協力を行っています。 2009-2010年は、日本とイランの外交関係が開設されてから80周年にあたりますが、シルクロードを超えた交流の歴史はすでに1000年以上にも及んでいます。 イランの発展、そして、国際社会との協調と安定を目指し、日本はイランとの友好を更に深めていきます。

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