アラブ の 春。 5分でわかるアラブの春!原因やジャスミン革命などをわかりやすく解説!

教えて! 尚子先生「アラブの春」のその後はどうなっているのですか?【前編】

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大学院に在籍する学生たちが行う自発的な研究は、大学教育の集大成であると同時に、大学という知の現場から未来へと受け渡されていく種である。 今まさに自身がとりつかれている研究の魅力を、彼らは伝えることができるだろうか? 今一度問う! アラブの春とソーシャルメディア アラブ諸国は近年、次々と政変を迎えた。 事の発端はチュニジア革命(ジャスミン革命)だ。 2010年12月18日に始まった反政府運動によって、翌年1月14日に約23年にわたるベン・アリー政権が崩壊した。 続いてエジプトでも2011年1月25日から反政府運動が起こり、同年2月11日、約30年にわたるムバラク政権に終止符が打たれた。 リビアとイエメンでも反政府運動の結果、政権交代に至った。 現在も多くの国で反政府活動が行われている。 アラブの春とは、2010年末からアラブ世界で起こった、これらの反政府活動や騒乱を総称するものである。 アラブの春にはFacebookやTwitterなどのソーシャルメディアが影響したと言われている。 というのも、ソーシャルメディアでデモが計画されたり参加の呼びかけがなされたりしていたためである。 なんとなく説得力のある話だが、ちょっと安易な気もする。 確かに革命の直前には多くの人がソーシャルメディアで革命について話し合っていたが、単なるおしゃべりにすぎなかった可能性もあり、十分な根拠にはならない。 実際、反対意見も多い。 たとえば、ジャーナリストのマルコム・グラッドウェルはソーシャルメディアの影響には懐疑的だ。 論争の真っ最中なのだ。 後述するように、ソーシャルメディアの影響は安易には肯定できない。 だが、否定もしにくいため、厳密な分析が望まれる。 というわけで、ゲーム理論と呼ばれる数学的な手法を用いてきっちり分析してみたい。

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「アラブの春」幻想、そしてその末路 ~シリアを事例に~: IISEの広場

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「アラブの春」を知らないのは日本人だけ!? 日本人だけというのは言い過ぎですが、日本人は知らなさすぎです。 自分も報道されてたことは覚えている、ある時を境に聞かなくなったなぁぐらいです。 日本の世界報道自由度ランキングは72位(2017年)。 韓国は63位、香港は73位。 情報統制が厳しい国ということがわかります。 政府によってもみ消された、不都合なことがあったと推測することもできます。 日本はアラブ世界と遠いようで近い。 石油の依存度などを考えると中東なしでは国家の運営ができない。 日本政府が仲良くしている政権も革命域内にはあったと考えても良いでしょう。 安定な「王国」と不安定な「共和国」 第一次世界大戦後、中東はイギリスにぐちゃぐちゃにされます。 イギリスのかの有名な三枚舌外交ですね。 これによって中東の悲劇は広がり続けます。 フランスの委任統治となったシリアとレバノンは共和国、イギリスの委任統治であるイラクとヨルダンは王国。 ヨルダンに至ってはまだ王制が続いていますし、他の中東諸国、サウジアラビアやオマーンは非常に安定しています。 王制、時に独裁政権となり民衆の自由が制限されがちですが、ある意味において安定感があります。 イギリス。 しかしうまくいかない場合、情報統制が厳しく貧富の差も広がりやすい。 軍事クーデターなどで共和制を目指す動きが起こりうる。 一方でちゃんとした共和制。 民衆が決めた大統領のもとで動きます。 つまり自由が多く、民衆の暴動などが起こりやすい。 フランス。 今のシリアとかレバノンとかしっちゃかめっちゃかです。 どちらが良いかはその国民性や政治によりますが、一般的に王制の方が治安が安定することが多いのは上述の通り。 アラブの春が起こる前兆 アラブの春の前兆として2003年のジョージアのバラ革命、2004年のウクライナのオレンジ革命、2005年のキルギスのチューリップ革命。 旧共産圏の国々では次々と独裁者政権が倒されていきました。 アメリカのCIAが裏で動いたと言われています。 これらが、アラブの春に繋がっていきます。 Advertisement なぜ日本人は知らないのか。 アラブの春は2010年12月にチュニジアのチュニスの旧市街地、スークで起きた26歳男性の焼身自殺がきっかけです。 この事件は非常に不条理にも思われる警察の対応にことを発し、ジャスミン革命につながり、アラブの春として翌2011年の1月から3月にかけて拡大します。 さて、その頃日本は。 中東の政権がメルトダウンしていくのを気にする余裕がなくなり、自国のメルトダウンに注力することになったのもやむを得ません。 アラブの春とはなんだったのか。 アラブの春はチュニジアからエジプト、リビア、イエメンへと広がります。 押さえつけられていた自由を求める動きが活発化し、民主化を目指したわけです。 かつての新ソ連政権が次々と倒れます。 しかし、シリアはアサドが率いる少数派のアラウィ派が多数派スンナ派を抑えていました。 しかし、イラク戦争が終わり、アメリカに追われたスンナ派はシリアに流れ込み反シリア運動に加わる。 そしてシリアは内戦状態へ。 そして、ISへ。 シリアに流れ込んだ最大の勢力がIS(イスラミックステート)またはISIS(イラクとシリアのIS)。 イラクとシリアの国境を認めず、真のイスラム国家の建国を目指します。 そのISも下火。 ロシア軍の介入がきっかけです。 だからアサド政権は敗れません。 裏にはロシア、イラン、サウジアラビア。 * * * 某有名予備校教師の講義をベースに調査して書きました。 先生、ありがとうございました。 またこちらの書籍も参考にしました。

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「アラブの春」とは何だったのか?〜革命の希望はこうして「絶望」に変わった(末近 浩太)

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それまで極めて限定的にしか政治参加できなかった一般の民衆が変革の原動力となった点がこの政治変動の大きな特色で,経済的格差や独裁政権による統制,政治参加の制限等に対する民衆の不満の高まりがその背景にあります。 反政府運動に参加した民衆はツイッターやフェイスブックなどのソーシャルネットワーキングサービス(SNS)や衛星放送等のメディアによって連帯と情報共有を図っており,かつてないスピードで国境を越えて民主化運動が拡大していきました。 その直後から各地で起きた大規模デモを衛星放送などが伝えると,全国規模で政権打倒の民主化デモが拡大。 そして1か月も経たない2011年1月14日にベン・アリ大統領は国外逃亡を余儀なくされ,23年間続いた独裁政権が実にあっけなく崩壊しました。 チュニジアでは同年10月,制憲国民議会選挙が実施(投票率52%)され,イスラム主義政党エンナハダが第一党となりました。 また同年12月に大統領と首相が選出され,民主化への移行を施政方針とする新政権がスタートしています。 エジプトでは,2011年1月25日以降,国内で反体制デモが発生。 首都カイロをはじめ,全国各地でデモに参加する市民の数が増え続け,同年2月11日,ムバラク大統領が国軍最高会議に権限を委譲し,30年に及ぶ長期政権が崩壊。 暫定的な軍政がスタートしましたが,その後も最近に至るまでデモ隊と軍の衝突が続いています。 ムバラク前大統領は,デモ参加者殺害容疑で訴追され,2011年8月から公判が行われています。 また同年11月より実施された人民議会選挙の結果,自由公正党(ムスリム同胞団公認政党)が47%の議席を,またイスラム厳格派ヌール党も約24%の議席を獲得しています。 2012年5月に大統領選挙が実施され,その後民政移管する予定となっています。 軍幹部や有力部族がデモ隊支持に回り,治安部隊と衝突するなど混乱は拡大していきました。 このため治安当局と反政府派の衝突が激化する中,同年10月に大統領に同イニシアティブへの署名を促す国連安保理決議が成立し,同年11月,ついに大統領は同イニシアティブに署名しました。 その後,2012年1月,大統領他に対する訴追免除法が成立し,同年2月に大統領選挙が行われ,ハーディー副大統領が大統領に就任しました。 激しい反政府運動弾圧が続くシリア情勢 2011年3月中旬から,シリアの全国各地で発生した反政府デモに対し,アサド政権は治安部隊による厳しい弾圧で臨みました。 国連によると,治安部隊の武力行使でこれまでに9,000人以上(2012年5月現在)が犠牲になっています。 シリア政府の民衆に対する暴力の停止を求める国連安保理決議案は,との拒否権発動により2度否決されましたが,,日本,などはそれぞれ独自に資産凍結や取引禁止といった対シリア制裁を実施しています。 2012年4月には国連安保理がシリア国連監視団先遣隊を派遣し,シリア政府もこれを受け入れました。 監視団は現在も監視活動を続けていますが,治安部隊による攻撃はおさまっておらず,予断を許さない状況が続いています。 政府当局による暴力的な弾圧に対しては,リビアのケースのように国連安保理決議に基づく軍事行動も展開しました。 現在,民主化デモが発生した多くの国で,民主化に向けた政治プロセスは前進しつつありますが,経済格差や雇用の面では課題が山積しています。 チュニジアやエジプトなどで政権党となったイスラム系政党の政権運営能力には要注目で,今後,新体制への不満が先鋭化し,経済成長に欠かせない社会の安定が失われる危惧もあります。 そこで2011年5月のでは,中東・北アフリカ諸国の改革・国づくりを支援するの立ち上げが決定され,国際社会の支援を強く示しました。 2011年9月の国連総会では,野田首相が中東・北アフリカ地域に対し,インフラ整備や国内産業育成のために新たに約10億米ドルの円借款を実施する方針を表明し,さらに政府は雇用促進や民主化プロセス支援,難民支援などのために約8,000万米ドルの支援を決定しました。 また,経済支援ばかりでなく,選挙監視団の派遣や民主化に関するセミナーの開催なども展開。 2012年5月,玄葉外務大臣は,エジプト,ヨルダン,モロッコを訪問,それぞれ政府要人と会談し,互いの信頼関係を深めた上,各国の改革努力に対する支援を伝えました。 日本は中東・北アフリカ諸国から独自の親しみと信頼感を示されています。 こうした親日感をベースに,更なる経済関係の強化と相互理解の促進を図っていき,各国の民主化,そして中東和平の実現等従来からの課題の解決に向けて,中東・北アフリカ諸国への支援に今後も力を注いでいきます。

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