般若心経 全文。 般若心経の意味とは?全文訳。唱えるとどのような効果があるの?

般若心経の意味とは?分かりやすく内容を紹介します

般若心経 全文

般若心経の意味とは? 般若心経の読み方は 「はんにゃしんぎょう」です。 般若心経とは、 大乗仏教(だいじょうぶっきょう)の神髄(しんずい・本質のこと)を説いた経典です。 「大乗仏教」とは、ユーラシア大陸の中央部から東部にかけて信仰されてきた仏教の分派のひとつで、自分ひとりの悟りのためではなく、すべての生き物たちを救いたいという考え方です。 唐の時代(618年~907年)、中国の僧侶であった 玄奘三蔵(げんじょうさんぞう・西遊記などで有名な三蔵法師のこと)は、仏典の研究のためには原典を学ぶ必要があると考え、インドへ旅立ち、多くの経典を持ち帰りました。 帰国した玄奘三蔵は、その後の生涯を持ち帰った経典のサンスクリット語を漢語に訳すことに捧げ、600巻ほどにまとめました。 そして、その中から大乗仏教の神髄とも言うべき部分を抜粋しまとめあげたのが「般若心経」といわれています。 般若心経の文字数は、本文だけなら266文字、経典のタイトルである「摩訶般若波羅蜜多心経」を加えると276文字になります。 般若心経の全文 般若心経の全文は以下のようになっています。 摩訶般若波羅蜜多心経 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多 故心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒 能除一切苦 真実 不虚故 説般若波羅蜜多咒 即説呪曰 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提僧莎訶 般若心経 般若心経の現代語訳(読み方と意味) ではそれぞれの読み方とその意味を解説していきます。 この此岸にある者が修行をすることで煩悩や悩みの海を渡って辿り着く悟りの世界を「彼岸(ひがん)」といいます。 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 (かんじざいぼさつ きょうじんはんにゃはらみたじ) 観音菩薩が、「自分が存在するとはどういうことなのか」という問いについて深く瞑想していた時、 照見五蘊皆空 度一切苦厄 (しょうけんごおんかいくう どいっさいくやく) 人間という存在を構成している五つの要素(形(身体)、受(感覚)、想(知覚)、行(意思)、識(認識))がどれも実体を持たないことを見極め、あらゆる苦しみと災いを克服しました。 舎利子 色不異空 空不異色 (しゃりし しきふいくう くうふいしき) ブッダの弟子であるシャーリプトラよ、形あるものは実体がないことと同じことであり、実体がないからこそ形あるものとして存在するのです。 色即是空 空即是色 (しきそくぜくう くうそくぜしき) したがって、形あるものはすべて実体がなく、実体がないものはすべて形あるものなのです。 受想行識亦復如是 (じゅそうぎょうしきやくふにょぜ) それは、人間という存在を構成している感覚、知覚、意思、認識の働きの場合も全く同じことです。 舎利子 是諸法空相 (しゃりし ぜしょほうくうそう) ブッダの弟子であるシャーリプトラよ、このようにあらゆる存在には、実体がないものなのです。 不生不滅 不垢不浄 不増不減 (ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん) 生じることもなければ滅することもありません。 汚いとか、綺麗かということもありません。 増えることもなく、減ることもないのです。 是故空中 無色 無受想行識 (ぜこくうちゅう むしき むじゅうそうぎょうしき) 物事すべてには実体というものは存在しません。 形あるものはなく、感覚、知覚、意思、認識もないのです。 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 (むげんにびぜっしんに むしきしょうこうみそくほう) 目、耳、鼻、舌、体、心といった感覚器官とそれぞれの感覚器官に対する形、音、香、味、触覚、心の対象というものもないのです。 無眼界 乃至無意識界 (むげんかい ないしむいしきかい) 私たちは感覚器官で周囲の世界を感じ取りますが、私たちが理解できる世界とは、自分の感覚器官が感じた世界であって、世界そのものを感じているわけではありません。 無無明 亦無無明尽 (むむみょう やくむむみょうじん) 悟りに対する無知はありませんし、悟りに対する無知がなくなることもないのです。 乃至無老死 亦無老死尽 (ないしむろうし やくむろうしじん) 老いや死というものも存在しておらず、老いや死がなくなることもないのです。 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 (むくしゅうめつどう むちやくむとく いむしょとくこ) 苦しみもないし、苦しみをなくす方法もありません。 知ることもなければ、得ることもありません。 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 心無罣礙 (ぼだいさった えはんにゃはらみたこ しんむけいげ) 悟りを求める者は、彼岸に至る本質的な智慧によって、心には何の妨げもありません。 無罣礙故 無有恐怖 (むけいげこ むうくふ) 何の妨げもありませんから、恐怖も存在しません。 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 (おんりいっさいてんどうむそう くぎょうねはん) あらゆる誤った考え方を超越し、どのようなことにも揺らぐことのない心の境地に行きつくのです。 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提 (さんぜしょぶつ えはんにゃはらみた とくあのくたらさんみゃくさんぼだい) 過去、現在、未来、多くの仏様がおり、彼岸に至る智慧を得た仏様たちは悟りを開くことができたのです。 故知般若波羅蜜多 是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒 (こちはんにゃはらみた ぜだいじんしゅ ぜだいみょうしゅ ぜむじょうしゅ ぜむとうどうしゅ) したがって、彼岸に至る智慧はあらゆる人に平等にもたらされるこれ以上ない尊いものなのです。 能除一切苦 真実 不虚 (のうじょいっさいく しんじつ ふこ) あらゆる苦しみを取り除くのですから、苦しみから逃れようとして苦しむことなどありません。 故説般若波羅蜜多咒 即説呪曰 (こせつはんにゃはらみたしゅ そくせつしゅわく) ここで、彼岸に至る本質的な智慧に目覚める呪文。 それは即ち、 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提僧莎訶 (ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼじそわか) 往き往きて、彼岸に往き、彼岸に到達した者こそ悟りそのものである。 幸あれ! 般若心経 (はんにゃしんきょう) 般若心経をここに終える。 唱えるとどのような効果があるの? 般若心経を唱えることで、般若心経のことを理解できるだけでなく、心身がリラックスしたり脳が活性化するなど、さまざまな効果があるといわれています。 自然と般若心経を理解できる 般若心経を何度も唱えることで、自然とその意味が理解できるようになるといわれています。 心身を落ち着かせる 一心に唱えることで、仏様が教えを説いてくださっているように感じ、心身が落ち着きます。 また、長時間集中することで悩み事やストレスから切り離され、リラックスできます。 功徳が積める 功徳(くどく)とは、人が行うべき行動、善行のことで、唱えることで功徳が積まれるといわれています。 脳が活性化される 難しい漢字を読むことで、長時間集中するので脳が活性化され、認知症予防や思考が冴えるなどの効果があります。 集中力や忍耐力が身につく わずか300文字足らずの文字数ですが、すべて漢字です。 それらを唱える時には集中しなければなりませんし、最後まで続けるには忍耐力も必要です。 繰り返すことで自然と集中力や忍耐力が身につきます。 また、般若心経を唱えるだけではなく、 「写経(しゃきょう)」をすることでも同じような効果が得られます。 写経とは、お経を書き写すことで、どのお経でも良いのですが般若心経が最も有名です。 般若心経がどういうものかわかりましたか? 仏教の神髄ですから、簡単に理解できるものではありませんが、他のお経に比べると短く簡潔にまとめられた般若心経は、昔から人々の心のよりどころとなっていたようです。 ここでご紹介した般若心経の意味は現代訳された一般的なものです。 宗派によって解釈が異なることもありますので、ご自身の宗派ではどのように解釈されているのか調べてみるといいかもしれませんね。 関連: 関連: -.

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般若心経の意味|全文を行ごとにわかりやすく直訳解説

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全国の 葬儀場• 北海道・東北• 甲信越・北陸• 中国・四国• 九州・沖縄• 全国の 火葬場• 北海道・東北• 甲信越・北陸• 中国・四国• 九州・沖縄• 葬儀の 知識• 01 02 03 04 05 06• 07 08 09 10• 般若心経とは? 般若心経は仏教経典です。 欧米諸国でも数多く翻訳されており、 "世界で一番有名なお経"とも、いわれています。 仏教経典とはお釈迦さまが説いた教えを記録した書物のことで、浄土真宗や日蓮宗を除くほとんどの宗派で法要の際には必ずと言ってよいほど般若心経が唱えられます。 般若心経の意味 般若心経は仏教のうち、大乗仏教の"般若"や、 "空"(くう)という思想を説いた経典です。 "般若"とは "悟り"の意味を指します。 般若と聞くと、鬼のような形相をした、恐ろしい顔を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか? しかし、実は、般若とは、もともとサンスクリット語で、 「悟り」や 「智慧」という意味です。 なぜ、般若=鬼をイメージさせることになったかは諸説があるようですが、必ずしも定説はないようです。 ですので、般若心経とは、悟りを得るための経典という意味となります。 また、"空"とは、すべての存在は因縁によって生じたものであり実体のないものであるとする思想のことをいいます。 内容は、深く知ろうとすればするほど、複雑で理解が難しいものとなりますが、何千年も前から、宗教として考えられている深い考えなので、難しくて当たり前ですよね。 ものすごくシンプルに言うと、あらゆるものは、 「からっぽ」、 「無」なのである、だから、目の前にある苦しみや迷いも存在しない、恐れることなく、悟りの境地に向かおう、とする思想を表しています。 "空"に関しては、『 色は空に異ならず。 空は色に異ならず。 色は即ち是れ空。 空は即ち是れ色。 受想行識もまたかくの如し。 』という、 「色即是空」という言葉が一番有名です。 その意味は、『 物質は「空」と異なるところはありません。 「空」も物質と異なるところはありません。 物質は、「空」であり、「空」はすなわち物質のことです。 感覚、自分の考え、意思、行動、あらゆるものの実体は存在しないのです。 』というものとなります。 こうした般若心経をご葬儀であげることには、二つの意味があります。 1つ目は、亡くなった方へのご供養という趣旨と、2つ目は、こうした経典により残された方を励まし、教え導く意味を持っています。 般若心経の歴史と由来 般若心経において、実際に教えを説くのは観音菩薩であり、釈迦如来が本尊として登場します。 なお、菩薩や如来というのは良く聞きますが、どのような意味なのでしょうか?実は、「悟り」と一口に言っても、低いさとりから高いさとりまで、全部で52の位があり、こうした位がある中で、如来は最高位であり、菩薩は如来になるために努力している人を指しますので、如来の方が偉いということとなります。 そもそも宗教には、 「経(教え)」「律(戒め)」「論(道理)」の3つの種類があり、その中の 「経」が、仏が教えを説いたものとされます。 釈迦は弟子に教える時に文書に残さず、口伝していたので弟子たちの間で教えへの解釈に矛盾が生じました。 そこで弟子たちは、 「結集」という会議を開いて、釈迦の教えである 「仏典」の整理を行いました。 結集は、仏滅後約500年の間に4回ほど行われ、そこで 「経」「律」「論」の三蔵が生まれたといわれています。 そして後に、古代インドのパーリ語やサンスクリット語で書き残されたのです。 般若心経の漢訳 かんじざいぼさつ 観自在菩薩 ぎょうじんはんにゃはらみったじ 行深般若波羅蜜多時 しょうけんごうんかいくう 照見五蘊皆空 どいっさいくやく 度一切苦厄 しきふいくう 色不異空 くうふいしき 空不異色 しきそくぜくう 色即是空 くうそくぜしき 空即是色 じゅそうぎょうしき 受想行識 やくぶにょぜ 亦復如是 しゃりし 舎利子 ぜしょほうくうそう 是諸法空想 ふしょうふめつ 不生不滅 ふくふじょう 不垢不浄 ふぞうふげん 不増不減 ぜこくうちゅうむしき 是故空中無色 むじゅそうぎょうしき 無受想行識 むげんにびぜつしんに 無限耳鼻舌身意 むしきしょうこうみそくほう 無色声香味触法 むげんかいないしむいしきかい 無限界乃至無意識界 むむみょう 無無明 やくむむみょうじん 亦無無明尽 ないしむろうし 乃至無老死 やくむろうしじん 亦無老死尽 むくしゅうめつどう 無苦集滅道 むちやくむとく 無知亦無得 いむしょとくこ 以無所得故 ぼだいさった 菩提薩垂 えはんにゃはらみった 依般若波羅蜜多 こしんむけいげ 故心無圭礙 むけいげこむうくふ 無圭礙故無有恐怖 おんりいっさいてんどうむそう 遠離一切転倒夢想 くきょうねはん 究境涅槃 さんぜしょぶつ 三世諸仏 えはんにゃはらみつたこ 依般若波羅蜜多故 とくあのくたらさんみゃくさんぼだい 得阿耨多羅三藐三菩提 こち 故知 はんにゃはらみった 般若波羅蜜多 ぜだいじんしゅ 是大神呪 ぜだいみょうしゅ 是大明呪 ぜむじょうしゅ 是無上呪 ぜむとうどうしゅ 是無等等呪 のうじょいっさいく 能除一切苦 しんじつふこ 真実不虚 こせつはんにゃはらみつたしゅ 故説般若波羅蜜多呪 そくせつしゅわつ 即説呪曰 ぎゃていぎゃていはらぎゃてい 羯帝羯帝波羅羯帝 はらそうぎゃてい 波羅僧羯帝 ぼうじ 菩提 そわか 僧莎訶 はんにゃしんぎょう 般若心経 般若心経の和訳 観音菩薩が深遠な知恵を完成するための実践をされている時、人間の心身を構成している五つの要素はいずれも本質的なものではない事を見極めて、そしてすべての苦しみが取り除かれたのである。 そして舎利子に向かい、次のように述べた。 舎利子よ、形あるものは実体がないことと同じことであり、実体がないからこそ一時的な形あるものとして存在するものである。 したがって、形あるものはそのままで実体なきものであり、実体がないことがそのまま形あるものとなっているのだ。 残りの、心の四つの働きの場合も、まったく同じことなのである。 舎利子よ、この世の中のあらゆる存在や現象には、実体がない、という性質があるから、もともと、生じたということもなく、滅したということもなく、よごれたものでもなく、浄らかなものでもなく、増えることもなく、減ることもないのである。 したがって、実体がないということの中には、形あるものはなく、感覚も念想も意志も知識もないし、眼・耳・鼻・舌・身体・心といった感覚器官もないし、形・音・香・味・触覚・心の対象、といったそれぞれの器官に対する対象もないし、それらを受けとめる、眼識から意識までのあらゆる分野もないのである。 さらに、悟りに対する無知もないし、無知がなくなることもない、ということからはじまって、ついには老と死もなく老と死がなくなることもないことになる。 苦しみも、その原因も、それをなくすことも、そしてその方法もない。 知ることもなければ、得ることもない。 かくて、得ることもないのだから、悟りを求めている者は、知恵の完成に住する。 かくて心には何のさまたげもなく、さまたげがないから恐れがなく、あらゆる誤った考え方から遠く離れているので、永遠にしずかな境地に安住しているのである。 したがって次のように知るがよい。 知恵の完成こそが偉大な真言であり、悟りのための真言であり、この上なき真言であり、比較するものがない真言なのである。 これこそが、あらゆる苦しみを除き、真実そのものであって虚妄ではないのである、と。 そこで最後に、知恵の完成の真言を述べよう。 すなわち次のような真言である。 往き往きて、彼岸に往き、完全に彼岸に到達した者こそ、悟りそのものである。 めでたし。 知恵の完成についてのもっとも肝要なものを説ける。 ーこの訳は、故花山勝友氏によるものです。 これは人間の感覚についても同じである。 そして実体がないのであれば、 生まれることもなく消えることもなく 汚れることもなく清らかでもなく 増えもせず減りもしないのだ" と、呼びかけています。 真の世界では、目に見えるものやそれによって感じたこと、思ったことは全て存在せず、無知からくる悩みもありません。 しかしその悩み自体は尽きることはなく、苦しみも、それを解決する方法も、それを知る方法もない事を第3ブロックでは書かれています。 苦しみを知る観音菩薩だからこそ、全ての夢想・欲から離れることでニルヴァーナへと至ることができたのでしょう。 "往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ" この言葉により、苦しみは解き放たれるとされています。 苦しみから解き放されること、それこそが般若心経なのです。 【空】の思想とは? 般若心経の 「空」の思想を理論化したのは、古代インドの哲学者ナーガルジュナです。 ありとあらゆる物事は、全て 「空」なのです。 たしかにそこに 「空」は在るのです。 在るのは現象だけであって、その実体は存在しない。 この世に存在するあらゆる物事は絶えず移り変わり永遠不変なるものは存在せず、全ての物事には必ずそれが起こった原因がありあらゆるものは他との関係が縁となることで存在する。 この世の全ての存在は 「空」であると理解されるのです。 【真言】の修行法と意味 般若心経の後半でも唱えられる 「般若波羅蜜多」。 この修行は 「真言」を繰り返し唱える 「念誦法」と呼ばれる方法で行う修行です。 「真言」を繰り返して唱えてそれ自身に集中し瞑想し一体化し、自分が普段体験していることや外界の存在など 「現実」を対象にして観察する。 そして実際には存在しないこと、すなわち 「空」であることを認識して理解する修行である。 そもそも 「真言」とは、 「いつわりのない真実の言葉、秘密の言葉」という意味を持つ。 「呪」や 「神呪」と理解される場合もある。 般若心経についてのまとめ 知れば知るほど般若心経は興味深く、そして魅力的な意味を持つものでした。 「空」の考え方に身を置くと心が解かれ楽になる気がします。 それこそが般若心経の教えであり、救いなのではしょうか。 新型コロナウイルスの鎮静を願う「僧侶読経・法話リレープロジェクト」 当社、ライフエンディングテクノロジーズ株式会社は、全国の僧侶と連携し「医療崩壊を防ぐために新型コロナと向き合ってくださっている医療関係者」へのチャリティーを行います。 新型コロナウイルス鎮静を祈願するため、100人僧侶般若心経読経・法話リレープロジェクトを行い、本プロジェクトにより得た収益は全額「医療従事者の方へのマスクなどの寄付」として使用させていただきます。 賛同を頂ける寺院・僧侶の募集も行っております。

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般若心経

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もっとも有名なお経の1つ 『般若心経』は短いお経であり、おそらく日本でもっとも広く知られているお経です。 そして、知られるだけの内容が、確かにこの経典には存在します。 ただ、 読めばその内容が理解できるかといえば、それは難しいと言わざるをえません。 基礎的な仏教の知識がなければ理解できない言葉がいくつもでてきますし、余分な言葉は削ぎ落とされてエッセンスだけで構成されているため、わかりやすく伝えようとする配慮は皆無。 それだけに、解説書も山のように存在します。 しかし悩ましいのは、その解説書がまた難解なところ。 解説書の解説書が必要なのではないかと、私自身、思わず断念して閉じてしまった本も少なくありません。 『般若心経』の構成 『般若心経』は ブッダの弟子の一人であるシャーリプトラに、観音菩薩が教えを説くというシチュエーションで全文が構成されています。 しかし、それも一般的には知られていないことであり、それがこの物語の理解を一層遠ざける結果となってしまっているようにも思います。 じつは日本に伝わっている『般若心経』は「小本」とよばれるものであり、このほかに「大本」よばれるものが存在するのです。 「小本」と「大本」は、その説かんとする内容に違いはありませんが、 「大本」にはプロローグとエピローグが付いているという点が異なります。 そこで述べられている状況設定が「小本」には存在しないため、どうしても「小本」は唐突に話がはじまるように感じられてしまうのです。 もし「大本」の内容を知りたい方は、『般若心経』の訳本として古典のような不動の存在となっているをご一読されることをオススメします。 わかりやすく現代語訳する 物語のなかで観音菩薩は、一人の人間のような存在として登場しているので、ここでの訳においても観音菩薩は人間のような存在として書きました。 そのほうがわかりやすいと思うからですが、そうした配慮が果たして訳として相応しいかといえば、それはわかりません。 私はあくまでも、 1つの物語としてもっとも理解しやすい形の『般若心経』の現代語訳が書きたいのであって、原文を忠実に訳したいわけではありません。 『般若心経』は何が言いたいのか、何を伝えたいのか、その意図するところを訳したいのです。 したがって、原文には記載がないけれども補足すべき事柄があるというような箇所には、注釈とすべきことも本文のなかに組み込んで書きました。 これはもう訳を越えてしまっているわけですが、それがなければ『般若心経』をわかりやすく読むというのは不可能に思います。 正確性を重視した忠実な訳の解説書は数多あるので、ここで一通り内容を理解した後にそれらで詳細に学ぶという方法をとったほうが、おそらくは理解しやすいものと思います。 では、さっそく『般若心経』の現代語訳(私訳)に移りましょう。 太字で書かれているのが原文で、( )に書かれているものが読み方(唱え方ではない)で、その下に書かれているのが訳になります。 照見五蘊皆空 度一切苦厄 (しょうけんごおんかいくう どいっさいくやく) 私たち人間という存在は、身と心によって成り立っている。 だから私は、自分とは何かを知るために、 この身と心のどこに自分が存在しているのかを確かめようとした。 しかし、物質的な肉体も、視覚・聴覚といった感覚作用も、それを受けとる知覚も、あるいは意思や認識といったあらゆる精神作用すべて、どれを詳細にみても「これこそが自分だ」というようなものを見つけることはできなかった。 確固たる自分は、どこにも存在しなかったのだ。 驚いたことに、 「自分」という実体は、じつはこの世界のどこにも存在しなかったのである。 その真実を知って私は驚きを隠せなかったが、同時に苦悩から解き放たれるような安らぎを覚えた。 色不異空 空不異色 (しきふいくう くうふいしき) まず私たちの体を詳細に観察すれば、これは「体」という固有の「もの」が存在するのではなくて、たとえば原子というような、様々なものがくっついて出来上がっていることがわかるだろう。 つまり「体」が存在するのではなく、いろいろなものが集まってできた「物体」を、私たちは体と「呼んでいる」にすぎないのだ。 これは事実として理解できるね? 体というものは、いや、体だけでなくあらゆる物体は、それ固有の実体が存在しているのではなく、あくまでも何かが集まった「状態」にすぎない。 不変の自分、つまり自性(じしょう)と呼ぶべきものはなく、すべて無自性なのだ。 この、 「あらゆる物体に実体はない」という真実に、まず名前を付けてしまおう。 「物体に実体は存在しない」という真実を、「空」と名付けることにするから、これから私が「空」と言ったら、「物体に実体は存在しない」「自性がない」という意味であると覚えておいておくれ。 色即是空 空即是色 (しきそくぜくう くうそくぜしき) 私たちが感じとるあらゆる物体は、固定的な実体がなく「空」という性質によって成り立っている。 存在を支配する根本の原理は、この「空」という真実なのだ。 そして 存在は「空」であり、変化をする性質であるからこそ、あらゆるものは形をもつことができ、また形を変えることができるのである。 もしも固定的な物体が存在したら、その物体は何をどう加工しようとしても変化をしないことになる。 変化をしないから固定的な物体なのだ。 しかしそのようなものは、この世界のどこにも存在しない。 どのようなものであっても変化をし、だからこそこの世界には多種多様な姿や形をしたものが存在している。 受想行識 亦復如是 (じゅそうぎょうしき やくぶにょぜ) そしてその「空」という性質は、物体だけでなく、精神作用にもあてはまる。 すなわち、感覚・知覚・意思・認識といったあらゆる精神作用も、形こそないが、変化をするという法則のなかにある。 つまり、物体である身も、精神作用である心も、どちらにも固定的な実体は存在しないということだ。 これが何を意味しているかわかるだろうか? そう、 自分とはこの身と心であるにも関わらず、身にも心にも実体としての「自分」が存在しないということなのだ。 固定的な存在としての「自分」は、どこにも存在しないのである。 ただ、 私たちは脳という器官があり、「考える」という営みができ、「自分」という概念を想起することができるため、この身と心を具えた一つの物体、つまりが自分という存在を、自分だと認識することができる。 できる、というよりも、認識してしまっている、と言ったほうがより正しいかもしれない。 しかし真実としては、自分というものは存在しない。 これはつまり、 「自分」という存在は固定的な存在ではなく、流動的な「状態」の一つにすぎず、結局自分も「空」だということである。 不生不滅 不垢不浄 不増不減 (ふしょうふめつ ふくふじょう ふぞうふげん) あらゆる存在が「空」だとわかると、面白い事実に気がつくことになる。 私たちは、命は生まれて死ぬものだと考えがちだが、それも違うのだ。 あらゆる存在は、いろいろなものが集まって形を為し、そこに形以上の「はたらき」が生まれて「生きる」という活動をしている。 私たちが、自分を自分だと認識して生きていることも、形以上の不思議な「はたらき」のなせるわざである。 「命」もまた実体として存在するものではなく、それは神秘としか言いようのない、不思議な「はたらき」なのである。 「個」が集まってできた「和」には、単なる個の集合以上の不思議な「はたらき」が具わることがある。 それが、 命だ。 だから生き物は、生まれて死ぬのではなく、はじめから実体が存在しない「空」という存在のしかたをするなかで、ただ変化を繰り返している。 この、 「存在は変化を繰り返す」という真実には、「無常(むじょう)」という言葉を当てるとしよう。 「存在」「空」「自性がない」「無常」「変化を繰り返す」「常なるものは存在しない」 これらのキーワードはすべて、互いに深く関係しあっているものなのだ。 存在には「変化」があるばかりで、生まれもしなければ死にもせず、垢がつくこともなければ浄らかなのでもなく、増えもしなければ減りもしない。 ただ、変化を続けるだけである。 無苦集滅道 無智亦無得 以無所得故 (むくしゅうめつどう むちやくむとく いむしょとくこ) あらゆるものに実体は無いから、苦しみだって本当は無いし、苦しみを無くす方法だってない。 それらはすべて概念でしかなく、その概念を抱く自分という存在もまた、概念でしかない。 じゃあ、あらゆるものは概念なんだと理解すればいいかというと、それも違う。 ここはとてもややこしいところだが、 頭で理解するという営みが、すでに虚構なのだ。 これらを知識として理解したところで、それは何も理解していないのとほとんど変わらない。 私たちは知識で何でも得ようとするが、存在の本質に関わる部分では、知識としてこれを得ることなどできはしない。 真実を受け取るとは、知識で理解することではない。 だから、得ることなどできないのだ。 遠離一切顚倒夢想 究竟涅槃 (おんりいっさいてんどうむそう くぎょうねはん) 人は普通、自分のことは自分でしていると思っていることだろう。 だが、本当にそうだろうか。 たとえば、心臓が絶えず拍動を続けているのは、自分の意思か? この体を作ったのは、自分か? 熱い物を触ったとき手を引っ込めるのは、はたして考えた上でのことか? 自分の体でありながら、それらは自分の意思とは関係のないところで自ずとはたらき続けてくれているのではないか。 それなのに、多くの人は自分の体は自分のものであり、自分の意思で自分は生きていると思っている。 存在しないはずの自分を「有る」と疑うことなく所有し続けているからである。 このような誤った考えから離れるだけで、心はずっと安らかになるというのに。 『般若心経』のまとめ 以上が私なりの般若心経の現代語訳です。 頭で理解するだけが理解のすべてではない。 自分の体験でもって理解すること、「腑に落ちる」というような体験、すなわち「体解(たいげ)」を禅は重視しますが、しかし『般若心経』を体解するというのも雲を摑むような話に聞こえるかもしれません。 けれども、「生きること」それ自体が『般若心経』の世界を生きることにほかならないのですから、本当は何も難しく考える必要はないのでしょう。 目の前に広がる世界のすべて、小石1つとってみても、そのすべてが「空」という真理を体現していることを感じで生きれば、それでいいのです。 だから逆に、考えれば考えるほど迷いの深みにはまっていくようなものといえるかもしれません。 前述のように、 『般若心経』は「空」の思想を説いた経典です。 あらゆるものに自性はなく、変化を続けることが存在の本質としてある。 しかし その真実を知ろうとせず、不変を求めたり、不変なるものが存在すると錯覚することで、真実との間に溝が生じ、そこから苦悩が生まれる。 真実を知れば、人はもっと安らかに生きることができるというのに……。 『般若心経』が「空」を説く理由はそこにあります。 すなわち、 執着から離れよ、執着すべきものなど何もない、ということが言いたいのです。 訓読文 観自在菩薩、般若波羅蜜多を深く行じし時、五蘊は皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したまえり。 舎利子よ、色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ空、空は即ち是れ色なり。 受・想・行・識もまた是の如し。 舎利子よ、是の諸法は空なる相にして、生ぜず滅せず、垢つかず浄からず、増さず減らず。 是の故に、空の中には色も無く、受・想・行・識も無く、眼・耳・鼻・舌・身・意もなく、色・声・香・味・触・法も無し。 眼界もなく、乃至、意識界も無し。 無明も無く、また、無明の尽くることも無し。 乃至、老も死も無く、また、老死の尽くることも無し。 苦も集も滅も道も無く、智も無く、また得も無し、得る所無きを以ての故に。 菩提薩埵は、般若波羅蜜多に依るが故に、心に罣礙無し。 罣礙無きが故に、恐怖有ること無く、一切の顚倒せる夢想を遠離して涅槃を究竟す。 三世の諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえり。 故に知るべし、般若波羅蜜多は是れ大神咒なり、是れ大明咒なり、是れ無上咒なり、是れ無等等咒なり。 能く一切の苦を除き、真実にして虚しかず。 故に般若波羅蜜多の咒を説く。 即ち咒に説いて曰く、 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提娑婆訶 般若心経.

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