ハプスブルク家顎。 ヨーロッパ華麗なる名家!ハプスブログ、ブルボン、メディチ家は西洋絵画の歴史を変えた!

ハプスブルク家カール5世のあごが凄い!

ハプスブルク家顎

13世紀から20世紀初頭に至るおよびの王朝。 15~16世紀にはヨーロッパから新大陸に及ぶ広大な家領を有し、一族で支配権を分有した。 その歴史は13世紀から20世紀に及ぶが、16世紀の全盛期をピークに、ヨーロッパ史の軸となる存在であった。 そのため、ハプスブルク家が君主となった国家、(962~1806年、ただしすべての皇帝がハプスブルク家だったわけではない)、(1806~1866年)、(1867~1918年)を広い意味でということもある。 スイスの一地方領主として始まる ハプスブルク家の起源には、ローマ人説、フランク人説、果てはユダヤ人説まであるが、いずれも後に都合良くつくられたもので確証はない。 最も有力な説はスイスのアレマン地方から独仏国境のエルザス地方にかけて、中世初期に小さな封建領主が分立し、その中の一人がライン上流の南ドイツに領土を拡大して次第に頭角を現わし、ブルグンドとの戦いの中で、その国境地帯に1020年にアールガウ地方(チューリヒの北西約30km)という山岳地帯にハビヒツブルク城(鷹の城の意味)とよばれた城を築き、その家系がハプスブルク家といわれるようになったということであろう。 彼らは近隣のムーリにベネディクト派の修道院を立てて墓所とした。 始めはのに従い、十字軍にも参加し、またそのに従って従軍し、で教皇支持者と戦った。 ところがが断絶した後、であった神聖ローマ帝国で、から皇帝位がドイツ人以外に占められる「」となる混乱が生じた。 その間、のオタカル2世の勢力が強大化し、オーストリアに進出してきた。 オーストリアへの進出 ルドルフ1世 、ドイツ諸侯は、新たなドイツ王(皇帝)としてスイス地方の一諸侯に過ぎなかったハプスブルク家の ルードルフ1世を選出した。 彼が実質的なハプスブルク家初代である。 ドイツ諸侯はベーメン王のオトカルがの地を占領し、さらにドイツ王に選出されることを狙っていたので、それを阻止することをルドルフに期待したのだった。 ルードルフにとっても意外なことであったらしいが、それを認めなかったベーメン王オタカル2世を、 マイヒフェルトの戦いで破り、の地を得た。 これがハプスブルク家の繁栄の始まりとなったため、後世、ルドルフはハプスブルク帝国の栄光の始祖として伝説化された。 しかし、まだこの段階では、ハプスブルク家が皇帝位を独占することはできなかった。 Episode 十字架を笏とする 引用 ルドルフが選挙と戴冠式の後で帝国諸侯の封土授与を行おうとした時に、たまたま王笏(王位の象徴とされる)が手元に見当たらなかった。 するとルドルフは周囲を見渡し、壁面から十字架を取り出すやこれに接吻して語ったという。 「ここにわれわれと全世界に救済を給わった印(しるし)がある。 これをわえらが笏としよう」。 こうしてハプスブルク王朝初代の君主による最初の行為は十字架の印のもとになされたわけであって、これは後に王朝の指針を決定づける予言者的な重要性を帯びた象徴的事実としても解釈されることになった。 <ヴァントルツカ『ハプスブルク家』p. 56> スイスの独立 では、ハプスブルク家が代官を置いて支配することに対して小領主層を中心に反発し、独立を求める運動が起こってきた。 ハプスブルク家第2代の アルブレヒト1世は一旦ハプスブルク家から離れた神聖ローマ皇帝の地位についたが、1308年に一族間の内紛のため暗殺されると、独立の動きが強まり、にはスイスの農民を主体としてた歩兵軍がモルガルテンの戦いでハプスブルク家の騎士軍を破った。 ハプスブルク家はその年、1315年にスイスの独立を認め、自らはオーストリアを本国として定着し、を本拠とすることとなる。 金印勅書 ハプスブルク家のアルブレヒト1世が暗殺されてから、皇帝位はナッサウ家・ルクセンブルク家・ヴィッテルスバハ家(バイエルン)などが争い、対立した二人の皇帝が同時に在位することもあった。 そのような混乱を克服することを課題として1346年に皇帝に選ばれたルクセンブルク家のは、にを定め、7によって皇帝を選出する規則とともに諸侯と共存する体制を作り上げた。 ハプスブルク家は選帝侯にはなれなかったので、不満を抱えながら、領邦経営を拡大していった。 ルドルフ4世 1308年から130年間、ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝に選ばれなかったが、その間、領土経営に専念し、 ルドルフ4世(建設王)の時には1363年にティロル地方を獲得、1365年にウィーン大学を創立、聖ステファン大寺院の建設を開始した。 ルドルフ4世は皇帝には選出されなかったので、大公という爵位を名乗り、それ以降はハプスブルク家の君主はその爵位を継承する。 ルドルフ4世はルクセンブルク朝神聖ローマ皇帝の娘を妻としていたが、金印勅書では選帝侯に加えられなかった。 彼については「自尊自大の気がある野心家」という評価もある。 また、後継者なしに死んだためハプスブルク家はしばらく内紛が続き、幾つかの家系に分裂した。 神聖ローマ皇帝位を独占 アルブレヒト2世 に アルブレヒト2世が神聖ローマ皇帝に選出され、130年ぶりにハプスブルク家の当主が皇帝=ドイツ王となった。 アルブレヒトはルクセンブルク朝皇帝の女婿であったため、そのベーメン、ハンガリー王の地位も継承した。 しかし即位間もなく赤痢に罹り死去した。 フリードリヒ3世 次にその子、フリードリヒ3世が皇帝に選出され、以後、ハプスブルク家は帝位を独占、ヨーロッパでの最大の勢力に成長していく。 フリードリヒ3世(在位1440~93)は巧みに対抗馬を退け、53年にわたって在位し、その後のハプスブルク家の繁栄の出発点となった。 Episode 皇帝の忍耐 引用 それは1440年2月、フリードリヒが25歳のときだった。 オーストリア南部のケルンテンなどわずか三州の領主、というのがこの貧しい伯爵の通り相場で、選帝侯たちの目に誤りはなく、およそ君主らしくない、みすぼらしい、風采の上がらない無力な男だった。 ・・・その意味では選帝侯たちの選択は肯綮に当たっていたのである。 だが彼らの唯一人として、このうだつのあがらない小男が自分たちの誰よりも長生きして、53年間という半世紀を超える永きにわたって帝国の首長の座に座り続けるとは、夢寐にも思わなかったであろう。 そしてこれ以後、わずかの例外を除いて1806年の帝国解体まで王冠がハプスブルクの独占するところとなろうとは!・・・名をあげれば限りのないほどの敵や武将に威圧されながらも、フリードリヒはその度ごとに口実をもうけ、あるいは姿をくらまし、あるいは逃亡したりして相手が去るのを待った。 するとかれらは鰻のように掴まえようのない王に業をにやして、彼の前からしりぞいていたり、死去したりした。 辛抱したものが勝ったのである。 <江村洋『ハプスブルク家』1990 講談社現代新書 p. 36> 1452年、36歳になったフリードリヒはポルトガルの王女エレオノーレとローマで華燭の典をあげ、ついで教皇の手ずから帝冠を授けられた。 結婚から七年後、生まれた長子が後にマクシミリアン1世で、その時代にハプルブルク家はヨーロッパ全域の政治に関与することになる。 ハプスブルク家の皇帝とローマ フリードリヒ3世は、ローマで神聖ローマ皇帝の位に就いた最初のハプスブルク家の人間であり、またローマで位に就いた最後の神聖ローマ皇帝だった。 次のマクシミリアン1世は、正式には1508年に神聖ローマ皇帝となったが、ローマへの道をヴェネツィアに阻まれ、ローマではなくトレントで戴冠式を行った。 しかもローマ教皇の手による戴冠ではなく、「選定皇帝」の称号を受けるという手段に訴えた。 これ以降、ハプスブルク家の皇帝はすべてこれにならった。 <リケット/青山孝徳訳『オーストリアの歴史』1995 成文社 p. 25-26> 婚姻政策を展開 マクシミリアン1世 ハプスブルク家は積極的な婚姻政策でヨーロッパの有力な諸家と結びつきながら領土を拡大していった。 マクシミリアン1世は、チロル地方も継承しており、それによって銀山経営で巨富を築いたとの関係が始まり、その資金援助を受けるようになった。 ハプスブルクがブルゴーニュや北イタリアに進出したことから、フランス王家との対立が始まる。 Episode ハプスブルク家の家訓とアエイオウ 「他人をして戦わしめよ。 汝、幸福なるオーストリア、結婚に励め」というのはハプスブルク家の家訓として有名。 これはフリードリヒ3世の時とも、マクシミリアン1世の時ともいわれる。 有名なモットーにAEIOUと言うのがある。 これもフリードリヒ3世かマクシミリアン1世の時といわれており、 「オーストリアが全世界を支配する」 Austria est imperare orbi universo 「オーストリアは他のどの権力より長く生き延びる」 Austria erit in orbe ultima のふた通りの解釈がある。 <リケット『同上書』 p. 24> 参考 婚姻政策は誤解? ハプスブルク家は「 戦争は他国にさせておけ、なんじ幸いなるオーストリアよ、結婚せよ」というモットーのもと政略結婚による領土拡大をはかったと広く言われている。 「これは端的に言って誤りである」と言っているのが岩﨑周一氏の近著『ハプスブルク帝国』2017 講談社現代新書である。 かれは、この言葉は詠み人知らずの揶揄にすぎず、モットーや家訓などではないとし、ブルゴーニュ、スペイン、チェコ、ハンガリーでハプスブルク家に継承の可能性が生じたのは、相手方の系統断絶という偶然によるもの、と述べている。 政略結婚は洋の東西で家門勢力を存続・発展させるための常套手段であったので、ハプスブルク家の専売特許ではない。 そして次のように指摘している。 引用 君主間の約定がどうであれ、また姻戚関係がどれほど密接であっても、臣民の代表たる諸身分支持がなければ、君主となることも、その座を維持することも不可能だったことをわすれてはならない。 ハプスブルク家はアルブレヒト1世と同2世の時代にボヘミアの王位を手にしたが、いずれの場合も良く保持することはできなかった。 同地の諸身分と良い関係を築けなかったのである。 また16世紀には繰り返しポーランドの王位を狙い、歴代の国王との密接な姻戚関係を生かして積極的に運動したが、同国の諸身分に警戒されたため、一度も実現することはできなかった。 <岩﨑周一『ハプスブルク帝国』2017 講談社現代新書 p. 78> また、「戦争は他国にさせておけ」というのも、矛盾する。 ハプスブルク家はこれまでも、今後も、ヨーロッパの各地で激しい戦争を展開していく。 ハプスブルク家の婚姻政策の最大の「成果」であるマクシミリアン1世のブルゴーニュ公王女との結婚は、たしかにその領土が全世界に及んでいく契機となったが、同時にブルゴーニュ家の敵であったフランス王家との抜き差しならない対立関係のはじまりでもあり、それ以降、ハプスブルク家とフランス王家は1756年のに至るまでいくどとなく戦争を繰り返すことになるのである。 フランスとのイタリア戦争 マクシミリアン1世は子のフィリップをの王女ファナと結婚させた。 それによってハプスブルク家はスペインにも進出することとなり、フィリップとファナの子のカールがスペイン王(カルロス1世)となり、さらに彼は神聖ローマ帝国皇帝に選出されて(カール5世)となったことによって、フランスを東西から挟むような大帝国を支配することとなった。 カール5世 フランス()は、強い危機感を抱き、イタリアに進出することで活路を見いだそうとして両者の間にが始まる。 それはのの南イタリア遠征に始まるが、特に16世紀前半のハプスブルク家の(スペイン王としてはカルロス1世)とフランス・ヴァロワ朝のの対立として激化した。 カール5世のときにの世界周航が行われ、アメリカ新大陸だけでなく太平洋方面にも植民地を獲得したが、一方で支配下のドイツでのルターのが始まり、東方からのオスマン帝国軍によるを受けるという多面的な脅威にさらされていた。 1541年にはオスマン帝国によってブダペストを占領され、ハンガリーを実質的に失った。 国内の宗教対立は、のでようやく終息に向かい、ハプスブルク帝国の体制を維持したが、フランスもハプスブルク帝国も長引く戦争は財政破綻をもたらし、、で講和した。 ハプスブルク家の分裂 、カール5世は神聖ローマ皇帝を退位するにあたり、広大なハプスブルク帝国を一人で統治することは不可能と考え、ハプスブルク家は弟のフェルディナントのと、子のフェリペ2世のとに分割することにした。 こうしてハプスブルク帝国は分割され、ハプスブルク家も二つの家系に分かれることとなった。

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ハプスブルク家で日本人の末裔や現在は?あごの特徴もわかりやすく!

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疫学 [ ] 下顎前突症は欧米人に約1%程度現れるである。 下顎前突症は「のあご(下唇)」()とも呼ばれ、の多いことで知られる王家であるに家族性の特徴としてみられ、 骨格性下顎前突症は遺伝的な要因が大きく関与していることがうかがえる。 また、下顎前突症はが手足の骨と同じ構造体でであることから、体格の良い一流スポーツ選手などに多いでもある。 分類 [ ] 歯性下顎前突症 上下大臼歯の咬合関係は近遠心的に正常なAngleI級(クラスI)であるが、が切歯よりも前方に位置する reverse overjet()を呈する。 骨格性下顎前突症 上下の咬合関係は下顎大臼歯が上顎大臼歯に対して相対的に前方(近心)に位置しており、も逆オーバージェットを呈する。 骨格性下顎前突症はの過成長だけでなく、の劣成長がある場合にも発症する。 原因 [ ] のにより下顎前突症を発症した3歳児 、、の、歯の、不適当な萌出誘導、、(等)、、 、など 骨格性下顎前突症(III級不正咬合)はの姿勢位の異常を原因として生じることがある。 がから絶えず引き離されると成長が刺激されるからである。 下顎の機能的な変化は歯の位置にのみ影響を与えるが、をするためや舌の大きさ、の大きさなどに合わせて下顎が一定の姿勢位をとり続ける場合、の大きさに影響を与える。 下顎前突症は明らかにおよび傾向が認められ、な顎骨の大きさの異常と関連している。 関連症状 [ ] 、(筋肉の不調和または疼痛)、(、、等)、、に関連のあるおよび。 治療 [ ] (3歳ごろ)から初期までの 下顎前突症はの適用となる。 の 歯性下顎前突症は通常のや、でも比較的簡単に治療可能であるが、 骨格性下顎前突症はを伴うを考えなければならない。 脚注 [ ]• ウイリアムR William R. Proffit C3047• Chudley 1998 Genetic landmarks through philately — The Habsburg jaw. Clinical Genetics 54: 283-284. 亀山孝將 () 1 、 2 、 3 、 4 、 月刊保団連;2006. 11 No918、2006. 12 No920、2007. 3 No927、2007. 4 No932、• 他「機能的矯正装置による反対咬合者の治療に関する研究」『日本矯正歯科学会雑誌』第44巻第4号、、1985年、 734頁、。 「小児の反対咬合治療の開始時期について」『デンタルダイヤモンド』第19巻第13号、、1994年、 186-189頁、。 参考文献 [ ]• Chudley 1998 Genetic landmarks through philately — The Habsburg jaw. Clinical Genetics 54: 283-284. 亀山孝將 () 1 、 2 、 3 、 4 、 月刊保団連;2006. 11 No918、2006. 12 No920、2007. 3 No927、2007. 4 No932、• 亀山孝將 「」が和解 月刊保団連;2008. 9 No978、• 食品と暮らしの安全基金 食品と暮らしの安全;2005. 9 No197、2005. 10 No198、2007. 3 No215、2008. 5 No229、• 、「」『愛知学院大学歯学会誌』第30巻第1号、、、1992年、 223-229頁、 、 、 2011年3月2日閲覧。 他「機能的矯正装置による反対咬合者の治療に関する研究」『日本矯正歯科学会雑誌』第44巻第4号、、1985年、 734頁、。 「小児の反対咬合治療の開始時期について」『デンタルダイヤモンド』第19巻第13号、、1994年、 186-189頁、。 関連項目 [ ]• この項目は、に関連した です。 などしてくださる(/)。

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「怖い絵」著者・中野京子が読み解く!ゾクッとするハプスブルク家の絵画(2/2)|ウォーカープラス

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ウィーンといえば、650年も続いた、ハプスブルグ家の繁栄と悲劇の王朝劇。 宮殿とか、王宮といった華やかな文化が今も残されています。 私もオーストリアに来るまでよく知らなかったんですが、ハプスブルグ家の歴史について簡単に紹介。 ヨーロッパの歴史になるので、根底からやると膨大になるので、観光が楽しくなる程度に簡単に。 ハプスブルグ家は、13世紀から20世紀はじめまで、約650年間続いた王朝。 全盛期には、ヨーロッパの大部分と南米まで統治していました。 その帝政の中心となったのがウィーン。 現在もその面影を残す 家系図から。 きっと、詳しい人は、複雑怪奇な一族についていろいろ知っているんだろうけど。 観光のポイントとなる、2大女帝とその夫について。 これだけ知っていれば、けっこう観光が楽しくなる。 やっぱ、人は悲劇のヒロインとか好きなんだなー。 1.ルドルフ1世 もともと、ハプスブルグ家は、スイスの小貴族。 1273年にルドルフ一世が神聖ローマ帝国の皇帝に選出されたことが始まり。 たしか、周囲からあまり期待されてきなかった彼。 権力争いの中で、形だけの皇帝として置いて、他の者が実権を握るべく選出されたが、意外と実力者で、ハプスブルグ繁栄のきっかけとなった。 たしか。 2.マリア テレジア 15世紀に政略結婚で勢力拡大していったハプスブルグ家。 「戦いは他の者にさせよ。 汝は結婚せよ」という言葉がある。 そして、18世紀。 ハプスブルグの全盛期を築いた女帝。 それが彼女 マリアテレジア 23歳で即位し。 16人の子供をもうけ、次々と政略結婚をさせた彼女。 この風格ある姿。 政略結婚のこの一族で、意外にも大好きな人と結婚し、おしどり夫婦として有名な彼女。 若いころはとてもかわいい。 ベルサイユのバラでも有名な、マリーアントワネットのお母さんです。 3.マリーアントワネット ベルサイユのバラの主人公だったり、映画にもなっている彼女。 マリアテレジアの末娘。 政略結婚で、次々と領土拡大、勢力拡大をしていたハプスブルグ家。 覇権争いをしていた、フランス・ブルボン家との同盟関係を深めるべく、1770年フランスのルイ16世に嫁ぐ。 愛らしい容貌で当初は市民に愛された。 しかし、まだ幼さから贅沢を好み財政を圧迫。 市民の苦しい生活を理解しない「おなかがすいたらお菓子を食べればいいのに」という言葉がある。 民衆の反感を買い、フランス革命で幽閉、断頭台で死刑となる。 贅沢さ、悲劇というところが、いかにもハプスブルグっぽい。 肖像画は意外とかわいくない。 当時の価値観かな。 4.エリザベート 愛称 シシィ 悲劇のヒロインの代表。 美貌、悲劇、数奇な生涯。 ハプスブルグをぎゅっと濃縮したような人。 今なお人気があり、ウィーンのガイドブック、観光スポットはシシィであふれている。 ハプスブルグ最後の皇帝の妻。 ・姉の縁談の席についていって、変わりに嫁ぐことになった。 政略結婚で。 15歳のとき。 ・宮廷生活になじめず、姑との確執も。 ・夫は妻を愛していたが、仕事に忙しく、孤独な日々。 「結婚とは不条理な制度。 売られてきた。 後悔」と。 ・姑により、子供と引き離された生活。 孤独から、美貌の維持にのめりこむ。 生の子牛肉汁やイチゴパック、オリーブ油浴、卵白ジュース。 5kgにも及ぶ髪の毛の手入れ。 コルセット装着に毎日1時間。 ・息子が、自殺。 その後、生涯喪服を着て、放浪してすごしたという。 ・自身は、イタリアの湖畔で、イタリアのアナーキストにヤスリで刺されて死亡。 犯人は「貴族なら誰でもよかった」と、特に彼女を狙ってはいなかった。 というのも、なんだか逆に悲しい。 すごい人気で、宮殿にシシィが美貌を維持した部屋と道具が展示されていたり。 王宮にシシィ博物館があったり。 ハプスブルグ家、二大美女。 マリアテレジアか、シシィかみたいな。 私は、マリアテレジア派かな。 5.フランツ・ヨーゼフ1世 エリザベート シシィ の夫。 けっこうちゃんとした人なのに、すごく不幸。 ・18歳で即位し、68年間動乱の世を治めた。 ・質実剛健で、質素な生活を好んだ。 ・息子ルドルフは、倉庫かどこかで、どこかの女と拳銃で心中。 ・妻は暗殺される。 ・息子が死んだので、皇位継承者となった、甥のフランツ・フェルディナントはサラエボで暗殺。 第一次世界大戦のきっかけとなる。 ・自身も、第一次世界大戦中に息を引き取り、その2年後にハプスブルグ帝国も終焉。 ハプスブルグの結婚事情 領土拡大のために、他国と政略結婚をどんどん行った。 しかし、それ以外の結婚、ほかの一族と結婚することで、勢力を奪われるのを恐れ、姻族結婚をくりかえした。 そのためか、しゃくれ顎、厚い唇。 という風貌がハプスブルグの象徴的な顔立ち。 また、病弱あったり、精神的におかしい人も多かったとか。 ハプスブルグ顔 ふざけているようにしか見えない。 以上!! では。 ウィーンの観光を続けます。 オーストリアに来る前に、日本で読んだ本。 コメント一覧 4• yonosuke• 2016年08月19日 14:11• とても分かりやすく・・・・というより書いた人のバカでも理解できるように~って思いやりのようなできるだけ簡単に、かつ飽きられないようにって感じが好き、チビッとだけ興味がわいた• ルナサ• 2017年08月28日 14:25• 西洋絵画が好きで美術検定を受ける上で ざっくりとしたパトロンの内容が知りたくて ハプスブルク家てなんぞや?? で、たどり着きましたすごい要点だけで分かりやすかったです。 ありがとうございました。 M-san• 2018年03月06日 22:18• 大変分かりやすくて、楽しめました、ありがとうございました。 ところで、最近、ザルツブルクに近いところにある会社に行きました。 取引先の日本のクライアントを連れて行ったのですが、 このオーストリアの会社、なんとハプスブルク家から仕事を受けていたのが始まりの、もう7代も続いていいる名門会社だと分かりました。 皇帝が来られた時に使われた部屋で仕事の契約をしたのですが、昔作った品物が飾られてあり、ハプスブルクの紋章が入ってました。 とてもハプスブルク家や、マリーアントワネットが身近に感じられてきました。 2018年12月23日 04:54• 欧州を代表する貴族一家であらせられますね。 装飾における色使いに何だか馴染みの在るセンスを感じます。 今もご健在で賑わいを呈していると知り、心より嬉しく思います。

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