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まだ知らない自分を知る、リリ数秘術 数秘、カラー、タロットのそれぞれは、 数字、色、象徴。 この3つは全人類に共通する根源です。 これをバランスよく理解することで、世の中の法則も理解できる。 その法則をひとつの形にしたものが、リリ数秘術のメソッドです。 リリ<理人>数秘術の理念 理<り>とは 1.法則・原理 2.道理・理屈 3.ととのえる 明鏡国語辞典より引用 自然に法則があるように、人にも法則があります。 偏りのない視点、そして多様性を理解するためにはまず「法則」を知ることがまずは必要。 「源の法則」がわかれば、自分のことも、他者のことも、世の中のことも理解が深まります。 自分だけの視点では見えないところが、見えてくるんです。 リリ<理人>数秘術は、 存在の法則を理解することで 多視点と可能性を手に入れるもの 存在の法則を知って 個性を活かしつつ、 他者を尊重しつつ、 本質に沿った成長をし続けていく。 そんな世界を望む方、リリ数秘術の世界へご一緒しませんか?.

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出石城の稲荷曲輪(くるわ)から見下ろす出石の城下町 出石城と有子山城、改変の変遷 城の改変は、大別すると4段階に分けられる。 第1段階は、1574(天正2)年頃に但馬守護の山名祐豊が築いた「山名氏時代の有子山城」だ。 尾根筋に曲輪を連ねて並べて堀切や竪堀で防御する、但馬各地の城にみられる縄張が確認できる。 第2段階は、1580(天正8)年に羽柴秀長の但馬侵攻によって落城した後、石垣を伴う城へと大改修された「羽柴時代の有子山城」だ。 石垣築造の技術や出土遺物の年代からも、1580〜1585(天正8〜13)年頃に羽柴秀長によって、但馬支配と山陰方面の前線基地として大改修されたと思われる。 注目すべきは、山上の城(有子山城)とふもとの居館が一体化した二元構造だったことだ。 居館部と思われる場所からも、同時期の石垣や遺物が見つかっている。 山上の有子山城に築かれた石垣。 羽柴秀長時代のものとみられる 第3段階は、江戸時代に入り1604(慶長9)年に出石藩主となった「小出吉英による出石城」だ。 ふもとにあった有子山城の居館部を改修して、稲荷曲輪、本丸、二の丸、下の曲輪を階段状に並べ、さらに西側に西の曲輪、東側に山里丸城を配置した構造だ。 ここでも注目は、山上の城とふもとの居館の二元構造であったこと。 どうやら出石城の築城後も引き続き有子山城は使われていたようで、出石城を挟み込むような2本の巨大な竪堀は、この時期に増設したと思われる。 そして第4段階が「改変された出石城」だ。 小出吉英が築いた出石城を囲い込むように、三の丸を構築。 1702(元禄15)年には松平忠周が藩主の居館を三の丸に移し、対面所とした。 この時期の特徴は、それまでの出石城とは軸線が異なる上に、大拡張されていること。 東西にあった竪堀と堀を連結させて堀に沿って土塁を築き、石垣づくりの升形(ますがた)虎口を構築して防衛力を上げている。 城下町も、縦長から横長へと変化する。 いつ、どうして大改修が行われたのかは定かではないが、1615(元和元)年の一国一城令を受け、有子山城を廃する代わりに出石城を強化した可能性も考えられる。 出石城の稲荷曲輪の石垣 謎が多く、わくわくが止まらない有子山城 有子山城へは出石城の稲荷曲輪から登っていく。 険しい急坂を含む登城道のため、少なくともスニーカーをはくなどの装備が必要だ。 しかし山上に累々と残る全国的にも希少な天正期の石垣は、標高321メートルの有子山を汗だくで登る価値がある。 有子山城はすばらしい城だ。 登城道の途中、疲れた頃に現れる大きな竪堀や、立派な堀切は見応えがあり、壮大な山城の姿を連想させられて興奮する。 井戸曲輪(水の手)も、かなり見事だ。 石垣で固められた升形虎口は織豊系の城の特徴で、第2段階の改変だろう。 主郭から西側に6段に配された曲輪に構築されている石垣も、主郭の石垣が城下に面した北面と西面だけ高いのも、石垣を見せつけるという織豊系の城のセオリーに基づくものだ。 石垣づくりの城に改変されながらも、骨組みが限りなく中世の山城なのが有子山城の魅力だ。 主郭と千畳敷を分断する、幅28メートル、深さ12メートルの大堀切はとにかく圧巻。 展開する3方の尾根が、いずれも二重の大規模な堀切でがっちりと隔絶されているのもたまらない。 堀切の両端はそのまま竪堀として落とす共通性があり、潔いほど巨大で長大な竪堀も期待を裏切らない。 もともと戦国時代に築かれた城らしく、縄張りも秀逸だ。 登城のルートは戦国期と織豊期では違ったようで、井戸曲輪の7段の石垣も登城路の可能性もありそうだ。 石材を調達した石切り場も、まだほかにもあるのではと興味津々。 まだまだ謎が多く、わくわくが止まらない。

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