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千葉 ロッテ マリーンズ ユニフォーム

QVC時代のZOZOマリンスタジアム 収容人員 30,118人(ZOZOマリンスタジアム) フランチャイズの遍歴• ( - )• ( - )• ( - 1991年)• 千葉県(1992年 - 現在) 永久欠番 獲得タイトル アジアチャンピオン(1回) 日韓クラブチャンピオンシップ(1回) 日本一(4回)• リーグ優勝(5回)• セ・パ交流戦優勝・最高勝率(2回) (2015年から2018年までは最高勝率)• 成績(タイトル以外) アジアシリーズ出場(1回)(太字は優勝、斜体は準優勝) 1勝 日韓クラブチャンピオンシップ出場(1回)(太字は優勝、斜体は準優勝) 1勝 日本シリーズ出場(6回)(太字は勝利した年)• 4勝2敗• クライマックスシリーズ(5回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)• 1勝4敗• プレーオフ(2004-2006)(1回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)• 1勝 プレーオフ(前後期制)(4回) (太字は勝利した年、斜体は後期優勝)• 1勝3敗• 球団組織 オーナー (代行) 運営母体 監督 株式会社千葉ロッテマリーンズ Chiba Lotte Marines 略称 ロッテ、マリーンズ 本社所在地 〒261-8587 美浜1番地 ZOZOマリンスタジアム 本店所在地 〒160-0023 三丁目20-1 設立 (株式会社毎日球団) 事業内容 プロ野球競技の運営並びに選手の指導、養成など 代表者 重光昭夫(代表取締役会長オーナー) 河合克美(社長兼オーナー代行) 資本金 6000万円(2017年12月31日現在) 純利益 7億5536万円(2019年12月31日時点) 純資産 12億3303万1000円(2019年12月31日時点) 総資産 62億5614万2000円(2019年12月31日時点) 従業員数 55人(2009年12月31日時点) 決算期 主要株主 関係する人物 (現法人設立時オーナー) ロッテグループ創業者、初代代表取締役社長、元オーナー 外部リンク 特記事項:に大映野球株式会社を吸収合併。 千葉ロッテマリーンズ YouTube チャンネル 目次• 球団の歴史 [ ] 東京時代 [ ] 毎日時代 [ ] 、を親会社とする毎日球団が設立され、 毎日オリオンズ(まいにちオリオンズ)が結成された。 毎日新聞社はもともと昭和初期にセミプロ野球チーム『大阪毎日野球団』を組織していた。 、からの勧誘を契機に球団結成の気運が高まり、戦前の大阪毎日野球団を基礎に、自ら主催するの有力選手をスカウトして球団を結成。 、に加盟を申請。 リーグ拡大の機運にも乗って加盟を申請したが、毎日新聞のライバル会社であった(の親会社)・(の親会社)が強く反発。 交渉は平行線を辿り、毎日オリオンズと電鉄系を中心とした毎日オリオンズ加盟賛成派の・・・・・の7球団からなる太平洋野球連盟()と毎日オリオンズ加盟反対派の・読売ジャイアンツ・中日ドラゴンズ・・・・・の8球団からなるセントラル野球連盟()が結成される「2リーグ分立騒動」に発展した。 詳細は「」を参照 この騒動の中、大阪タイガースの主力選手であった・・・・が毎日に移籍した。 加盟賛成を表明しながらリーグ分立直前に態度を翻した大阪に対し、毎日が意趣返しに大量の選手引き抜きを行ったといわれた。 パ・リーグ公式戦開始より参入。 本拠地は。 毎日新聞東京本社運動部長で、戦前はのエースから前述の大毎野球団の一員となったを総監督、前大阪監督のを監督(選手兼任)とする二頭制をとり(実質的には湯浅が監督権限を掌握し、記録上の監督も湯浅である)、大阪からの移籍組に、から獲得した・を加えて「」を形成、投手では前年の都市対抗野球を制したのエースや、大洋から獲得したが活躍。 、対東急戦に勝利して、活動1年目にしてリーグ優勝 、でもを4勝2敗で圧倒し、初の日本シリーズで優勝を達成した。 打者では別当薫が、の二冠王を獲得しとなり、投手では荒巻淳が、の二冠王でとなっている。 首位南海と22. 5ゲーム差のリーグ3位に終わる。 7月16日、・での対戦で、雨天と日没を悪用し故意に試合をノーゲームにするという毎日側の策略に観客が激怒し暴動が発生()。 、責任を取り総監督の湯浅、監督の若林が2人とも更迭される。 この年は南海と争うものの、首位南海と1ゲーム差の2位に終わる。 シーズン終了後に若林、湯浅がそれぞれ復帰。 首位南海と14. 5ゲーム差の5位。 での対阪急戦が、によるプロ野球初のテレビ中継となる。 オフには別当薫が選手兼任で監督就任。 が打率リーグ2位の. 325と打点王、が最優秀防御率をあげ、新人のが新人王を獲得。 チームは首位南海と14ゲーム差の3位に終わる。 首位西鉄と13. 5ゲーム差の4位。 シーズン成績は3位。 、成績が低迷していた(大映野球)とし 毎日大映オリオンズ(まいにちだいえいオリオンズ)に改称。 略称は 大毎オリオンズ(だいまいオリオンズ)。 新会社毎日大映球団 が設立。 球団組織と法人格は毎日側を存続させ、形式的にはとの共同経営としたが、実質的な経営は大映側が掌握し、同社社長のがオーナーに就任するという「」だった。 大毎時代 [ ] が打率リーグ3位・打点王となるがチームは4位。 この時期、パ・リーグでは西日本に本拠を置くとがリーグの覇権を握り、関東の球団で集客を期待されたオリオンズが優勝できないことがリーグの不人気の原因であるとする指摘が複数なされるほどだった。 オフには、この年セ・リーグのとなったがの権利で阪神より移籍する。 優勝した南海と6ゲーム差の2位。 山内が本塁打王、葛城が打点王となる。 が監督に就任。 新監督のもと榎本喜八、山内和弘、田宮謙次郎らを擁す破壊力抜群の「」で10年ぶり2回目のリーグ優勝。 結果的に2位の南海と4ゲーム差の僅差だった。 しかし、大洋ホエールズとのでは、4連敗で敗退。 その時の戦法が永田オーナーの逆鱗に触れ、西本は1年で解任される。 この年をもって毎日新聞社は球団から役員を全員引き上げ、経営から事実上撤退。 永田が球団経営を掌握することになる。 パシフィック・リーグ誕生時には、毎日新聞は「リーグの広報」役を期待されていた。 毎日の撤退は、その戦略が潰えたことを意味した。 毎日新聞社史『毎日新聞百年史』(1972年)ではオリオンズについての記述が著しく少ないという指摘がある。 より本拠地は永田が私財を投じてに建設した専用球場・に移転。 東京オリオンズ時代 [ ] - 、球団名を 東京オリオンズ(とうきょうオリオンズ)に改称。 この他、ヤクルトが2006年からに改称している)。 だが、この改称は毎日新聞社側への根回しがないまま行われたため、毎日側が不快感を示した挙句、毎日新聞社の資本も翌1月に引き上げ、なおかつ後援も度シーズンをもって打ち切っている。 これによって球団は完全に永田が掌握することになったが、会社名は「毎日大映球団」を維持した。 優勝した翌1961年以降、チームは7年連続Bクラスと低迷する。 原因として、主砲のや、といった主力選手をトレードで放出し、が引退するなど、それまでのを解体して守りの野球を作ろうとしたが、本拠地がそれまでの後楽園球場より狭い東京球場に移った事で、方針としては逆行しているという指摘が多くあったとされ、1964年から1967年にかけてはチーム本塁打より被本塁打の方が多いという状況で、1968年に、などを獲得してようやくこの数字を逆転し 、チームも8年ぶりのAクラス、3位入りしている。 ロッテ時代 [ ] 、永田は友人であるの斡旋により、をスポンサーに迎えて業務提携を結び、球団名を ロッテオリオンズに改称。 ただ、正式な球団買収ではないので球団の経営は従来通り毎日大映球団(=永田側)が行って、ロッテは球団名の(現在に置き換えればの制度に近い)を取得する形としてとどまった。 このため、ロッテ本社からの人材の派遣は行われなかった。 首位阪急と5. 5ゲーム差の3位。 10年ぶり3回目のリーグ優勝。 東京球場での優勝決定時には、観客が次々とグラウンドになだれ込み、そのまま真っ先に永田を胴上げした。 しかし、初の同一都道府県内のみでの開催となった(東京シリーズ)は巨人に1勝4敗で敗れる。 をもって永田は球団経営から撤退。 ロッテが正式に球団を買収して親会社となり、会社名も球団名と同じ「ロッテオリオンズ」になる。 以来40年以上にわたりロッテは球団を保有し続けているが、これはパ・リーグに現存する6球団では最長である。 西宮での対阪急戦でのハーフスイングの判定をめぐり監督が猛抗議、を宣告される。 10日後、その責任を取る形で濃人が監督を解任され二軍監督に降格、後任に二軍監督が就任。 この年は、優勝した阪急と3. 5ゲーム差の2位。 39本塁打したなど チーム193本塁打は1963年の南海が記録した183本を抜いて(当時の)日本プロ野球記録となった。 前年と一転、Bクラスの5位に転落。 本拠地・東京スタジアムは永田と共通の友人であるの斡旋で社主のが経営を引き継いだが、小佐野は経営不振を理由に単独企業での球場経営の継続は困難であると判断。 球団と球場は一体であることが望ましいと考え、ロッテに対し球場の買い取りを要求。 しかしながら、ロッテ側は費用対効果の面で難色を示し、賃借継続を要請して交渉は平行線を辿る。 結局、シーズンオフに監督に就任したが「あそこは両翼の膨らみが無くて本塁打が入りやすい。 投手泣かせの球場を買い取る必要はない」と猛烈に反対したことなどから交渉は決裂。 東京球場は閉鎖され、ロッテは本拠地球場を失った。 仙台時代 [ ] 「」も参照 この年からの(現在はの本拠地)を中心に(翌年から保護地域も宮城県に暫定移転)、首都圏では後楽園球場、、を転々としつつ主催試合を行った。 特定の本拠地を持たない状況はまで続き、この5年間は「球団」などと揶揄された(参照)。 日拓ホームフライヤーズから合併を持ちかけられるもこれを拒否、このためフライヤーズはに売却されることになった(現在の)。 また、1971年からオーナーを務めたがの経営に参画・株式会社を設立するため、プロ野球協約の一個人・団体(企業)による複数球団保有を禁じる規定に従い 、中村が保有していた株式はロッテに譲渡された。 この年からパ・リーグはを導入。 成績は前後期ともに2位で総合では3位に終わる。 金田監督の下で、、、投手では、、らが活躍して後期優勝。 では前期優勝のを3連勝で破りリーグ優勝。 中日とのでは4勝2敗で日本一になった。 このときの日本シリーズの主催3試合は施設上の問題から仙台ではなく後楽園で行われた(この年と1977年度のパシフィック・リーグのは宮城で開催されたが、にロッテが進出していた場合も、ロッテ主催試合は後楽園で行われることになっていた)。 また、日本一を決定した後の凱旋パレードも東京・銀座から新宿にかけて行われたのみで仙台では行われず、これらの行為は仙台市民や一部のスポーツ新聞から「地元無視」と批判されたこともあった。 なお、この年を最後に、パシフィック・リーグ年間勝率1位に一度もなっておらず、2019年現在存在する12球団で最も長く勝率1位から遠ざかっており 、45年間勝率1位になっていないのはの37年間 をぬいてプロ野球史上最長である。 前年の優勝から一転して前期最下位。 後期は2位に浮上するも総合4位に終わる。 前後期ともに3位で総合でも3位に終わる。 前期は5位に終わるも後期は優勝。 では前期優勝の阪急と対戦。 最終戦までもつれ込んだが3勝2敗で敗退。 総合3位に終わる。 川崎時代 [ ] 1977年 神奈川県横浜市での建設が始まったのに伴い、すでに横浜への移転が内定していた大洋と共に本拠地として使えるよう折衝を行ったものの、横浜使用については折衝に失敗。 その後川崎市から誘致を受け、翌シーズンからへの本拠地移転が決定。 10月4日に保護地域を神奈川県に移転することが承認された。 この年から正式に川崎球場を本拠地として使用(なお、県営宮城球場でも引き続き年間10試合前後の主催公式戦を開催)している。 移転1年目は、総合4位に終わる。 シーズン終盤金田の解任が一部マスコミに報道され、金田はその後辞任した。 前年オフに将来的な監督候補と見込んで獲得していたにとして後任を打診するも金田の後任は荷が重いと固辞しそのまま退団。 山内監督時代 [ ] 山内一弘が監督に就任。 就任1年目は、総合4位に終わる。 ルーキーのを山内が積極的に指導するも、落合に山内の打撃理論は習得出来なかった。 山内の下、、のリー兄弟、投手陣では、、が活躍し前期優勝したが、プレーオフで後期優勝の近鉄に3連敗で敗退した。 エース村田の大活躍もあり2年連続前期優勝。 プレーオフで後期優勝の日本ハムと対戦、1勝3敗1分で2年連続プレーオフ敗退。 10月19日に山内が1年の契約期間を残して退団、ロッテ本社はフロントを急がせ「10人の候補者リスト」を作り、片っ端から交渉を開始したが、、と次々に断られ、有藤の監督兼任案も出たが、オーナーが「あと3年、プレーヤーで専任させよう」とストップをかけに相談し次期監督にを推薦し、山本が監督に就任した。 なお、金田の再任も候補に挙がっていたが、見送られた。 山本一義監督時代 [ ] が日本プロ野球史上4人目(5度目)の打者となる。 順位は5位に終わる。 球団史上初の最下位となり、山本は同年限りで解任。 稲尾監督時代 [ ] が監督就任。 なお、稲尾は「埼玉県所沢市に移転したライオンズに替わり、ロッテを数年以内に福岡県に移転させる」という条件で監督要請を受諾したが、(結果的に)福岡への移転は実現しなかった。 落合、、レロン・リー、新人のが打率3割をマークしてチーム打率1位になったものの、投手陣は肘の手術から復帰した村田が活躍したのみにとどまった。 落合が2度目の三冠王を達成。 この年はセ・リーグでも()が打者三冠王となり、セ・パ両リーグ同時に打者三冠王が出た。 マスコミからは広岡率いる西武の管理野球に対し稲尾の「無手勝流野球」と賞賛され、前年から2年連続で勝率2位を確保したものの、リーグ優勝した西武から15ゲームも離された。 落合は3度目、前年に続き2年連続で三冠王を達成。 バースも前年に続き三冠王となり2年連続でセ・パ両リーグ同時に打者三冠王が出た。 西村がこの年から4年連続で。 リーは打率331、横田は2年連続3割、後半良く打った野手転向3年目のとバラエティに富んだ打線は昨年に引き続きリーグ1位のチーム打率、投手陣はは3年連続2桁勝利、6月から抑えに転向したは18セーブを達成したものの、村田が8勝で終わり 、チーム防御率5位に終わった。 球団の福岡移転を熱望していたが実現しなかったことにより、稲尾が監督退任。 有藤監督時代 [ ] が監督就任。 落合博満が11月4日に「稲尾さんのいないロッテに自分はいる必要がない。 来年はどこと契約しているのかわからない。 」と述べ、11月7日に「配慮に欠いた」と球団に謝罪し、契約については「それは別の話」と述べた。 落合は・・・の4選手との1対4トレードで中日に移籍した。 落合の著書によると有藤が「監督を引き受ける条件の一つに私(落合)をトレードで出すのが条件」と記している。 有藤と不仲だったも冷遇され、不調に陥り同年解雇。 また、同年には女性向けの「URE・P(ウレピー)」を発行、URE・Pはなどで入手でき、本拠地を千葉に移転するまで5年間発行され、これにより女性客も増えて観客動員数は10万人ほど増えたという。 なおこの年は、やはり落合が抜け、リーが不振で、4番は若手のやらが務めたが力不足は顕著で打線は決定的に迫力に欠け、トレードで獲得した牛島がに輝くも、首位の西武と20ゲーム差の5位に終わる。 この年は最下位だったが、の近鉄とのダブルヘッダーがパ・リーグの優勝のかかった大一番となり注目を浴びた(詳細は参照)。 この日の川崎球場に観客がかつて無い程大量に押し寄せたため、同時にトイレなどの設備の老朽化が激しく露呈し、3年後の大幅改修のきっかけとなる。 が首位打者・がに輝く。 小川、、、の4人が二桁勝利を挙げた。 二軍の本拠地がのから浦和市(現:)のに移転。 村田兆治が5月13日のでの対日本ハム戦に勝利し通算200勝を達成。 に輝く。 最下位で球団初の2年連続最下位に終わり、有藤が監督を退任。 後任には、金田正一が2度目の監督就任。 第2次金田監督時代 [ ] チーム成績はは5位。 西村がになる。 村田が現役引退。 ドラフト1位指名のが入団拒否。 首位の西武と33. 5ゲーム差の最下位。 内外野全面への敷設、スコアボードの電光化など川崎球場の改修工事を実施。 「テレビじゃ見れない川崎劇場」をうたい文句にファン拡大作戦を実施した(同年の表現部門で「川崎劇場」が金賞に選ばれた)。 観客動員は102万1千人で、球団史上初めて100万人を突破、当時の既存12球団では最後の達成となった。 が首位打者を獲得。 金田が辞任。 千葉時代 [ ] 八木沢監督時代 [ ] 1991年 、翌年から保護地域を川崎から、専用球場を同県のに移転することがオーナー会議によって承認、発表された。 移転に伴う新しい球団名は一般公募により改称されることになり、同年、新しい球団名は 千葉ロッテマリーンズ(英語で海兵隊)に決定した。 この年のオフ、金田が監督を解任された。 後任に球団OBのが就任。 奇しくも1978年に八木沢に引退勧告を行ったことがきっかけで監督を解任された金田が、再び八木沢に追い出された形となった。 本拠地移転や球団名変更に伴い、ユニフォーム・・・マスコットを一新。 、 本来開幕権はが持っていたが、オリックスから開幕権を譲渡され、新生千葉ロッテは本拠地で開幕を迎えた。 4月は首位で終えたが、その後は失速、千葉移転初年度は昨年続き最下位に沈んだ。 それでも移転景気に恵まれ、観客動員が130万人を記録するなど順調な滑り出しを思わせた。 しかし翌年もやを獲得し補強を行ったがチームの地力は上がらず5位に終わると移転景気も潰え、観客動員も93万人に激減。 千葉県民の目も徐々に冷ややかになっていった。 こうして、川崎時代から続く「12球団最低レベルの観客動員数」という大きな問題点には千葉移転後も苛まれることとなる。 この年のオフ、当時パ・リーグ会長だった原野和夫はロッテのチーム力の低下と観客動員数の低迷を強く懸念。 重光オーナー代行に対し「もっと努力してほしい」と注意を行った。 開幕当初よりチームは低迷し、八木沢は8月1日をもって休養。 その後は、が代理監督を務め、5位に終わる。 オーナーのが中西に監督就任要請をするも中西は断り退団。 第1次バレンタイン監督時代 [ ] 日本球界初のGM()としてが就任すると、広岡はメジャーリーグでの監督経験のある監督を招聘。 バレンタインの提案で、川崎から移転後3年間採用していた色を主体としたユニフォームを、ピンストライプのデザインにリニューアル。 2年間の在籍で中軸として結果を残していたメル・ホールを性格の荒さや素行の悪さを原因に解雇。 代わりに、を獲得。 序盤は出遅れるが、2年目ながらトップバッターに起用された、リーグ打率2位の、打点王を獲得した 、外国人ながら本人のプレイだけではなくチームの精神的支柱も担ったフリオ・フランコ、、、の先発三本柱、、のダブルストッパー等投打のかみ合った1年となり、結果的に貯金10の2位で10年ぶりのAクラス入りを果たす。 翌年の優勝を期待するムードが大きく高まったが、バレンタインが広岡との確執から解任される。 フランコも広岡との確執で解雇。 江尻 - 近藤 - 山本功児監督時代 [ ] バレンタインの後任にはコーチとして入閣していたが昇格したものの広岡のの後輩ということで「広岡の」と陰口を叩かれる。 またチームも投手は伊良部が最優秀防御率・ヒルマンが防御率2位・成本が最優秀救援投手を獲得、河本も前年同様の働きをし二年目のが奮闘したが、開幕投手を努めた園川が0勝7敗、小宮山も大きく負け越し防御率も前年より2点以上悪くそれ以外が計算出来なかった。 野手は外国人が活躍出来ずに、初芝もマークが厳しくなり勝負強さが発揮できず、堀が孤軍奮闘するが焼け石に水で結局5位に沈み、広岡は契約を一年残して解任され 、江尻もこの年限りで辞任。 伊良部が球団と衝突し半ば強引な形で大リーグ・に移籍。 ヒルマンも巨人へ移籍。 が新監督に就任。 これはロッテのフロントが元巨人監督のに「立て直し役に最適な人はいないか」と相談し、89年から3年間巨人・藤田監督の下でヘッドコーチを務めていた近藤を藤田がロッテ側に推薦し、監督就任に至ったものだった。 時代のの多用に代表される采配のまずさによる成績不振、らと確執を生みチーム内に不和をもたらすなどの不安要素を押しての起用となった。 投手陣は伊良部・ヒルマンの抜けた穴は大きかったが、前年不振だった小宮山が奮闘し最優秀防御率を獲得、黒木が初の二桁勝利、が初の規定投球回数をクリアするなど奮闘。 しかしストッパー成本が大怪我でシーズンを途中リタイア。 野手では新人のが新人王に輝き、投手から打者に転向したが台頭したが、外国人は長打不足、初芝・堀も不振。 また、前年まで多くのマスクを被っていた・が相次いで移籍し、ドラフトで大学ナンバーワンと評価されたが開幕戦でスタメンマスクに抜擢されたがプロの壁は厚く苦戦を強いられた。 結局投打に渡り駒不足で最下位に終わる。 近藤監督での2年目を迎え、フリオ・フランコが3年ぶりにチームに復帰するも「投手陣の踏ん張りがなければ上位食い込みは難しい」と言われた。 4月は11勝5敗の首位だったが、ストッパーの河本が肩の故障で離脱しセットアッパーのも不振で離脱するとリリーフ陣が崩壊。 日本プロ野球ワースト新記録となる18連敗(途中1引き分けを挟む)を喫した(詳細は)。 ロッテはこの18連敗の間、シーズン通算23勝43敗1分、勝率. 358まで戦績を落として最下位へ転落し、借金は一気に20まで膨れ上がった。 全18敗のうち逆転敗戦は9、サヨナラ敗戦は4であった。 連敗脱出後はリリーフとして新外国人のが加入、河本も戦線復帰でブルペンが強化されチームは復調し、シーズン最終成績は61勝71敗3分、勝率. 462。 借金10まで盛り返したものの最下位からは脱することができず、結果的にこの18連敗が大きな痛手となった。 また、総得失点差でプラス(チーム打率もリーグトップ. 271。 チーム防御率リーグ2位3. 70)でありながら最下位となった。 近藤は、シーズン終了後の監督退任会見で「今度監督をやる機会があれば、もっと強いチームでやりたい」と発言しロッテを去った。 、、、 にはが二軍監督から一軍監督へ昇格し、投手陣の充実、新人獲得の地元出身者偏重の解消などチームの構造改革に取り組むも、球団の資金難や貧打線、頼みの投手陣を克服できず定位置のBクラスからは抜け出せなかった(その黒木が故障離脱した2002年は開幕11連敗とまたしても大型連敗を経験した)。 1999年のオフにそれまでチームを支えていた小宮山が権を行使する意向を球団に伝え、結果として自由契約という形でに移籍した。 しかし、この時期にドラフトで獲得した、、、らは二軍生活を経て後のAクラス入り、日本一に大きく貢献している。 オフには限りでを退団したを獲得するが、翌年の春季キャンプ中に「野球に対する情熱が無くなっているのに気づいた」と残し、開幕を待たずに退団している。 このシーズンは特に秋に好成績を収めており、8月末まで5位に低迷していたのが9月から一気に調子を上げ、日本ハムをかわし4位に浮上している。 オフ、韓国・からを獲得。 山本は5年間監督を務めたがすべてBクラスに終わり、2003年に解任された。 第2次バレンタイン監督時代 [ ] バレンタインが「全権監督」として復帰。 サンデーユニフォーム(白地に黒のダンダラ模様を入れた上着を着用。 パンツは通常のストライプ)を採用。 4位で迎えたシーズン最終戦はプレーオフ進出をかけ西武と対戦。 3者連続ホームランで逆転し、西武に勝利するも、3位だった日本ハムも勝利したため、0. 5ゲーム差で4位が確定。 プレーオフ進出を逃した。 しかし、シーズン全体では勝率5割を記録した。 今江敏晃、西岡剛の台頭もあり好スタートを切る。 上位から下位までどこからでも点を取る打線は、1998年の横浜ベイスターズの「マシンガン打線」になぞらえて「」と呼ばれ、4番にを起用する打線が機能する。 サブローはまったく新しいタイプの4番打者としてチームに貢献した。 3月26日の千葉マリンでの開幕戦では、新球団と対戦し3-1で敗れ、楽天の公式戦初試合初勝利を献上したが、翌日には2リーグ制以降している。 この年から導入されたでは24勝11敗で優勝。 「セ・パ交流戦初代チャンピオン」となる。 8月17日の対戦に勝ち、10年ぶりの勝ち越しを決めると同時に、34年ぶりの貯金30を達成。 8月28日の対オリックス戦で勝利し、進出と10年ぶりのAクラスを確定。 9月19日、34年ぶりの80勝を達成し(最終的には84勝)、シーズンを2位で終えた。 で西武、第2ステージでは2戦先勝するも第3戦、第4戦と敗北。 第5戦でも2点先制されるが、8回表にの劇的な2点タイムリーツーベースで逆転。 その後もリードを保ち、を破り31年ぶりのリーグ優勝を果たした。 からのでは、第1戦 は試合途中から、選手全員が全く前が見えないほどの夥しい濃霧にグラウンド全体が包まれ、7回裏1死時点で試合続行不能になるほど霧が濃くなり、となる珍事が起きている。 その後も阪神を2002年の巨人以来3年ぶり、球団史上初となるストレート4連勝で下し、31年ぶり3度目の日本一に輝く。 からで行われた第一回に出場。 決勝で韓国のを5-3で下して勝利し優勝している。 二軍ではファーム日本選手権で阪神を下し優勝しており、この年は一軍・二軍合計で年間6冠を達成している。 11月20日に千葉市中心部と幕張地区の2カ所で行われた優勝パレードでは合計27万人を動員し、同年の阪神の来場者数・18万人を上回る盛り上がりを見せた。 この年のボビー政権は、変則的に打線が入れ替わる 日替わり打線などを駆使していた。 また、その采配がしばしば成功するので、 ボビーマジックと言われた。 この年、(15勝)、(12勝)、(11勝)、(10勝)、(10勝)、(10勝)が2ケタ勝利を挙げた。 また久保の新人10勝の記録は毎日時代の1950年の(26勝)・(16勝)以来球団史上3人目のことだが、荒巻と榎原は左投手なので、右投げの新人投手が2ケタ勝利を挙げたのは球団史上初である。 が巨人へ金銭トレードされ、李承燁が巨人、セラフィニがオリックスへ移籍。 交流戦は2年連続での優勝となったが、夏場以降は急失速し、最終的にシーズンを4位で終えている。 オフには、を退団したを獲得。 3月24日の開幕戦(千葉マリンの対戦)が降雨コールドで引き分け。 翌日も延長12回で引き分け。 投手陣は、中継ぎ陣がの防御率10点台を超える乱調や、の度重なる救援失敗により事実上YFKが崩壊したが、38で賞を獲得したがシーズン終盤に抑えに回り、2年目のと新人のが活躍し、強固な中継ぎを維持できた。 先発陣はエース清水直行が6勝どまりだったものの、渡辺俊介が不振から脱却、援護が無いものの安定した防御率を残し、小林宏之が自己最多の13勝。 そしてが16勝1敗、防御率1. 817で、との2冠を獲得する大活躍を見せた。 この3人が柱となり、前年を上回る成績を残した。 一方野手陣は、、の故障による離脱・不振などでシーズン通して安定した攻撃力を維持できず、の台頭もあり得点はリーグトップだったが、首位日本ハムとは2ゲーム差の2位に終わった。 ではソフトバンクに2勝1敗で勝利したが、2ndステージでは日本ハムに2勝3敗で敗退した。 先発投手陣が揃って不調に陥り、さらに開幕直後に捕手の・・が同時期に故障し、前半戦は一時期最下位に沈んだ。 後半戦は不調の先発陣をリリーフ陣が支え、打撃陣がチームを牽引し勝率を5割以上としたが、首位西武と4. 5ゲーム、3位の日本ハムと0. 5ゲーム差の4位となっている。 チーム防御率はリーグ最低となった。 野手陣に故障者が多く、復活を期待されていたズレータの不振や今江の骨折による長期離脱なども重なり、チーム打率は前年より上昇したものの打撃力は安定しなかった。 投打がうまくかみ合わず、大量得点しても大量失点してしまうという試合が多かった。 、球団はバレンタインと5年目以後の監督契約は結ばず、4年目の2009年シーズン限りとする旨を発表。 オフにを獲得。 ロッテが東京オリオンズのスポンサーとなって40周年を記念したマークを導入。 5月21日、とパートナーシップ包括協定を締結。 シーズン中に、バレンタインの監督退任騒動が浮上。 9月26日に「死刑」などのフロントを中傷するゲーフラを掲げた一部ファンに対しがヒーローインタビューにて中傷行為を止めるように要請した。 しかし9月27日にこれまでロッテの応援を引っ張ってきた 詳しくはを参照 外野応援団・が西岡の応援を妨害し、外野応援団・MVPに反発したファンから帰れコールが起こるなど球場は騒然としてしまった。 これがきっかけで外野応援団・MVPは解散することになりスキンヘッドランニングなどのチャンステーマ、旧応援歌 一部は2010年も使われた が廃止されてしまった。 これら騒動の影響もあってチームは低調な成績に終わり、2年連続Bクラスの5位でシーズンを終了。 バレンタインの後任にはヘッドコーチのが監督に昇格した。 オフには韓国・からFA宣言したを獲得。 西村監督時代 [ ] 序盤はルーキーや金泰均らの活躍で快調なスタートを切ったものの、荻野貴との長期離脱など相次ぐ主力の故障や夏場の金泰均の打撃不振などが続き、交流戦以降は徐々に調子を落としたが、上位5チームによるAクラス争いの中で終盤まで首位戦線に食い込み、首位ソフトバンクと2位西武からは2. 5ゲーム差、4位の日本ハムと0. 5ゲーム差の3位でシーズンを終えた。 のファーストステージでは、西武に2連勝。 ファイナルステージでは、ソフトバンクに王手をかけられながらその後、3連勝で4勝3敗で連破し、クライマックスシリーズを制覇。 通期での勝率3位から日本シリーズに進出したのは、前後期制時代の1973年・以来37年ぶりとなった。 日本シリーズでセリーグ優勝の中日を4勝2敗1分で下して5年ぶり4度目の日本一となり、パリーグで初めてリーグ優勝せず に日本シリーズを制した球団となった。 3位からの日本一は史上初めてである。 、ではを3-0で降して日韓王者に輝いた。 、本拠地の千葉マリンスタジアムがテレビショッピング専門チャンネル・による導入に伴い、名称を「 QVCマリンフィールド」に改めることを発表した。 オフには小林宏之が阪神へ、西岡が・へそれぞれFA移籍している。 また、堀幸一が現役続行を目指して退団するも、他球団からのオファーがなく現役引退。 に発生したでは、本拠地・QVCマリンフィールドに目立った外傷はなかったが周辺がを起こすなどあり、この年のQVCでのオープン戦はすべて中止となっている。 また開幕が当初予定のからに延期となったことから、開幕戦はQVCでの楽天戦となり 、6対4で敗れ開幕戦は6年連続敗戦となった。 の対中日戦 QVC の敗戦で勝率5割として 以降は借金生活となり、の対阪神戦 QVC の敗戦で最下位に転落。 交流戦は8勝14敗2分の10位。 にはサブローがプラス金銭で巨人にトレードされる。 前半戦は借金1の3位で折り返す。 しかし後半戦に入ると連敗するなど低迷し、の対西武戦(西武ドーム)に勝利し球団通算4000勝を達成 するが、終盤戦に入っても低迷は続き、には9年ぶりの11連敗を記録 、翌日対日本ハム戦 QVC に勝利し連敗を止めるものの、この日3位オリックスが勝利してBクラスが確定 、の対楽天戦(Kスタ宮城)に敗れたことで最下位が確定。 前年日本一のチームが最下位になるのは日本プロ野球3度目、パ・リーグでは初めて。 最終的には54勝79敗11分、首位ソフトバンクと33. 5ゲーム、3位西武と13ゲーム差、5位楽天と10ゲーム差。 得点は球団史上最低記録となる432 、チーム本塁打は46本で球団史上最少で、50本以下だったのは1959年の近鉄以来。 2桁本塁打の選手がいなかったのは球団史上初。 この年の本塁打王の(西武)の48本を下回り、1チームのチーム本塁打数が個人の本塁打数を下回るのは1959年の近鉄以来の記録となった。 金泰均が打撃不振や怪我がありシーズン途中9月に帰国、退団している。 、この年6月に巨人に移籍したサブロー がFA移籍で半年でロッテに復帰。 開幕戦から1952年以来の60年ぶりの4連勝をするなど 、序盤から首位争いをしに対ソフトバンク戦 QVC に6対4で勝利し首位浮上。 交流戦は12勝7敗5分で3位。 前半戦を42年ぶりの首位で折り返した。 しかし後半戦はの対日本ハム戦 QVC に5対3に敗れ、2カ月半ぶりに首位陥落し 、からは途中球団ワースト記録となる6試合連続1得点以下もあり 、9連敗するなど順位を落とし、ソフトバンク、楽天とクライマックスシリーズ進出を争うが、に対オリックス戦(京セラD)に2対1で敗れたことで2年連続のBクラスが確定し 、最終的に62勝67敗、優勝した日本ハムから10ゲーム、3位ソフトバンクと3. 5ゲーム差の5位に終わる。 が首位打者を獲得、独立リーグ出身の打者としては初めてとなった。 二軍はイースタンリーグ優勝、ファーム日本選手権でもソフトバンクを3対1で下し2年ぶり3度目の日本一になっている。 が中継ぎとしてリーグ2位、新人最多記録の72試合に登板し、新人記録となる41ホールド、43ホールドポイントを挙げ最優秀新人賞を獲得。 、西村が監督退任 、にはヘッドコーチのら8コーチも退団。 、監督に が就任。 伊東監督時代 [ ] 5月9日に7年ぶりの8連勝で首位に立ち 、交流戦は13勝10敗1分の5位に終わった。 7月3日に2位の楽天に敗れ、首位に並ばれると6日には4連敗で2位に 、前半戦を2位で折り返した。 9月26日の対日本ハム戦(札幌ドーム)に5対6で敗れ、楽天が対西武戦(西武ドーム)に4対3で勝利したことで楽天の優勝が決まり優勝を逃すが 、にソフトバンクが対日本ハム戦(札幌ドーム)に4対5で敗れたため、この日試合のなかったロッテの3年ぶりの進出が決定した。 10月8日の西武ドームでの西武とのシーズン最終戦は共に勝った方が2位確定となったが敗れて3位となった。 クライマックスシリーズファーストステージ(西武ドーム)は西武に2勝1敗で勝利したが 、ファイナルステージ(Kスタ宮城)は楽天に1勝4敗で敗れて敗退した。 オフに西武のをFAで獲得した。 1月1日付けで球団社長に前の山室晋也が就任した。 開幕から5連敗を喫し、チームは5月のから始まり6月の荻野、7月のと主力選手の怪我による離脱、成瀬・涌井・唐川といった主力の投手の不調などが響き、思うように順位を延ばすことができず、夏には最下位争いを繰り広げる羽目になった。 シーズン途中にキューバ出身での大砲・を獲得 、の対日本ハム戦(QVC)に敗れ、Bクラスが確定しロッテのクライマックスシリーズ進出の可能性がなくなった。 最終結果は4位に終わった。 が現役を引退し 、成瀬がFA権を行使してヤクルトに移籍した。 チームは開幕当初はAクラスの2位・3位に立つこともあったが4月中盤には徐々に脱落し、それ以降はソフトバンク・日本ハム・西武の3強の後塵を拝する状態が続いた。 交流戦では一時は首位に立つ も最終結果は10勝8敗の5位に終わった。 、この日のオリックス戦に敗れ6連敗となりロッテの自力優勝の可能性が消滅した。 その後、連敗を7で止めるも前半戦を4位で終えた。 にデスパイネが母国・キューバの大会に出場するため離日するのを球団が発表、にのを獲得した。 後半戦から終盤戦にかけては西武との激しい3位争いを繰り広げ、特に終盤はCS進出をかけて争うこととなった。 の対日本ハム戦(札幌ドーム)に勝利したことにより、西武に代わって3位に浮上した。 そしての対日本ハム戦(QVC)に5-3で勝利し3位が確定し、2年ぶりのCS進出が決定した。 のファーストステージはシーズン2位の日本ハムと対戦し、2勝1敗でファイナルステージ進出を決めた。 ファイナルステージではレギュラーシーズン1位のソフトバンクと対戦し、ファイナルステージでは3度目の組み合わせで過去2回はいずれもロッテが勝利しており、しかもそれが5年周期であったことから「下克上」・「ゴールデンイヤー」と銘打ったものの、3連敗(アドバンテージ分除く)で敗退となった。 オフに今江がで楽天に、クルーズも巨人に移籍した。 一方でソフトバンクからを獲得した。 、新外国人のが銃弾を隠し持っていたとして逮捕され、4月まで出場停止の処分を受けた。 開幕当初は首位に立つこともあったが、5月に入るとソフトバンクに首位を奪われてしまった。 それ以降ソフトバンクの後塵を拝する状況が続き、後半には日本ハムにも抜かれてしまう。 しかしながらその後は3位をキープし続け9月24日にリーグ3位が確定、クライマックスシリーズ進出と31年ぶりの2年連続Aクラス入りが決定した。 クライマックスシリーズでは、リーグ2位のソフトバンクと対戦するも2戦全敗で敗退した。 角中が首位打者とを獲得、またが2. 16で最優秀防御率を初受賞、サブローが現役を引退。 また、デスパイネが金銭面の関係で退団、への移籍が決まった。 オープン戦を首位で終えたものの、シーズンに入ると打撃陣は新外国人のと の不振などで4月のチーム打率1割台、投手陣も昨年最優秀防御率のタイトルを獲得した石川の大乱調などで4月のチーム防御率5点台と投打にわたって深刻な不振に陥り、チームは低迷した。 5月3日の日本ハム戦に敗れ最下位に転落すると 、そのままシーズン終了まで一度も最下位を脱出できなかった。 、この日の西武戦にも敗れ6連敗を喫しここまで通算37試合でわずか9勝(27敗1分け)しか挙げられず、ロッテの自力優勝の可能性が早くも消滅した。 5月から6月にかけ、の と、ソフトバンク・オリックス・楽天でプレーした を相次いで獲得する。 秋口になるとチームも復調し、9月は12勝10敗で今季初の月間勝ち越しを達成するが 最下位脱出には至ることができず、10月3日の試合で5位の日本ハムがオリックスに勝ったことでロッテの6年ぶりのシーズン最下位が確定した。 そして10月10日のシーズン最終戦にも敗れ、球団史上ワーストとなるシーズン87敗目を喫しシーズンを終えた。 一方、チーム打率・得点・本塁打・防御率もリーグ最下位に終わった。 伊東監督が辞任し、井口が現役を引退した。 オフには大量10選手が戦力外になったことに加え、外国人選手5人の退団も決まった。 また、コーチ陣も刷新。 同年10月11日に一軍野手総合兼打撃コーチのら7コーチに対して来季コーチ契約を行わないことを通告した。 井口監督時代 [ ] 2017年10月12日、現役を引退した井口が監督に就任することが正式に決定し、球団の公式ホームページで発表された。 また、井口のダイエー時代のチームメイトであったが一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチ、が一軍戦略コーチ兼バッテリーコーチ補佐に就任することが発表された。 2018年2月23日、代表取締役オーナー代行が同月13日に韓国で贈賄の罪で収監された ことを受け、代表権およびオーナー代行職を解かれ同日付での取締役が代表取締役オーナー代行に就任した。 、一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチのがヘッドコーチ専任、二軍内野守備・走塁コーチのが一軍内野・守備走塁コーチ、二軍打撃コーチ兼育成担当のが二軍内野守備・走塁コーチに配置転換されることが発表された。 また、一軍内野守備・走塁コーチの小坂がベンチ入りした影響で一軍打撃コーチ兼内野手の肩書だった福浦がコーチ登録を抹消され、福浦は内野手に専念することとなった。 この年は、4年目の、5年目の、ルーキーのらがスタメンで活躍。 また、新外国人投手のが11連勝した。 7月から8月上旬にかけてソフトバンク・オリックスとの3位争いとなったが、8月7日に4位に転落して以降、本拠地での極端な成績不振(8-10月で2勝22敗)となり、9月22日の西武戦(本拠地)でが通算2000本安打を達成してもチームは逆転負けするなど、9月5日を最後に本拠地で勝つことができず、シーズン最終戦でパ・リーグ新記録となる本拠地14連敗を喫した。 9月27日の楽天戦に敗れて2年連続のBクラスが確定、10月5日の楽天戦に勝利したことでシーズン5位が確定し、2004年に消滅した近鉄と2005年に誕生し2013年で初優勝した楽天を含む13球団で唯一30年間で1度も1位確定をしなかった。 また、球団史上初めてパ・リーグ全5球団への負け越しが確定した。 チーム盗塁数は西武に次いで2番目に多い124個を記録するも、チーム総得点は最下位の楽天に次いで少ない534点、チーム本塁打数に至ってはパ・リーグで最下位の78本にとどまり、盗塁が必ずしも得点に結びつくことが出来なかったことに加えて、チーム防御率も西武に次いで2番目に悪い4. 04を記録。 前年同様、投打にわたり課題を残すシーズンとなった。 この年限りで、、、、が現役を引退した。 また、オフに、、、の3選手がオーストラリアン・ベースボールリーグに所属するに派遣されることが決まった。 11月6日、内野手の獲得を発表した。 その他にも、元楽天の捕手や元日本ハムの内野手、北米選手の中では最年長でメジャーリーグにデビューし、元横浜の選手でもある投手、メジャーリーグ出場経験のある投手を獲得した。 また、からFA宣言した外野手の獲得にも乗り出したが、に争奪戦に敗れ、獲得には至らなかった。 開幕戦では楽天相手に中村、加藤、レアードの3本のホームラン、のプロ初ヒットなどもあり勝利。 しかし開幕4試合連続ホームランを打った新加入のレアードや中村、加藤などの好調も虚しく4月11日には最下位転落。 そこから息を吹き返し、5月中盤には2位にまで順位を上げた。 7月4日、からをとのトレードで獲得。 7月14日、外野手の獲得を発表、途中入団ながら14本塁打を放つなど結果を残した。 に僅差で躱され4位で終了。 が、を初受賞した。 プエルトリコで行われるウインターリーグに、、の三選手を、台湾で行われるウィンターリーグに、、の三選手を派遣。 オフに福浦和也が引退し、11月1日、来期より二軍ヘッドコーチ兼打撃コーチに就任することが発表された。 また、同じく引退したが二軍サブマネージャー、が一軍走塁コーチ兼打撃コーチ補佐兼外野守備コーチ補佐に就任した。 、が権を行使せずに残留するも、は楽天にFA移籍した。 も金銭トレードで、もFAの人的補償でともに楽天に移籍した。 いっぽうでは「令和の怪物」と評されたを4球団競合の末獲得に成功。 補強にも積極的に動き、楽天から、ソフトバンクからをFAで獲得。 一度のオフにFA選手を2人獲得するのは球団初のことである。 楽天からは他にもFAの人的補償としてを、また、自由契約となったとを獲得している。 さらに、元広島のも獲得した。 また、元ドミニカ共和国空軍のホセ・アコスタ、元BCリーグ富山のホセ・フローレスを育成選手として獲得した。 シーズン終了後の12月1日付で球団社長の山室晋也が退任し 、オーナー代行の河合克美が球団社長を兼任する人事が執行された。 1月19日、1971年の球団買収以来オーナーを務めたが・に於いて老衰のために死去(98歳没)。 3月10日、前年までに在籍していたを獲得。 背番号は 00。 3月24日、球団の株主総会と取締役会において、1月に死去した重光武雄の次男で、3月18日に親会社の会長職に選任されたばかりの重光昭夫が球団の代表取締役会長オーナーに就任することを正式に承認した。 重光は前述の通り、2018年2月に自身の不祥事でオーナー代行職から一旦退任していたため、2年ぶりにフロントへの復帰となった。 所属選手・監督・コーチ [ ] 「」も参照• リーグ優勝 5回(1950年、1960年、1970年、1974年、2005年)• クライマックスシリーズ優勝 1回(2010年)• 日本一 4回(1950年、1974年、2005年、2010年)• アジアシリーズ優勝 1回(2005年)• 日韓クラブチャンピオンシップ 優勝 1回(2010年)• セ・パ交流戦優勝 2回(2005年、2006年)• 前期優勝 2回(1980年前期、1981年前期)• 後期優勝 2回(1974年後期、1977年後期)• Aクラス 27回(1950年 - 1952年、1954年 - 1957年、1959年、1960年、1968年 - 1971年、1973年、1974年、1976年、1977年、1980年、1981年、1984年、1985年、1995年、2005年、2007年、2010年、2013年、2015年 - 2016年)• Bクラス 42回(1953年、1958年、1961年 - 1967年、1972年、1975年、1978年、1979年、1982年、1983年、1986年 - 1994年、1996年 - 2004年、2006年、2008年、2009年、2011年 - 2012年、2014年、2017年 - 2019年)• 連続Aクラス入り最長記録 4年(1954年 - 1957年、1968年 - 1971年)• 連続Bクラス最長記録 9年(1986年 - 1994年、1996年 - 2004年)• 最下位回数 9回(1983年、1988年 - 1989年、1991年 - 1992年、1997年、1998年、2011年、2017年)• 最多勝 85勝(1955年)• 最多敗 87敗(2017年)• 最多引分 15分(1978年、1980年、1984年)• 最高勝率. 704(1950年)• 最低勝率. 580を達成)。 以来連続45シーズン、年間勝率首位がなく、12球団で最もリーグの年間勝率首位から遠ざかっている球団である。 また、これはの大洋ホエールズ時代から続いた1961年 - 1997年の37年間を超え、最長記録となっている。 その他の記録 [ ]• 最小ゲーム差 1. 0ゲーム(1952年)• 最大ゲーム差 39. 5ゲーム(1983年)• 最多本塁打 193本(1971年)• 最少本塁打 46本(2011年)• 最高打率. 287(1985年)• 最低打率. 232(1965年)• 最高防御率 2. 40(1956年)• 最低防御率 5. 12(1983年)• 1イニング最多得点 15得点 (2009年6月11日対広島6回裏・日本プロ野球記録) チームの特徴 [ ]• まで、前身球団を含めて当時の12球団では唯一、最下位がなかった。 前・後期制だった前期と1982年前期はともに最下位に沈んでいるが、年間通算での最下位はが球団史上初である。 チームの生え抜き及び在籍経験選手が監督に昇格するやなどと比べ監督が多いことでも知られている。 このため、生え抜き監督は・・・の4人で(西本・八木沢・西村は後に他球団の指導者を経験)、現役およびコーチ時代に他球団在籍経験のあるOBを含めても、・・・・を加えた9人である。 反面、コーチはオリオンズ・マリーンズが多く、山本功児が監督を務めていた時は山本も含めてコーチ全員が球団OBだったこともある。 過去に4回、を優勝しているが、フランチャイズ制が確立されていなかった以外の3回はいずれもロードの球場(・、・、・)で胴上げをしており、本拠地(後楽園、東京、仙台、川崎、千葉)での日本一の胴上げは未だ成し遂げられていない。 ただし、リーグ優勝における胴上げはある(・東京、・仙台=プレーオフ優勝。 他に年間優勝ではないが、前期と前期の優勝を川崎で達成している。 本拠地での日本一の胴上げを未だ成し遂げられていないのは、現存する11球団では他に〔・〕のケースしかない)。 球団創立以来、現存する12球団及び合併・消滅した近鉄を含む計13球団で唯一を受賞した投手が1人もいない(2019年現在)。 完全制覇 は活動1年目のしかなく、全球団の中で最も遠ざかっている。 パ・リーグでは勝率3位からを突破してに進出した唯一の球団であり、そこから日本一を果たしたのも唯一である。 また、にはシーズン2位からプレーオフを勝ち抜いてリーグ優勝して日本一にも輝いたが、年間勝率2位以下で日本シリーズに2回進出したことのある球団はまでは12球団の中でロッテだけで、2回日本一になっているのもこれまた唯一であった。 一軍公式戦において、2004年までは全試合が対象・2005年以降はリーグ戦のみが対象で、前身球団を含む現存する12球団で唯一、全球団に負け越したシーズンが意外にも2017年まで1度も無く、2018年に初の屈辱を味わった。 東京・仙台・川崎時代 [ ] 以前のニックネーム「オリオンズ」はのが由来。 球団創立以来まで使われた。 チームの愛称は一般公募され「オリオンズ」は得票数5位だったが、星が当時の親会社・のでもあることから付けられた。 大映ユニオンズと合併した際、毎日側は新球団名として「毎日スター」を提案。 これを受けた永田雅一は一応納得はしながらも「以前、毎日新聞は『大毎』(の略称)と呼ばれ親しまれていた。 今でも自分は毎日を大毎と思っている。 何故この新球団を『大毎オリオンズ』としないのか」と反論。 毎日側も納得し、新球団名は永田案が通った。 毎日新聞がオリオンズの経営から手を引いたのちも、球団誕生に合わせて改称した喫茶店「茶房オリオンズ」が毎日新聞大阪本社ビルに(ビル建て替えに伴う移転を乗り越えて)存在し、名残をとどめていたが、2014年4月25日限りで閉店した。 閉店に際して開かれた「感謝の集い」には、千葉ロッテ球団からも集いに対する祝電が寄せられた。 千葉時代 [ ] から愛称を「オリオンズ」から「マリーンズ」に変更。 公募されたものの1位は「ドルフィンズ」だった。 しかし中日の略号「D」と被るために、他に使用例のない頭文字「M」の「マリーンズ」が選ばれた。 これは本拠地である千葉マリンスタジアムの名称にちなんだものであるが、が「マリーンズを日本語に訳すとどういう意味になるのか」と疑問に感じたため球団事務所に電話で問い合わせたところ、球団からは「一応、海の勇者という意味で使っています」との公式回答があったという。 ただし英語における名詞形のmarineには「海兵隊員」以外の意味合いはなく、このため公式サイト上の試合速報でもの文字が散見される。 オーナー企業であるは菓子の製造・販売を主たる事業としており、球団名との関連はない。 なお公募の際、「パラダイス」票が最終選考まで残った。 また変更なしの「オリオンズ」票も多数あった。 千葉にちなんで、有名な千葉を本拠地にした架空のチームを舞台にした漫画『』と同じ「パイレーツ」も多く票を集めたが、作品との混同とそれにまつわる権利上のトラブルを避けたのと、作中でのが(基本的には)笑い者にさえされている弱小チームであるため、実在のチームに名付けるのはイメージが悪いという判断で却下されている。 による選手の補強にはやや消極的である。 これまで、他球団からFAでロッテに移籍したのは、1995年オフの(前阪神)、2011年オフのサブロー(前巨人。 厳密には古巣に復帰)、2013年オフの(前西武)のみ。 かつては、所属選手でFA宣言した選手とは再契約をしない方針をとっていたが(例外は1998年オフのと)、2017年オフの涌井以降は再契約を認めるようになっている。 2018年オフに(前広島)がFA宣言した際には、地元・千葉県出身ということもあり獲得に動いた (丸は最終的に巨人に移籍)。 2000年代の後半以降になると以前にも増して長距離打者の不足に悩まされることが増え、2017年終了時点で30本塁打以上打ったのは、2005年のにまで遡る。 日本人では1986年の落合博満以来、四半世紀以上にわたって出ておらず、2019年までの33年間で日本人選手が年間最多本塁打を記録したのは初芝清が1995年と1998年にそれぞれ記録した25本であり、20本塁打以上を打った日本人選手も1987年以降では8人しかいない。 これに関しては、球場に吹く海風の影響が大きいと言われており、落合の記録も川崎球場が本拠地の頃のものである。 からまでは、12球団で唯一主催ゲームで地方開催を行っていなかった。 に千葉への本拠地移転25周年記念事業の一環として、を会場とした初の主管試合(7月12日・対ソフトバンク戦)を開催した。 地方主管試合としては2005年7月に西武ライオンズを帯同した、での試合以来11年ぶり、東京都での主管開催はジプシー時代の1977年に後楽園・神宮で各12試合ずつ・24試合を開催して以来39年ぶりのことであった (試合は4-0でホークスが勝っている)。 2017年は再び地方開催なしとなったが、2018年は5月15日に13年ぶりに富山市民球場アルペンスタジアムで、8月21日に2年ぶりに東京ドームで、それぞれ地方開催を行った。 2020年は6月30日に富山市民球場アルペンスタジアムで、9月8日に()での地方開催を予定していたが 、の感染拡大を受け、前記2球場での地方開催を断念することを2020年4月13日に発表した。 なお、水戸での開催は前身球団の大毎が1959年5月に対阪急戦を行って以来61年ぶりになる予定だった。 チームスローガン [ ]• 1993年:「心・技・体 '93」• 1994年:「激闘」• 1996年:「One at a time(一つ一つを大切に)」• 1998年:「Play Hard '98」• 1999年:「For The Team」• 2000年:「For the Team 2000」• 2001年:「For the Team Strive for Victory(チームのために勝利に向かって奮闘しよう)」• 2002年:「For the Team」• 2003年:「Ambition for Victory (勝利への執念)」• 2004年:「This year is beginning of the future. (今年から未来が始まる)」• 2005年:「BUILDING OUR DREAM! 〜夢をみんなで〜」 優勝直後には「We built our dream(夢を叶えたぞ)! 」の文字が公式サイトに現れた。 2006年:「Let us do it again(もう一度夢をみんなで)」• 2007年:「All Hands to The Flag! 〜結束、フラッグのために〜」• 2008年:「A Passion for Our Dream, A Commitment to The Flag(夢に情熱を、フラッグに誓いを)」• 2010年:「和」• 2011年:「和 2011」「今こそみんなで和の力」 「今こそみんなで和の力」は復興スローガン。 2012年:「和のもとともに戦おう」• 2013年:「翔破〜頂点を目指して〜」• 2014年:「翔破 〜頂点へ、今年こそ。 2015年:「翔破 〜熱く! 勇ましく!! 泥臭く!!! 2016年:「翔破~熱き心で~」• 2017年:「翔破~限界を超えろ! 2018年:「マクレ」• 2020年:「突ッパ! 」 マスコット [ ] マーくん 千葉ロッテマリーンズ マスコット 基本情報 国籍 出身地 幕張の浜 生年月日 8月9日 選手情報 投球・打席 右投右打 ポジション 経歴 (括弧内はプロチーム在籍年度) この表はテンプレートを用いて表示しています。 編集方法はを参照してください。 現在のマスコットである マーくんは3代目でがモチーフ。 等に使用されているほか、千葉県や千葉市のキャンペーンなどにも起用されている。 同じオーナーのもとにある兄弟球団にあたる韓国の、にもマーくん・リーンちゃん・ズーちゃんと類似のマスコット(イラストではユニフォーム・キャップなどの色違い)が制定されており、日本のマーくんにあたる ヌリがペットマークに使用されている。 マーくん 6歳・メインキャラクター ユニフォーム姿(背番号なしでネーム「MAR-KUN」のみ)。 メンバー(744号) 1992年に登場。 着ぐるみは数度変更されており、ペットマークに導入された際に現在のルックスとなった。 2012年3月1日からはのアカウントが独立。 元々千葉ロッテマリーンズの公式アカウントでつぶやいていたものの、専用のアカウントが出来たことで発言の頻度が増している 2012年4月現在。 千葉ロッテマリーンズの公式アカウントでつぶやいていたころの名残か、つぶやく際に毎回「マーです」と名乗っている。 のマスコット・曰く意外とロッテリアの競合会社であるが好きとのこと。 生粋のアイドルヲタクである。 つば九郎の妹・に想いを寄せられているようで、交流戦で神宮球場へ行くたびに猛アタックされている(『』を渡されるなど)。 しかし本人は興味を持つことなく、恐怖感を持って逃げ出したり、冷たい目で見ることが多い。 リーンちゃん 4歳・マーくんの彼女 でピンクのサンバイザーに白のトレーナーもしくはピンク系のスタジアムジャンパー・白またはピンクのプリーツミニスカート姿。 「マリーンズダンスアカデミー」の校長を務めている。 ズーちゃん 3歳・マーくんの弟 前後逆に被った黒のキャップに灰色のパーカーと水色のハーフパンツ姿で左頬に絆創膏。 クール COOL をモチーフに(登場当初はビン底メガネ。 環境問題に関するレクチャーを行なう時には掛け替えたりもする)。 マリーンズ誕生後の、オリオンズのマスコットとなるべく川崎球場にやってきてしまい、チームを探して日本や世界中をあちこち探し回ってようやく千葉にたどり着いたという設定。 、謎の新マスコットとして突然デビュー。 に名前が正式発表される。 登場当初は「ビジターチームのファンを盛り上げる」ということで相手チームのビジターユニフォームを羽織り、レフトスタンドや三塁側スタンドに陣取ったビジターチームのファンを盛り上げていたが、のちに正マスコットの座を狙う「悪のマスコット」というポジションに変更された。 8月に環境大臣(当時)より「環境戦士」に任命され、「環境戦士COOL」として環境問題啓発活動も行っている。 4月にテーマ曲「COOLだぜ! 」(作詞・作曲・演奏 )が作られた。 (普通・8トン未満限定中型一種)を持っているらしく、マイクロカーの運転までしてのける。 2017年2月5日を持って、卒業 いずれも基本的にはしゃべらないが、キャラクターショーでは野球マスコットにしては珍しくしゃべる(声優不明)。 また、イベント限定キャラクターとして、まれにの「チャンスくん」(「コアラのマーチ」にちなむ。 謎の魚 2017年5月より登場した新キャラクター。 名前は「魚」としか表記されていない。 第一形態は魚にあんこうのような提灯が点いた姿でスコアボードのビジョンに登場、第二形態はチョウチンアンコウのような見た目に、スリムな足が生えるという奇抜な出で立ちで現実世界に登場、この独特な見た目が話題となり、のサイトでも紹介された。 そして6月11日、第三形態として中身の骨が飛び出るという衝撃的なパフォーマンスを行い話題を呼んだ。 この際は、再び第二形態に戻って退場している。 その後2018年6月12日には大型化した骨の頭に緑の足が生えた第四形態、6月26日にはチョウチンアンコウ型の頭に緑の手足が生え腹にホームユニフォームと背中に虹色の模様とひれをあしらった第五形態が登場した。 コスチュームの基本は上述の通りだが、夏には謎の魚を除く4人がを着たり、に・麦藁帽子姿になったりする。 過去のキャラクター• 初代は東京オリオンズ時代の「桃太郎(刀の代わりにバットを持っている)」である。 2代目マスコットはロッテオリオンズ時代の「風船ガム坊や(バブリー君という説もある)」である。 営業・ファンサービス [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年1月) が球団代表に就任し、が監督に復帰した以降、千葉マリンスタジアムの「ボールパーク化構想」が方針付けられ、積極的なファンサービスに尽力するようになった。 によりロッテが千葉を去る可能性が取りざたされたことをきっかけに地元行政側との協力関係が結ばれるようになると、地域密着型のファンサービスがより積極的に展開された。 の際にこれを見た前オーナーのは「これこそファンサービス」と感動したという。 また、の最寄り駅ののも2005年3月26日から「We Love Marines」に変更するなど、スタジアム周辺の随所で地域との共存がアピールされ続けている。 一連のファンサービス向上には、荒木重雄事業本部長(当時)の貢献が大きく、荒木の在任時には、「12球団の中でファンサービスが一番良いのはマリーンズ」と評されていた。 ボールパーク化構想 [ ] 「ボールパーク化構想」の最大の障害となっていたのは、球団側と行政側との溝であった。 千葉移転以降のロッテの観客動員数の伸び悩みや市の財政難などにより、千葉市など行政側は施設の改修や増設にあまり積極的ではなく、球団がファンサービスの企画を立案しても行政側が条例を盾に認可を渋るケースが多々あった。 また、千葉マリンスタジアムは球場内が千葉市、の一部である駐車場などの球場外の敷地が千葉県の管理となっていた。 そのため、過去には売店の設置やフェンスの企業広告掲出が一切出来ず、球団に収益が全く入らない状態だった。 2004年以降は県と市の協力を得てこれを改善し、スタジアム敷地内に売店や屋台等を設置したり、動物とふれあう場所を作ったり、スタジアム内でもフェンス広告の掲出を開始したり、スタンド内にベビーベッドが設けられるなどの展開があった。 では、ロッテとダイエーを合併して「福岡ロッテホークス」とする案が取り沙汰された。 ロッテが千葉を去る可能性から行政側には危機感が生まれ、県と市は条例の改正などで千葉マリンスタジアムの使用規制を大幅に緩和し、さらに2006年度からはを導入して、球団を千葉マリンスタジアムのに指名して運営を委託するなど、現在では球団と行政とが一体となって地域密着策を展開している。 プロ野球球団が本拠球場の指定管理者になるのは、ロッテが初のケースとなった。 この他には、が同年開場した本拠地のの指定管理者となった他、に定める「管理許可制度」の適用による運営体制を導入しているケースとしては、が2004年まで本拠地(2005年以後は準本拠地)としていたと、2005年以後のの本拠地のの例がある。 また、2016年には、管理許可のもとでを運営していたの株式会社横浜スタジアムを、がにより買収している。 360度全席自由席 [ ] ロッテはから「360度全席自由席」と銘打って、本拠地の千葉マリンスタジアムの場内全席を自由席としてチケットを均一料金に割り引くファンサービス企画を、毎年夏の2試合を対象に行っている。 そもそも、この全席自由席企画は2005年6月28日と6月29日に予定していた韓国での公式戦(対)が中止となったことから()、その代替企画として打ち出されたものである。 韓国での開催が中止となった2試合は千葉マリンで代替開催することになったものの、週末に比べて動員力の低い平日のナイトゲームで、更に韓国開催を前提にシーズンシートの契約対象外としていたことから、球団営業部はイベントの実施を決定した。 こうして立案されたのが「来場者に色々な席で、様々な角度からゲームを見てもらえるように」という発想からスタンドを全席自由席とし、入場料も大人1500円、子供500円の均一料金にするという、NPB12球団の一軍公式戦としては初の試みだった。 加えて当日の企画案を検討した結果「夏前のフェスティバルのノリで、のように盛り上がれる企画」という方向性が決まり、ビールを通常の半額(1杯300円、ソフトドリンクも200円に割り引き)で販売するなどのサービス実施を決定、企画タイトルは「360度ビアスタジアム」と銘打たれた。 結果、2日間とも通常の平日のナイターを大幅に上回る観客を集め、概ね好評だった。 「ビアスタジアム」は翌シーズンも6月27日の対日本ハム戦、8月30日の対ソフトバンク戦の2度実施され(ただしドリンク類はブースのみでの販売とし、売り子の巡回販売は行わず)、6月の試合では観衆の一人単位までの発表を開始してから当時最多の29,152人を記録した。 はイベントのアイディアを一般ファンから募集し、全席自由席企画を「応援スタジアム」と「ビアスタジアム」の2本立てとして実施することとなった。 まず「応援スタジアム」は7月3日の対オリックス戦で実施。 通常の外野スタンド右翼側だけでなく内野スタンド一塁側も応援席とし、イニング間には応援ボードコンテストなどを実施。 また、ゲストとしてを招聘するなど(一部)、さまざまな企画が行われた。 恒例となった「ビアスタジアム」は7月31日の対楽天戦で行われ、全席自由席企画では最多となる30,016人の観客を集めた。 この全席自由席企画においては、スタンド内を全席自由とすることによって観客の動向が通常時と大きく異なることから、球団営業部では開催当日の場内を細やかにリサーチしている。 調査項目は「スタンドのどの席にニーズがあるのか」「どのような観戦スタイルをしているか」など細部にわたっており、調査結果は今後のファンサービスや座席設定など、球団の営業戦略に反映されている。 マリンスタジアム場内に設けられている特別シートは、この企画を実施する際の対応が異なっている。 一・三塁側のファウルエリアに設けられた「フィールドウィング・シート」のチケットを希望する場合は、あらかじめ前売入場券を購入した上で抽選に申し込む必要があり、当選者に限り座席指定券が発行される。 また内野1階席三塁側の「ピクニックボックス」のチケットを希望する場合も抽選に申し込む必要があり、当選者に限りチケットが販売される(販売価格は通常の15000円が7500円となる。 定員5名であるため、1人換算1500円)。 この措置は観客の安全性を確保する上で、両座席については規定の定員を遵守しなければならないため「指定席」の扱いとなることによるもので、これら抽選の申込受付はマリーンズオンラインチケットショップで開催日の3週間前に行われる。 但し、ネット裏のプレスブースに隣接する「マリーンズ・プレスシート」は座席設定・価格とも対象外で、通常時と同じ設定となっている。 その他の営業・ファンサービス [ ]• 夏休み期間中(7月下旬 - 8月いっぱい)の千葉マリンでの公式戦は全試合ナイター開催で、5回終了後にが打ち上げられる。 そのうちの1試合で開催される「花火ナイター」は毎年恒例となっている。 2007年度は平日のナイターは18時15分開始、週末は18時からの開始となっていた。 2009年度は金曜日以外の平日は18時15分、金曜ナイターのみ週末の初日で多くのファンを確保したいという観点で18時30分の開始 となった。 また、週末開催のナイターは土曜日のみ18時からは変わらないが、日曜日は薄暮デーゲームとして17時から行う。 また、この時期になるとである(・ ・)の車両で「花火ナイター号」が運行される。 は一部の例外(ロッテOBによるものなど)を除いてプレーボール直前ではなく、野手が守備位置につく前に行われる。 チームがホームゲームやイベントなどでパフォーマンスを行う。 2005年、東北楽天ゴールデンイーグルスが「スタメンに次ぐ控え選手の一人」として、背番号10をファンのための欠番にしたことが話題になったが、それに先駆けてマリーンズでは、ファンを「一軍の25人に次ぐ26番目の選手」として背番号26を欠番とした。 元々サッカーでは同様の理由で12番を欠番にしたり、サポーターが「12」という大きな横断幕を作っているが、マリーンズファンもそれに倣ってライトスタンドを覆う「26」をモチーフとしたデザインのビッグフラッグと呼ばれる大横断幕を試合開始前に広げるパフォーマンスを背番号26が欠番になる前から行っている。 スタジアム前の6冠記念モニュメントにも2005年当時の監督と選手のサイン付き手形レリーフと共にユニフォームマークの形でプレートが嵌め込まれている。 過去にはホーム戦でのラッキー7の攻撃前に「」が演奏されていた(現在は「」)。 地元千葉県のであるが、同球団およびファンクラブTEAM26のスポンサーになっている。 2004年4月からは毎年、同球団の成績により金利が変動する(通常金利に0. 026パーセント加算、リーグ優勝で0. 26パーセント加算)「マリーンズ応援団」を販売している。 2010年、2013年のでは全試合において千葉マリンスタジアムでが行われた。 入場無料ながら特別ゲストにを迎えたほか球団マスコットも総動員されるなど通常の試合以上のような盛り上がりを見せ、千葉市市長のも応援に駆け付けたほか、日本シリーズ進出が決まった試合では内野1、2階席が解放され約1万3000人の観客が訪れた。 2013年から交流戦では他球団を挑発するポスターが毎年制作されている。 2015年のクライマックスシリーズ時には対戦相手のファイターズとホークスに対する挑発ポスターを制作した。 結果はファーストステージでは2勝1敗でファイターズを下したものの、ファイナルステージではホークスに3連敗(アドバンゲージ1勝を除く)し終戦。 ポスター内にあったを意味する「二度ある事は三度ある」を達成することはできなかった。 2016年のクライマックスシリーズ時にはファイナルステージに進出した際に対戦相手のファイターズ対する挑発ポスターを制作したが、結果はファーストステージで2敗で敗れ、一時はお蔵入りの危機に瀕していたが、「来季は大谷投手に勝る存在感で優勝して欲しいとの思いから、あえて公開しました」という理由で2016年12月5日に公開された。 内容は「二刀流対伊東(いっとう)流」である。 2016年4月29日に開催された対北海道日本ハムファイターズ戦では、隣接するで同日開催された「」とタイアップ、『超野球』と題して当日のニコニコ超会議入場券所持者は特別に用意された「超野球観戦シート」にて入場無料で観戦できるようにした。 また当日は、7回裏直前にフィールド内での片づけ作業体験や、球場内で来場者が生放送配信できる「超野球ユーザー生放送」などの企画も合わせて実施された。 12球団の中では禁煙に積極的に取り組んでおり、2019年7月26日から本拠地ZOZOマリンスタジアムの喫煙所を専用に切り替え、の全面禁煙に踏み切った。 また、2020年シーズンからは選手・コーチ・球団職員も含めた全スタッフに対し、勤務時間中の禁煙が発表された。 公式ファンクラブ『TEAM26』 [ ] 球団公式ファンクラブ『 TEAM26』があり、プレミアムゴールド・ゴールド・レギュラー・カジュアルレギュラー・ジュニア(いずれも有料)・マリーンズ(無料)の6コースがある。 前売りチケットやグッズの購入で Mポイントを貯めることが出来る。 2010年度(2011年1月31日)までの「 TEAM26」会員証はとの提携による機能搭載のカード一体型だった。 独立リーグへの派遣構想(2007年) [ ] 10月1日のプロ野球運営実行委員会で、球団社長(当時)のは、5 - 8人程度のを獲得した上で、である四国アイランドリーグ(現:)のに派遣する構想を表明した。 当日の委員会では結論が出ず、継続審議の扱いになった。 一部球団からは「の混成チームであるフューチャーズの活用が先ではないか」といった意見が出された。 その後、社会人野球側から「育成選手制度の本来の趣旨と異なる」という指摘がなされ、内部の他に社会人野球側とも調整が必要な状況となった。 2007年11月6日のプロ野球運営実行委員会でも合意には至らず継続審議となったが、次回の委員会の前にドラフト会議を迎えるため、来季の派遣については困難という報道がなされた。 2007年のドラフト会議で獲得した育成選手5名(、、、、)は、支配下登録を受けた1名(宮本)を除き2009年のシーズン終了後にを受けて退団。 このうち、アイランドリーグから指名された小林は同リーグに所属していたへ入団し、白川と大谷は徳島へ入団した(池田は引退)。 約4年半が経過した3月1日にNPB実行委員会が、育成選手に限り四国アイランドリーグplusとへ選手の派遣を認めた。 ただし、ロッテはこの制度による選手派遣を実施していない(2016年現在、派遣実績がある球団は・・・・)。 3月にベースボール・チャレンジ・リーグのと業務提携を行い、ロッテ球団職員のがトレーニングコーチとして派遣されることになった。 ユニフォームの変遷 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年1月) 東京・仙台・川崎時代 [ ] 毎日時代 [ ]• (シーズン開幕前) - 練習用(プロトタイプ)として、白を基調としたものとグレーを基調としたものを使用した。 白地・濃紺ツバの帽子、白地のシャツ・パンツ(ズボン)、濃紺のアンダーシャツ。 シャツには「Mainichi」の胸マーク(筆記体)が入った。 濃紺地の帽子、グレー地のシャツ・パンツ、濃紺のアンダーシャツ。 シャツには「Mainichi」の胸マーク(筆記体)、左袖に毎日新聞社社旗を流用したデザイン(赤い社章と二本線)が使われた。 胸マークについては、発行の書籍『プロ野球ユニフォーム物語』(著:・絵:綿谷寛)では、赤となっているジン着写真(当時発売されたブロマイド)が掲載されているが、著者の綱島は「胸マークには赤は無かったとも思われる」として、綱島が推定した上で濃紺に塗り変えた写真も一緒に掲載している。 1950年 - - ホーム用は当時のニューヨーク・ヤンキース、ビジター用は当時のをイメージして作られた。 1950年シーズン途中から左袖には毎日新聞社の社章に代わりトリコロールのワッペンが付いた(からはの枝と「1950」(優勝年)の金糸文字が入った。 シーズン途中からはを起こした責任を取る形で廃止したが、には「Orions」ロゴが入る形で復活)。 シャツ・パンツは、白地に濃紺縦じま(ホーム用)、グレー地(ビジター用)。 アンダーシャツは、濃紺。 胸マークは、ホーム用 - 左胸に「M」マーク(飾り文字書体。 濃紺・白縁取り)・ビジター用 - 「Mainichi」(筆記体。 )、「Orions」(セリフ風書体。 濃紺・白縁取り。 1950年シーズン後半より使用)。 帽子は濃紺地に白い「M」マークの入ったもの。 には、白地に濃紺縦じまに白「M」マーク・濃紺ツバの入ったもの(ホーム)、グレー地に白「M」マーク・濃紺ツバの入ったもの(ビジター)も使用された。 には、グレー地などを基調としながら、首周り・袖・ズボンサイドにラインが入ったビジター用を、には、「Orions」に代わり「TOKYO」の胸マーク(の「NEWYORK」に似た書体)が入り、ラインを外したビジター用をそれぞれ使用した。 - - 球団名が毎日大映オリオンズとなり、胸マークも「Orions」となるが毎日時代のスタイルを踏襲。 また、大映からゴシック体の番号フォントが継承された。 ビジター用は最初「DAIMAI」だったが、から「TOKYO」に変更される。 この間、が付く。 帽子マークは、1958年に「D」と「M」を重ねたマークが採用。 は左上よりに「D」右下よりに「M」の字を絡ませたマーク、その後、(「O」マーク)、(「T」と「O」を絡ませたようなマーク)に帽子マークの変更を行った(いずれも白色)。 ビジター用は最初上下グレー地だったが、1960年はブルーグレー地に白の縦じまが入ったものを使用。 翌年以降は再びグレー地となった。 - 赤色をふんだんに使ったホーム用ユニフォームが登場。 左袖のワッペンは小さくマイナーチェンジされたもの(「Orions」の文字なし)が使用されたが、シーズン途中のの対近鉄戦より左袖にペットマーク(バットを持ったのイラストが描かれたもの)がつく。 帽子マークは「T」(赤色・白縁取り)。 胸マーク・番号・ライン(首周り・袖・ズボンサイド) - 赤色・濃紺縁取り。 - - ホーム用がドジャース風(ただし、青ではなく紺を基調としており、胸マーク・背番号は赤、胸番号は紺)となり、縦縞が廃止される。 左袖には桃太郎のマークが形を変え引き継がれた。 当初首周り・袖・ズボンサイドに赤ラインがあったが翌年廃止され、さらにドジャースに近くなった。 このデザインはロッテになってからも引き継がれた。 帽子は、濃紺地に白文字の「T」。 ロッテ時代 [ ]• - - 株式会社が(1971年から正式な親会社)となり、球団名がロッテオリオンズに改称。 ホーム、ビジター用共胸番号が消え、赤の「 LOTTE」だけのシンプルものになり、「Orions」のロゴは左袖に移る(色は青)。 背番号(赤色)はオリジナル書体。 また帽子のマークがLとOとの組み合わせと星のマークがついたものになる。 - - の監督就任に伴い、ユニフォームを一新。 帽子・アンダーシャツが青から紺に代わる。 また、金田のアイデアを取り入れたニット素材の特徴を生かし、肩、袖、パンツからボディにかけて、両サイドを紺で挟む赤の太ラインが入る。 「LOTTE」の胸ロゴは紺色に赤の縁取りのゴシック体(背番号も同様)となり、「Orions」のロゴは消滅(基本ユニフォームとなるホーム用に企業名のみを表したということ)。 また、背番号の上に選手名が入り、胸番号が復活する(胸番号・選手名は紺)。 帽子のLOと星マークに、赤の縁取りが入る。 ホーム用はオフホワイト地。 ビジター用はスカイブルー地で、胸ロゴはホーム同様「LOTTE」。 翌より、胸ロゴ・背番号の色が赤色に紺の縁取りへ変更され、ボタンの素材が、白の2つ穴から透明4つ穴タイプに変わる。 より、スパイクの色が黒地に白ラインから白地に紺ラインに変わる。 より、ボタンの素材が透明からユニフォームの地色と同じ色に変わる。 金田監督より、ラインは生地の上に乗せるのではなく、生地と生地との間にはめ込むよう要望があり、当時の技術では非常に苦労したという。 千葉時代 [ ]• - - 本拠地がに移転し、球団名が「千葉ロッテマリーンズ」となり、初めてプルオーバー・タイプを採用。 サンライズ・ピンクとカレント・ブルー(ブルーグレー)で千葉県のイメージを前面に押し出した。 帽子は、黒色地に帽子マークはピンクの縁取りに黒文字でCLM(Chiba Lotte Marinesの略)で真ん中に波模様が入ったもの。 シャツ・パンツは、白(ホーム)、ブルーグレー(ビジター)をそれぞれ採用。 首周り・袖口には、黒・ピンクのライン(外側にピンク)が、ズボンサイドにはピンクを黒で挟んだラインが入る。 胸マークには「Marines」(筆記体)を、左袖にはホーム「CHIBA」ビジター「LOTTE」(親会社ロッテのロゴマーク)のマークをそれぞれ採用。 胸マーク・番号にはピンク・黒縁取り、左袖マーク・背ネームには黒を使用。 - - する事情から、の提案によりユニフォームを一新。 チームカラーを白と黒を基調にしたものになる。 毎日オリオンズ時代から東京時代まで使われていた縦縞が29年ぶりに復活し、を模したデザインになる。 さらに、当時球界で主流になりつつあったユニフォームのパンツ裾を足首まで下げるスタイルを、広岡GMが非常に嫌っていたため、オールドスタイルを実現すべく長めのストッキングを採用(上部に白いMマークのが入る)。 また、スパイクは黒地にホワイトのラインのものに変更。 - 夏季の週末のホームゲーム限定で白地に黒の「M」マークを入れた「サンデーキャップ」を採用。 (初登場は7月20日のダイエー18回戦。 - 夏季の週末のホームゲーム限定で「サマーユニフォーム」を採用。 日本では中日に次いで2チーム目の採用となるノースリーブでロゴはビジター用と同じ「Marines」。 キャップはつばの部分をグレーに変更。 - - ビジターでの負けが多いことから、上下グレーのビジター用ユニフォームを上が黒、下がグレーの新たなユニフォームに変更した(球団史上初の上下ツートンカラーのユニフォームである)。 ビジターゲームでマリーンズファンが「黒の軍団」と称されるのは、この頃からである。 - 2004年 - サードユニフォームとして上下グレーのビジターユニフォームが採用(翌年はセカンドビジターユニフォーム)。 このユニフォームは金曜日、土曜日、日曜日のビジターゲームに使われ、その他の曜日のビジターゲームでは黒い上着のユニフォームが使われた。 おおむね、同時期ののビジターユニフォームに、既存のロッテのユニフォームのマーク・背番号を張り替えたようなデザインだった(ただし、ラインは阪神と違い白に黒を挟んだものであり、阪神のそれと比べ細かった)。 - - 復帰したバレンタイン監督の提案で、上記のホーム用ユニフォームにプラスする形で、黒いダンダラ帯のはいったサンデーユニフォームが登場。 初年度は縦縞の入ったホーム用の白パンツとの組み合わせだったが、翌年から法被に合わせてデザインされた新たな白パンツが登場した。 よりユニフォームの名称を変更し、法被と白パンツを組み合わせたものを「 誠(まこと)」、法被と黒パンツの組み合わせを「 侍(さむらい)」、それまで使われてきた上下縦縞を「 戦(いくさ)」とした。 また、上下グレーのセカンドビジターユニフォームは廃止され、ビジター用のユニフォームは1種類のみとなった。 パンツも「誠」と同じものへ変更。 「戦」以外のホーム時やビジターでは、帽子のツバには濃いピンクと白のギザギザがデザインされ、Mの文字にはピンクのシャドウが入ったものを使用。 ホームゲームでどのユニフォームを着るかは、メジャーと同じく先発投手が自由に選んで決められる方式にした。 (基本的に連勝中は縁起担ぎで変えた投手はいなかった)この年の後半にはいい状態でチーム状態が継続していたため、普段は「戦」を選択するさえ縁起担ぎで「誠」を使用。 ポストシーズン(・・)のホームゲームでは「誠」で戦い全勝した。 しかし、「戦」「誠」が選手に受け入れられたのに対し、「侍」は「格好が悪い」ために選手から敬遠されていた。 実際、2005年に公式戦で「侍」が着用されたのはホームゲーム連敗中のの対戦の1回だけで、先発のがこのユニフォームを選択したが、その試合は3-11と大敗。 その後「縁起が悪い」と敬遠されたのか、「侍」を選択した先発投手はいなかった。 - - 2005年のアジアシリーズ制覇を記念したチャンピオンエンブレムが袖に入る。 図案は「CHIBA LOTTE MARINES」の白文字入り黒リングで囲まれたボールを背景に「05 Marines ASIA」の文字、「CHAMPIONS」の白文字が入った赤リボン、最下部に6冠を表す銀の六連星。 - - 社がオフィシャルサプライヤー契約を締結、デザインをマイナーチェンジ。 チームカラーを「白、黒、赤」とし、ホーム用は従来のストライプタイプ「戦」と、「誠」の袖のダンダラ帯と胸ラインを赤色にした2タイプがある。 ビジター用は黒を基調とし、上から下へ向かって黒から白へと徐々にグラデーションしたもの(日本プロ野球史上初のデザイン)である。 またビジター用ユニフォームには右胸に球団ペットマークが浮き上がって出るようにあしらわれている。 「戦」以外は、背番号の書体も丸い斜体文字へ変更されている(ホーム用「誠」は赤、ビジター用は黒)。 - ロッテのプロ野球参入40周年を記念した「ORIONS-MARINES 40th ANNIVERSARY」エンブレムが袖に入る。 - - バレンタイン監督の退任に伴い、「戦」以外のユニフォームのデザインが変更(各ユニフォームのニックネームも廃止)。 チームカラーの一つとされていた赤が消えた。 ビジター用はグラデーションを廃止し、黒地に白のカットラインが入る。 サードユニフォームはラグランスリーブ部に黒を配した。 ビジターとサードにはそれぞれ右袖には2段組みで「CHIBA LOTTE」の文字が入る(ホームは今までどおり「LOTTE」のみ)。 帽子は従来の黒帽子で統一された。 右袖に2006年から付けられていたアジアシリーズチャンピオンエンブレムが廃止。 右胸のワッペンスポンサーがからに変わる。 なお、サードユニフォームが使われたのは、2010年は4月25日、6月30日、8月1日の3試合(対戦相手はいずれもソフトバンク)、2011年は6月8日の阪神タイガース戦の1試合、2012年は7月16日、17日の楽天戦の2試合のみであった。 2013年は、後述の2012年の限定ユニフォームがサードユニフォームとして着用された。 - 現在 - ホーム、ビジター共に新素材を使いユニフォームを軽量化。 また、ビジターユニフォームはデザインを変更し、「闘志あふれる勝利への執念」を表している。 前年まで使用したユニフォームと同様に黒地に白のカットラインが入る。 胸ロゴが「Marines」 胸ロゴ・胸番号・背番号共に白字で赤で縁取り 、背ネームは白字。 両袖に赤のライン、左袖に丸にカモメのロゴマークが入る。 なお、ビジターユニフォームには2段組の「CHIBA LOTTE」の文字はなし。 ズボンはグレーで、サイドの腰から膝までの部分のみ赤のラインが入る。 帽子は黒でロゴが「M」 白字で赤で縁取り 、ツバの縁が赤。 また、ホーム、ビジター共にズボンにの広告が入る。 ホーム用は帽子が前年まで使用していたもので、つばのふちが白。 - このシーズンよりキャップへの広告表示が認められ、キャップ左即部にの広告が入る。 - このシーズンよりサプライヤーがデサントからに変更される。 大きなデザインの変更はないが、刺繍から昇華プリントに変更され軽量化が図られた他、選手名・背番号の字体などが変更される。 広告はキャップ左即部が、右胸のワッペンが、ズボンがにそれぞれ変更。 - このシーズンよりビジター用のズボンがグレーから白に変更。 - サプライヤーがユニホームはに、キャップはに変更される '47がNPBのサプライヤーになるのは初めてとなる。 合わせて「PINSTRIPE PRIDE」というコンセプトの下、ビジターユニホームにもピンストライプを採用し、ビジターマリーンズの象徴である「ブラック」と掛け合わせることで強さと威厳、相手チームへの威圧感を兼ね備えたデザインに変更した。 キャップもビジター用は「M」が黒文字となっている。 限定ユニフォーム [ ]• - の2カードで、ロッテのプロ野球参入40周年記念として、オリオンズ時代のホーム用ユニフォーム(1991年まで使用)を復刻した。 「 1」の書体については、当時のものは左上が欠けていたが、復刻版は欠けていない書体(カギカッコのような書体)を使用した。 - のオリックス戦で、前年に続いてロッテのプロ野球参入40周年記念として、オリオンズ時代の1972年まで使用されたホーム用ユニフォームを復刻した。 、千葉移転20周年を記念してホームゲーム限定で、1992年から1994年までのホームユニフォームを復刻使用している。 上記の2008年のユニフォーム同様、「 1」の書体については欠けていない書体(カギカッコのような書体)を使用した。 、パ・リーグ共同企画「」の一環で、オリオンズ時代の1991年まで使用されたビジター用ユニホームを復刻。 ただし、復刻ユニフォームの右胸には、パンツ左側にはの広告が付く。 "ALL for CHIBA"シリーズ [ ] 2012年の千葉移転20周年記念イベントをきっかけに、胸に「Chiba」のロゴが入れられた特別ユニフォームを着用し千葉県への感謝と千葉県と共に戦う思いを表現した特別試合企画。 なお、マリーンズのユニホームに「CHIBA」のロゴが入ったのは1992年の移転後初。 一軍の公式戦数試合で着用するほか、二軍の公式戦でも数試合限定で着用。 2013年から2015年は「埼玉VS千葉シリーズ」ででも着用された。 2015年は4月の3連戦においてでも着用されている。 千葉県公式マスコットキャラクターのの赤・移転当時のユニフォームのサンライズピンクを掛け合わせた「サンライズレッド」をメインカラーとした「新・CHIBAユニフォーム」を着用。 胸には球団ロゴを模した「Chiba」ロゴが表記され、胸番号・背番号・選手名ロゴはマリンフェスタユニフォーム(後述)と同様。 ビジターユニフォームと同じ形の黒いカットラインが入る。 - 、「CHIBAユニホーム」をマイナーチェンジ。 胸番号・背番号・選手名ロゴは、同時にマイナーチェンジされたホーム・ビジター用と同様のタイプに変更。 前年と同様に「サンライズレッド」をメインカラーとしており、両肩から脇の部分に黒の太いラインが入っている。 さらに、キャップ、パンツの裾部分に赤いドット調をあしらうことで波しぶきを新たに表現したことが大きな特徴。 右袖に本拠地・ZOZOマリンスタジアムのある千葉市、秋季キャンプ地である鴨川市のほか、県内での2軍試合を開催する8都市、合計10都市の名前入りロゴを試合別で掲出する。 翌は2軍試合開催地が1都市増加し、合計11都市を掲出。 、ZOZOTOWNプロデュースによるデザインを採用。 サンライズレッド地にチーム名の頭文字であるMとチームの象徴であるカモメを表す黒い縁取りに白のM字型のパターンをユニフォーム全体にあしらい千葉が一丸となり未来に向かい羽ばたく思いを表現するものとした。 マリンフェスタ [ ] 「月1回のファン感謝デー」をテーマに、毎月1試合で特別ユニフォームを着用して試合を行い、さらに試合の前後に選手がトークショーやサイン会などのファンサービスを行うイベント。 なお、シーズン後に開催されるファン感謝デーは「スーパーマリンフェスタ」と題し、その年に使用された特別ユニフォームを着用する。 :「若手の多いチームの持つ元気さ爽やかさ」「ロッテの本拠地・QVCマリンフィールドのある千葉・幕張の海のイメージ」を表現した「マリンブルー」をメインカラーに使用した限定ユニフォームを着用。 胸ロゴは「Marines」で、胸番号・背番号・選手名ロゴはホーム・ビジター用とは異なる字体を採用。 脇から袖の部分に黒いラインが入る。 :前年同様の2コンセプトに加え、「海の上に広がる空」をイメージした青と白色を基調とし裾に向かって薄くなるグラデーションタイプのユニホームを使用。 なお、ロッテがグラデーションタイプのユニホームを採用するのは、2008〜2009年に使用されたビジターユニホーム以来となる。 ビジターユニフォームと同じ形の黒いカットラインが入る。 :胸の「Marines」ロゴは海をイメージした青い迷彩柄の中に白いカモメのイラストをデザイン。 また、同年の「CHIBAユニフォーム」と同様、キャップ、パンツの裾部分に青いドット調をあしらうことで波しぶきを新たに表現している。 「CHIBAユニフォーム」と共に、胸番号・背番号・選手名ロゴは、同時にマイナーチェンジされたホーム・ビジター用と同様のタイプに変更。 :井口資仁監督就任1年目から「波に乗り」「ウェーブ」を巻き起こすという気持ちを込めて、力強い波をベースにチームの象徴であるカモメを全体にあしらったデザイン。 胸の「MARINES」ロゴは前年までと異なって全て大文字となり、ロッテオリオンズ誕生50年目のシーズンを記念して、1969年にロッテオリオンズとして最初に登場したユニフォームのアーチ型ロゴをモチーフとしたデザインに変更。 :本拠地ZOZOマリンスタジアムをイメージした淡いブルーを基調に、白のストライプを球団の象徴として採用しストライプの細部に数多くのカモメを入れたデザインとし、背ネームには親近感を高めるべくニックネームを表記する。 :本拠地ZOZOマリンスタジアムをイメージしたブルー色にチームカラーであるホワイトを合わせ爽やかな幕張の海と青空を表現したものとし、背ネームのニックネームは一般から公募した。 先祖帰りのユニフォーム [ ] 「千葉ロッテマリーンズ」となった、広告代理店のがデザインを担当し、「今までのプロ野球にない色使い」を重視し、チームのイメージカラーとしてピンクが採用された。 球団旗・ペットマーク・ユニフォームにピンク色は採用され、明るいパステル調のこのピンクは「サンライズ・ピンク」と名付けられ、「陽気さ・親しみやすさ・楽しさを表し、未来へと広がる千葉のイメージをも表している」と説明された。 またビジター用ユニフォームの地色となった水色も「カレントブルー」と名付けられ、「沖合におけるとのぶつかり合い」と定義付けられた。 なおOBのが2018年に『』のインタビューに語った内容によると、初代ユニフォームの選定段階ではいくつかのカラーパターンが選手側に提示され、その中でエメラルドグリーンが一番人気を集めたという。 しかし結果的にはオーナー代行のの鶴の一声でピンクに決まり選手は一様に落胆した、と振り返っている。 ところが、に監督に就任したはピンクの「Marines」ロゴが入ったユニフォームを「戦う者の着るユニフォームではない」と批判。 全体的に毎日創立時のデザインと似通っていたため、「先祖がえりともいわれ、多くのファンに歓迎された。 」と、の書籍『プロ野球ユニフォーム物語』に、先述の変更へのいきさつとともに記述されている。 ただし、小宮山悟が前述のインタビューに語った内容によると、上記の批判をしたのはバレンタインではなくであるという。 その他 [ ] には、通常のホームユニフォームをノースリーブとしたノースリーブユニフォームを夏季に使用した。 - の日本ハム戦()で、日本ハムがブラックを基調とした特別ユニフォームを着用するのに伴い、普段のブラックのビジター用ユニフォームではなく、ホーム用のストライプユニフォームを着用。 2017年は宮城球場で東北楽天が黒のユニホームを着用するのに伴い、通常のホームユニホームを着用した。 「ブラックブラックナイト」と呼ばれる、ホームの試合で普段のホーム用のストライプユニフォームではなくビジター用ユニフォームを着用する試合を毎年1試合程度行っている。 例外としては2試合(4月4日と7月31日で、対戦相手は両日ともに同じ戦であった)。 ・の対戦相手だったはビジター用ユニホームがマリーンズのそれと同じ配色だった為、ホーム用ユニホームでプレイしている。 MAKUHARI SUMMER STADIUM 2018年 - にかけてのホーム7試合・ビジター6試合にて、オーストラリアのサーフブランド・ビラボン()によるをモチーフとしたボタニタル柄デザインのユニフォームを着用。 2019年7月7日 - 8月12日にかけてのホーム7試合・ビジター6試合にて、ビラボンによるハワイをテーマに「TRADEWINDS(貿易風)」のコンセプトで貿易風がもたらす自然や文化をヴィンテージ風に表したデザインのユニフォームを着用。 球団旗の変遷 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年1月)• 中央の白の部分に黒文字で「Orions」とロゴが染め抜かれた。 その後も3回の球団名変更後もそのまま使用される。 ちなみに、このトリコロールは当時の親会社・のグループ企業にも波及しておりやのにも採用されている(但し、両社とも上部は赤ではなく濃い橙色)。 1971年 - 1991年 - ロッテが正式な親会社となるが、球団名は変わらなかった。 おおまかなデザインはそのままだが中央の「Orions」の左に赤文字で「LOTTE」のロゴが入る。 1992年 - 1994年 - 球団名が千葉ロッテマリーンズとなる。 白地にマリーンズのロゴ(MARINESが筆記体で描かれており、その下にCHIBA・LOTTEの文字)、そして下の部分は当時のユニフォームの基調の色にも採用された「サンライズピンク」と「カレントブルー」のツートンライン。 「千葉沖の海流のぶつかり合い」をイメージ。 1995年 - 現在 - シルバーを地色に、上に黒文字で小さく「CHIBA LOTTE」、その下に大きく「Marines」ロゴ。 右斜め上に球団のマスコットにも使われているカモメを1羽。 マリーンズファンと応援スタイル [ ] 詳細は「」を参照 スポンサー [ ]• ユニフォーム右袖 (1992年度 - ビジター用ユニは1992年度 - 2013年度、2019年度 - )• ユニフォーム右胸 (2017年度 - )• パンツ右側 (2018年度 - )• ヘルメット 、• キャップ左側 (2016年度 - ) 歴代本拠地 [ ]• 1978年 - 1991年• シーズンはをに置き、宮城球場と首都圏の他球団本拠地などで主催公式戦を行った(このため名目上のとしての届け出はこの年できなかった)。 同年12月21日の実行委員会で翌から暫定的に保護地域をに移転することが決まり、1974年からの間は同県を保護地域とした。 しかし球団事務所は従来と同じく東京都に置き、試合の開催方法も1973年とほぼ同様だった。 1953年 : (登録上は1950年 - 1952年も監督 )• 1954年 - 1959年 :• 1960年 :• 1961年 - 1962年 :• 1963年 - 1965年 :• 1966年 :• 1967年 :• 1967年 - 1971年 :• 1971年 - 1972年 :• 1979年 - 1981年 :• 1982年 - 1983年 :• 1984年 - 1986年 :• 1987年 - 1989年 :• 1990年 - 1991年 : 金田正一(第2次)• 1992年 - 1994年 :• 1995年 : (第1次)• 1996年 :• 1997年 - 1998年 :• 1999年 - 2003年 :• 2013年 - 2017年:• 2018年 - :• 1952年は7月27日まで指揮、残り試合は別当薫が代行。 実際の指揮は総監督の湯浅が執っており、公式記録上も湯浅が監督として扱われている。 1952年は7月27日までで辞任。 ここから毎日大映オリオンズ• ここから東京オリオンズ• ここからロッテオリオンズ• 1975年は4月22日まで指揮、5月6日に復帰するまではが代行。 1990年は6月23日まで指揮、7月27日に復帰するまではが代行。 ここから千葉ロッテマリーンズ• 1994年は7月31日まで指揮、残り試合はが代行。 レギュラーシーズン2位からプレーオフを制してパリーグ1位• 優勝は達成無し、クライマックスシリーズを制して日本一を達成。 永久欠番 [ ] マリーンズファンの背番号26• 26 (2005年 - )- 千葉ロッテマリーンズは度以降、26をの10番同様にファンのための欠番としている(25人に次ぐ「26番目の戦士」の意)。 最後に26を付けた選手は(2003年 - 2004年)。 試合中はダッグアウトの壁に、個人ネームがなく背番号26だけが付いたユニフォームシャツがハンガーで掛けられており、試合に勝った時には、ヒーローインタビューを受けた選手が、ファンへの感謝を込めてそのユニフォームをファンの前に掲げる(マスコットのマーくんが掲げることもある)。 2006年からはこれにちなみ、ファンクラブ制度を大幅にリニューアル、 TEAM26と命名する。 準永久欠番• 8 (1987年 - 1991年)- 現役引退後欠番となっていたが、1992年の千葉移転後、が付けたことで欠番ではなくなる。 後に(1994年 - 1996年)、(1997年 - 2002年)、(2003年 - 2004年)、(2005年 - 2015年)が付けていた。 2017年からはが付けている。 俗に「ミスターマリーンズ」と称される背番号である。 沢村栄治賞受賞者 [ ] 時点の12球団ではのみ未選出である。 主な歴代の球団歌・応援歌 [ ]• 戦う男達のテーマ()• (毎日球団の歌)• われらロッテ親衛隊• オリオンズ! マリンに集う我ら 2010年に作られ、当時のでの試合開始前に流れていたが、2011年3月に球場名がQVCマリンフィールドに変わったため使われることが少なくなっていたが、同年7月に復活し、2012年から2014年は7回裏攻撃前に流れ、2015年は試合開始前、2016年は5回終了後とビジターユニで開催時の試合開始前に流れ なお、2017、2018年も 、2018年以降は9回終了後の延長戦入る前に流れるほか、2019年は試合終了後に勝利した場合に流れる。 マリンフィールドの風• 千葉、心つなげよう• ONE HEART MARINES 主なキャンプ地 [ ]• ほか( - 、 - )• ・( - )• ・( - )• ( - 、春季キャンプ)• (秋季キャンプ)• (二軍春季キャンプ) 主なトピック [ ] 最長試合 [ ] 、での戦の第2試合は試合時間が5時間15分(4-4のまま決着付かず延長13回、当時の規則に基づき時間切れ引き分け)となり、当時の最長試合時間となった。 5時間超えは当時の日本プロ野球史上初の出来事でもあった。 その後、この日本最長記録は更新(全て、または)されているが、、での戦では、セ・パ交流戦を除いたパ・リーグの公式戦では当時歴代最長となる延長12回、5時間42分を戦い9-8で勝利した。 また、ポストシーズンではの、でのとの第1戦では9回の最長試合時間記録である5時間17分を戦い4-4の引き分けに終わった。 の、でのとの第6戦では延長15回、5時間43分を戦い、2-2で引き分け、日本シリーズにおける歴代最長試合時間記録を35年ぶりに塗り替えている。 幻の合併計画 [ ] 現在の千葉ロッテマリーンズの前身である毎日オリオンズは1949年に創設され、1957年にと合併し、その後経営権の移転や改称などを経て現在に至るが、同年以降、プロ野球再編に絡むなどして球団合併構想に巻き込まれたことが2度ある。 1973年、日拓との合併構想 、ロッテオリオンズは最初のシーズンを終えた。 一方、ロッテと同じく東京都を保護地域としていたはオーナー企業の経営難等により、同年に球団の経営権がからに譲渡され「日拓ホームフライヤーズ」に改称したが、同年もパ・リーグは観客動員の面では苦戦を強いられた(ただ同年、ロッテはパ史上最多の観客動員を記録している)うえ、プレーオフを制して日本シリーズに進出したも(巨人)の前に1勝4敗で散り、巨人のを許した。 この当時の状況に、日拓のオーナー・西村昭孝はシーズン終了後「パ・リーグに将来性はない」と判断、日拓とロッテを合併し、さらに1リーグ制への移行を画策し始めた。 前述の通り、当時ロッテはジプシー生活を強いられていたため首都圏で常時主催試合を開催できる環境を求めていた。 またロッテのオーナー・も球団経営にあまり執心がないと憶測されたことから、合併調印は時間の問題といわれていた。 さらには関西でも球団合併構想が取り沙汰され、「10球団1リーグ化へ」などと先走った報道もなされた。 しかし重光はこの合併を否定。 結局、合併そのものもほどなく破談となり、球界に嫌気がさした西村は球団経営権をに売却、事態は収束した(この一連の詳細はを参照)。 2004年の球界再編問題 またには、とオリックス・ブルーウェーブの合併構想に端を発し、1リーグ制移行に加え、球団数が奇数となるためさらなる球団数削減が取り沙汰される再編問題が勃発した(詳細はを参照)。 この過程でロッテは、当時親会社の経営難から球団の維持が困難といわれていた福岡ダイエーホークスに合併を申し入れたことが判明。 オーナー企業はロッテ、本拠地は、二軍の本拠地に千葉マリンスタジアムとし、球団名は「福岡ロッテ・ホークス」とするなど、具体案についても報じられたが、結局実現には至らなかった。 また、ロッテとを合併して、「ロッテライオンズ」、と合併して「ロッテスワローズ」とする構想もあったが 、これも西武とヤクルトが単独での球団保有を表明したため実現しなかった。 結局同年オフ、ダイエーはの支援を受けて経営再建を図ることとなり 、ホークスはに売却されてとなった。 ロッテ本社は1971年から球団を保有しており(としては1969年から)、2012年現在パ・リーグの現存6球団の中では最も古くから経営権を所有している。 なお福岡移転問題はこれが最初ではなく、川崎球場時代の1984年に稲尾和久が監督に就任した際、への移転の実現を前提として就任を受諾したとされているが、このときも本拠地の移転は実現しなかった。 ライオンズとの遺恨 [ ] 詳細は「」を参照 幻となったダイエーへの球団売却構想 [ ] ロッテは1980年代後半に当時のオリオンズ球団の身売りを検討した事がある。 1987年に2年前(1985年)の優勝を機にプロ野球の球団経営に興味を持っていた流通大手のダイエーに接触。 ロッテとダイエー両社による会談に加え、行政への根回し、ダイエー各店舗におけるロッテ商品取扱を増やす、更にはまたは(後者への移転が有力視されていたが、福岡移転計画浮上時でも前者もサブフランチャイズとして検討された)への本拠地移転も検討するなど、オリオンズ球団の売却は確実の段階にまで来ていたものの、合意寸前でロッテが球団保有を継続して別の本拠地に移転する方針に変更したため、ロッテの売却は中止となり、福岡移転・神戸サブフランチャイズ化は実現されなかった。 しかし、ロッテの球団売却中止の直前に、他企業へのホークス球団譲渡を模索していたでは、ダイエーが球界参入を検討しているという情報を得ると、同社とダイエー両社のメインバンクだった(現・)に仲介を依頼。 その結果、ダイエー社長のは買収先をロッテオリオンズより変更して南海ホークスの買収を決断。 オリオンズに変わってホークスが福岡に移転する形でダイエー念願の球団保有が実現した。 悪夢の18連敗 [ ] 「」も参照 、6月13日から7月8日までの19試合で、日本プロ野球ワースト新記録となる18連敗(途中1引き分けを挟む)を喫した。 球団公式サイトのチームヒストリーでも「 悪夢の18連敗」と記されている。 開幕戦となったの1回戦は1-3で敗れ楽天に球団初白星を献上。 だが翌の2回戦はロッテが一方的にゲームを展開し、26-0で圧勝した。 打っては楽天の6投手から24安打14四死球をマークし、とりわけ2回には10者連続得点を含んで一挙11点を挙げるなど終始攻撃の手を緩めず、守っては先発のが相手打線を1安打1四球に抑え込んだ上、その許した走者をいずれも併殺で退け、結局打者27人で完封勝利を記録した。 26点差での完封勝利は、のグラウンドでの公式戦でがを相手に同じく26-0で大勝して以来、完封試合では実に59年ぶりとなる日本プロ野球史上最多得点及び得点差のタイ記録で、2リーグ分立後初の快挙となった。 また、1試合最多得点の球団記録も、毎日時代のに対戦で記録した23得点を55年ぶりに更新した。 1 2 3 4 5 6 7 8 9 計 楽天 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ロッテ 2 11 1 0 1 4 0 7 x 26 韓国での公式戦開催構想 [ ] ロッテと福岡ダイエーホークス(当時)は日本プロ野球の東アジアでの市場拡大を視野に、2004年シーズン中からとでの公式戦開催について検討を行ってきた。 その結果、翌2005年シーズンの6月28日と29日の2日間、日本プロ野球史上2度目となる日本国外での公式戦として韓国での開催が決定。 カードはロッテ主催の対ソフトバンク2連戦とし、の、ので各1試合を開催する予定だった。 しかし、首都のソウルでの試合が予定されていた蚕室野球場での開催が困難となり(韓国プロ野球のとの2チームが本拠地として使う球場のため、全く空き日がない)、代替としてソウルの衛星都市であるのでの開催に変更したものの、当時の韓国プロ野球人気の低迷から採算が取れないと判断され、開催は断念せざるを得なくなった。 だが、この開催中止がきっかけとなり、同年夏に新たなファンサービス企画「360度全席自由席」が生まれることとなる(詳細は)。 1イニング最多記録を7つ樹立 [ ] ロッテはの対4回戦(千葉マリン)で、6回裏に延べ20人の猛攻で15点を挙げ、チーム1イニングの攻撃に関する7つのプロ野球記録(チーム記録6、個人記録1)を樹立した(以下の 太字は新記録及びタイ記録)。 1イニング12安打は史上2位タイで、最多記録に1本及ばなかったものの打者2巡・ 1イニング打者20人はこれまでの18人を更新する新記録。 1イニング15得点、 1イニング15打点も、過去にセ・リーグで通算4回記録された13得点・13打点を上回った。 打者3人目のから15人目のまで3四死球を挟んで記録した 10打数連続安打は、通算3回目となる当時の最多連続タイ記録。 加えて里崎の後にはとも死球と失策で出塁し、過去の13者連続を更新する 15者連続出塁の新記録(失策による出塁を含む参考記録)。 さらにこの間、井口からランビンまで記録した 14連続得点も、にが対21回戦()で記録した12連続を17年ぶりに更新する新記録となった。 また、この回先頭のは2打席目に代走を送られたが、続くが日本プロ野球史上初の 1イニング3打席を記録した。 だが、2打席目で2点適時二塁打を放ったものの1打席目と3打席目では凡打に倒れた。 大松は試合後、「不思議な感じですね。 自分はアウトを2つ取られた。 損したのか得したのか分からないです」と苦笑いしていた。 結局、ロッテの6回裏の攻撃は約48分にも及び、試合は23-2でロッテが圧勝した。 ロッテが挙げた23得点は、セ・パ交流戦開催1シーズン目のにが対6回戦()で、記録した19得点を更新する セ・パ交流戦最多得点の新記録となり、交流戦初の20得点以上をマークした。 ロッテは前日の、広島の先発に苦しめられるなど、11残塁13三振を喫する拙攻で完封負けを喫していただけに試合後、ロッテの監督は、「昨日はラッキーな安打が出なくて苦労したのに、今日はそんな安打が何本も出たね」と満足そうだった。 一方、大量失点を喫して敗れた広島の監督は、「まるでラグビーだね。 」と怒りを通り越して呆れ返り「今日の勝者はマリーンズじゃない。 むしろ、これだけ点差があっても応援し続けてくれた左翼席のカープファンこそが真の勝者だよ。 」と悔しさをにじませていた。 球団ではこの記録達成を記念して、このイニングに出場した12人が当日使用していたバットを納めた「1イニング15得点記念モニュメント」を作成し、から千葉マリンスタジアムの内野スタンド2階Bゲート付近にて展示している。 1 2 3 4 5 6 7 8 9 計 広島 0 2 0 0 0 0 0 0 0 2 ロッテ 0 2 5 0 0 15 1 0 x 23• ロッテ6回裏の攻撃(括弧内は得点数)• 福浦 左前安打• 大松 三飛• 井口 中前安打• 橋本将 右前安打 1• サブロー 四球• 里崎 中前安打 1• ランビン 左前安打 1• 今江 四球 1• 早坂 死球 1• 福浦 右前安打 1• 大松 右二塁打 2• 塀内 右前安打 2• 橋本将 中前安打• サブロー 中前安打 1• 里崎 中前安打 1• ランビン 死球• 今江 遊ゴロ失策 1• 田中雅 中犠飛 1• 堀 中前安打 1• 大松 右飛 1イニング最多連続打席安打 [ ] ロッテは、の対4回戦()で7回表に10者連続安打・連続得点の猛攻で10点を挙げ、前年のヤクルトなどが計8回記録した1イニング最多連続打席安打のプロ野球記録(9者連続)を更新した。 1点ビハインドのこの回、ロッテは一死無走者から里崎が四球を選んで出塁したのを皮切りにの左前安打から連打攻勢がスタートした。 代打のが中前安打で満塁とすると、の遊撃と左翼の間に落ちる2点適時打で逆転に成功、ヤクルトの先発をKOした。 さらに今江も安打で続き、井口の内野適時打で1点を追加。 続けてが15号満塁、も10号ソロと2者連続で本塁打を放ち、再び打順が回ったが二塁打で出塁すると、里崎も8号2ラン本塁打を放ち前年に続いて10連続得点を達成した。 そして南がこの回2本目の中前安打を放って10者連続安打の新記録を達成している。 青野の代打で送られたが三塁ゴロに倒れ、ロッテの連続記録はストップした。 岡田は試合後「すみません。 知りませんでした」と平身低頭だった。 同日、ロッテがこの記録を達成した直後にはオリックスが対広島4回戦()の6回表にやはり1イニング10者連続安打のタイ記録を達成しており、両チームがまとめて従来の記録を更新したことになる。

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着用ユニフォーム|千葉ロッテマリーンズ|レジェンド・シリーズ 2013

千葉 ロッテ マリーンズ ユニフォーム

QVC時代のZOZOマリンスタジアム 収容人員 30,118人(ZOZOマリンスタジアム) フランチャイズの遍歴• ( - )• ( - )• ( - 1991年)• 千葉県(1992年 - 現在) 永久欠番 獲得タイトル アジアチャンピオン(1回) 日韓クラブチャンピオンシップ(1回) 日本一(4回)• リーグ優勝(5回)• セ・パ交流戦優勝・最高勝率(2回) (2015年から2018年までは最高勝率)• 成績(タイトル以外) アジアシリーズ出場(1回)(太字は優勝、斜体は準優勝) 1勝 日韓クラブチャンピオンシップ出場(1回)(太字は優勝、斜体は準優勝) 1勝 日本シリーズ出場(6回)(太字は勝利した年)• 4勝2敗• クライマックスシリーズ(5回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)• 1勝4敗• プレーオフ(2004-2006)(1回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)• 1勝 プレーオフ(前後期制)(4回) (太字は勝利した年、斜体は後期優勝)• 1勝3敗• 球団組織 オーナー (代行) 運営母体 監督 株式会社千葉ロッテマリーンズ Chiba Lotte Marines 略称 ロッテ、マリーンズ 本社所在地 〒261-8587 美浜1番地 ZOZOマリンスタジアム 本店所在地 〒160-0023 三丁目20-1 設立 (株式会社毎日球団) 事業内容 プロ野球競技の運営並びに選手の指導、養成など 代表者 重光昭夫(代表取締役会長オーナー) 河合克美(社長兼オーナー代行) 資本金 6000万円(2017年12月31日現在) 純利益 7億5536万円(2019年12月31日時点) 純資産 12億3303万1000円(2019年12月31日時点) 総資産 62億5614万2000円(2019年12月31日時点) 従業員数 55人(2009年12月31日時点) 決算期 主要株主 関係する人物 (現法人設立時オーナー) ロッテグループ創業者、初代代表取締役社長、元オーナー 外部リンク 特記事項:に大映野球株式会社を吸収合併。 千葉ロッテマリーンズ YouTube チャンネル 目次• 球団の歴史 [ ] 東京時代 [ ] 毎日時代 [ ] 、を親会社とする毎日球団が設立され、 毎日オリオンズ(まいにちオリオンズ)が結成された。 毎日新聞社はもともと昭和初期にセミプロ野球チーム『大阪毎日野球団』を組織していた。 、からの勧誘を契機に球団結成の気運が高まり、戦前の大阪毎日野球団を基礎に、自ら主催するの有力選手をスカウトして球団を結成。 、に加盟を申請。 リーグ拡大の機運にも乗って加盟を申請したが、毎日新聞のライバル会社であった(の親会社)・(の親会社)が強く反発。 交渉は平行線を辿り、毎日オリオンズと電鉄系を中心とした毎日オリオンズ加盟賛成派の・・・・・の7球団からなる太平洋野球連盟()と毎日オリオンズ加盟反対派の・読売ジャイアンツ・中日ドラゴンズ・・・・・の8球団からなるセントラル野球連盟()が結成される「2リーグ分立騒動」に発展した。 詳細は「」を参照 この騒動の中、大阪タイガースの主力選手であった・・・・が毎日に移籍した。 加盟賛成を表明しながらリーグ分立直前に態度を翻した大阪に対し、毎日が意趣返しに大量の選手引き抜きを行ったといわれた。 パ・リーグ公式戦開始より参入。 本拠地は。 毎日新聞東京本社運動部長で、戦前はのエースから前述の大毎野球団の一員となったを総監督、前大阪監督のを監督(選手兼任)とする二頭制をとり(実質的には湯浅が監督権限を掌握し、記録上の監督も湯浅である)、大阪からの移籍組に、から獲得した・を加えて「」を形成、投手では前年の都市対抗野球を制したのエースや、大洋から獲得したが活躍。 、対東急戦に勝利して、活動1年目にしてリーグ優勝 、でもを4勝2敗で圧倒し、初の日本シリーズで優勝を達成した。 打者では別当薫が、の二冠王を獲得しとなり、投手では荒巻淳が、の二冠王でとなっている。 首位南海と22. 5ゲーム差のリーグ3位に終わる。 7月16日、・での対戦で、雨天と日没を悪用し故意に試合をノーゲームにするという毎日側の策略に観客が激怒し暴動が発生()。 、責任を取り総監督の湯浅、監督の若林が2人とも更迭される。 この年は南海と争うものの、首位南海と1ゲーム差の2位に終わる。 シーズン終了後に若林、湯浅がそれぞれ復帰。 首位南海と14. 5ゲーム差の5位。 での対阪急戦が、によるプロ野球初のテレビ中継となる。 オフには別当薫が選手兼任で監督就任。 が打率リーグ2位の. 325と打点王、が最優秀防御率をあげ、新人のが新人王を獲得。 チームは首位南海と14ゲーム差の3位に終わる。 首位西鉄と13. 5ゲーム差の4位。 シーズン成績は3位。 、成績が低迷していた(大映野球)とし 毎日大映オリオンズ(まいにちだいえいオリオンズ)に改称。 略称は 大毎オリオンズ(だいまいオリオンズ)。 新会社毎日大映球団 が設立。 球団組織と法人格は毎日側を存続させ、形式的にはとの共同経営としたが、実質的な経営は大映側が掌握し、同社社長のがオーナーに就任するという「」だった。 大毎時代 [ ] が打率リーグ3位・打点王となるがチームは4位。 この時期、パ・リーグでは西日本に本拠を置くとがリーグの覇権を握り、関東の球団で集客を期待されたオリオンズが優勝できないことがリーグの不人気の原因であるとする指摘が複数なされるほどだった。 オフには、この年セ・リーグのとなったがの権利で阪神より移籍する。 優勝した南海と6ゲーム差の2位。 山内が本塁打王、葛城が打点王となる。 が監督に就任。 新監督のもと榎本喜八、山内和弘、田宮謙次郎らを擁す破壊力抜群の「」で10年ぶり2回目のリーグ優勝。 結果的に2位の南海と4ゲーム差の僅差だった。 しかし、大洋ホエールズとのでは、4連敗で敗退。 その時の戦法が永田オーナーの逆鱗に触れ、西本は1年で解任される。 この年をもって毎日新聞社は球団から役員を全員引き上げ、経営から事実上撤退。 永田が球団経営を掌握することになる。 パシフィック・リーグ誕生時には、毎日新聞は「リーグの広報」役を期待されていた。 毎日の撤退は、その戦略が潰えたことを意味した。 毎日新聞社史『毎日新聞百年史』(1972年)ではオリオンズについての記述が著しく少ないという指摘がある。 より本拠地は永田が私財を投じてに建設した専用球場・に移転。 東京オリオンズ時代 [ ] - 、球団名を 東京オリオンズ(とうきょうオリオンズ)に改称。 この他、ヤクルトが2006年からに改称している)。 だが、この改称は毎日新聞社側への根回しがないまま行われたため、毎日側が不快感を示した挙句、毎日新聞社の資本も翌1月に引き上げ、なおかつ後援も度シーズンをもって打ち切っている。 これによって球団は完全に永田が掌握することになったが、会社名は「毎日大映球団」を維持した。 優勝した翌1961年以降、チームは7年連続Bクラスと低迷する。 原因として、主砲のや、といった主力選手をトレードで放出し、が引退するなど、それまでのを解体して守りの野球を作ろうとしたが、本拠地がそれまでの後楽園球場より狭い東京球場に移った事で、方針としては逆行しているという指摘が多くあったとされ、1964年から1967年にかけてはチーム本塁打より被本塁打の方が多いという状況で、1968年に、などを獲得してようやくこの数字を逆転し 、チームも8年ぶりのAクラス、3位入りしている。 ロッテ時代 [ ] 、永田は友人であるの斡旋により、をスポンサーに迎えて業務提携を結び、球団名を ロッテオリオンズに改称。 ただ、正式な球団買収ではないので球団の経営は従来通り毎日大映球団(=永田側)が行って、ロッテは球団名の(現在に置き換えればの制度に近い)を取得する形としてとどまった。 このため、ロッテ本社からの人材の派遣は行われなかった。 首位阪急と5. 5ゲーム差の3位。 10年ぶり3回目のリーグ優勝。 東京球場での優勝決定時には、観客が次々とグラウンドになだれ込み、そのまま真っ先に永田を胴上げした。 しかし、初の同一都道府県内のみでの開催となった(東京シリーズ)は巨人に1勝4敗で敗れる。 をもって永田は球団経営から撤退。 ロッテが正式に球団を買収して親会社となり、会社名も球団名と同じ「ロッテオリオンズ」になる。 以来40年以上にわたりロッテは球団を保有し続けているが、これはパ・リーグに現存する6球団では最長である。 西宮での対阪急戦でのハーフスイングの判定をめぐり監督が猛抗議、を宣告される。 10日後、その責任を取る形で濃人が監督を解任され二軍監督に降格、後任に二軍監督が就任。 この年は、優勝した阪急と3. 5ゲーム差の2位。 39本塁打したなど チーム193本塁打は1963年の南海が記録した183本を抜いて(当時の)日本プロ野球記録となった。 前年と一転、Bクラスの5位に転落。 本拠地・東京スタジアムは永田と共通の友人であるの斡旋で社主のが経営を引き継いだが、小佐野は経営不振を理由に単独企業での球場経営の継続は困難であると判断。 球団と球場は一体であることが望ましいと考え、ロッテに対し球場の買い取りを要求。 しかしながら、ロッテ側は費用対効果の面で難色を示し、賃借継続を要請して交渉は平行線を辿る。 結局、シーズンオフに監督に就任したが「あそこは両翼の膨らみが無くて本塁打が入りやすい。 投手泣かせの球場を買い取る必要はない」と猛烈に反対したことなどから交渉は決裂。 東京球場は閉鎖され、ロッテは本拠地球場を失った。 仙台時代 [ ] 「」も参照 この年からの(現在はの本拠地)を中心に(翌年から保護地域も宮城県に暫定移転)、首都圏では後楽園球場、、を転々としつつ主催試合を行った。 特定の本拠地を持たない状況はまで続き、この5年間は「球団」などと揶揄された(参照)。 日拓ホームフライヤーズから合併を持ちかけられるもこれを拒否、このためフライヤーズはに売却されることになった(現在の)。 また、1971年からオーナーを務めたがの経営に参画・株式会社を設立するため、プロ野球協約の一個人・団体(企業)による複数球団保有を禁じる規定に従い 、中村が保有していた株式はロッテに譲渡された。 この年からパ・リーグはを導入。 成績は前後期ともに2位で総合では3位に終わる。 金田監督の下で、、、投手では、、らが活躍して後期優勝。 では前期優勝のを3連勝で破りリーグ優勝。 中日とのでは4勝2敗で日本一になった。 このときの日本シリーズの主催3試合は施設上の問題から仙台ではなく後楽園で行われた(この年と1977年度のパシフィック・リーグのは宮城で開催されたが、にロッテが進出していた場合も、ロッテ主催試合は後楽園で行われることになっていた)。 また、日本一を決定した後の凱旋パレードも東京・銀座から新宿にかけて行われたのみで仙台では行われず、これらの行為は仙台市民や一部のスポーツ新聞から「地元無視」と批判されたこともあった。 なお、この年を最後に、パシフィック・リーグ年間勝率1位に一度もなっておらず、2019年現在存在する12球団で最も長く勝率1位から遠ざかっており 、45年間勝率1位になっていないのはの37年間 をぬいてプロ野球史上最長である。 前年の優勝から一転して前期最下位。 後期は2位に浮上するも総合4位に終わる。 前後期ともに3位で総合でも3位に終わる。 前期は5位に終わるも後期は優勝。 では前期優勝の阪急と対戦。 最終戦までもつれ込んだが3勝2敗で敗退。 総合3位に終わる。 川崎時代 [ ] 1977年 神奈川県横浜市での建設が始まったのに伴い、すでに横浜への移転が内定していた大洋と共に本拠地として使えるよう折衝を行ったものの、横浜使用については折衝に失敗。 その後川崎市から誘致を受け、翌シーズンからへの本拠地移転が決定。 10月4日に保護地域を神奈川県に移転することが承認された。 この年から正式に川崎球場を本拠地として使用(なお、県営宮城球場でも引き続き年間10試合前後の主催公式戦を開催)している。 移転1年目は、総合4位に終わる。 シーズン終盤金田の解任が一部マスコミに報道され、金田はその後辞任した。 前年オフに将来的な監督候補と見込んで獲得していたにとして後任を打診するも金田の後任は荷が重いと固辞しそのまま退団。 山内監督時代 [ ] 山内一弘が監督に就任。 就任1年目は、総合4位に終わる。 ルーキーのを山内が積極的に指導するも、落合に山内の打撃理論は習得出来なかった。 山内の下、、のリー兄弟、投手陣では、、が活躍し前期優勝したが、プレーオフで後期優勝の近鉄に3連敗で敗退した。 エース村田の大活躍もあり2年連続前期優勝。 プレーオフで後期優勝の日本ハムと対戦、1勝3敗1分で2年連続プレーオフ敗退。 10月19日に山内が1年の契約期間を残して退団、ロッテ本社はフロントを急がせ「10人の候補者リスト」を作り、片っ端から交渉を開始したが、、と次々に断られ、有藤の監督兼任案も出たが、オーナーが「あと3年、プレーヤーで専任させよう」とストップをかけに相談し次期監督にを推薦し、山本が監督に就任した。 なお、金田の再任も候補に挙がっていたが、見送られた。 山本一義監督時代 [ ] が日本プロ野球史上4人目(5度目)の打者となる。 順位は5位に終わる。 球団史上初の最下位となり、山本は同年限りで解任。 稲尾監督時代 [ ] が監督就任。 なお、稲尾は「埼玉県所沢市に移転したライオンズに替わり、ロッテを数年以内に福岡県に移転させる」という条件で監督要請を受諾したが、(結果的に)福岡への移転は実現しなかった。 落合、、レロン・リー、新人のが打率3割をマークしてチーム打率1位になったものの、投手陣は肘の手術から復帰した村田が活躍したのみにとどまった。 落合が2度目の三冠王を達成。 この年はセ・リーグでも()が打者三冠王となり、セ・パ両リーグ同時に打者三冠王が出た。 マスコミからは広岡率いる西武の管理野球に対し稲尾の「無手勝流野球」と賞賛され、前年から2年連続で勝率2位を確保したものの、リーグ優勝した西武から15ゲームも離された。 落合は3度目、前年に続き2年連続で三冠王を達成。 バースも前年に続き三冠王となり2年連続でセ・パ両リーグ同時に打者三冠王が出た。 西村がこの年から4年連続で。 リーは打率331、横田は2年連続3割、後半良く打った野手転向3年目のとバラエティに富んだ打線は昨年に引き続きリーグ1位のチーム打率、投手陣はは3年連続2桁勝利、6月から抑えに転向したは18セーブを達成したものの、村田が8勝で終わり 、チーム防御率5位に終わった。 球団の福岡移転を熱望していたが実現しなかったことにより、稲尾が監督退任。 有藤監督時代 [ ] が監督就任。 落合博満が11月4日に「稲尾さんのいないロッテに自分はいる必要がない。 来年はどこと契約しているのかわからない。 」と述べ、11月7日に「配慮に欠いた」と球団に謝罪し、契約については「それは別の話」と述べた。 落合は・・・の4選手との1対4トレードで中日に移籍した。 落合の著書によると有藤が「監督を引き受ける条件の一つに私(落合)をトレードで出すのが条件」と記している。 有藤と不仲だったも冷遇され、不調に陥り同年解雇。 また、同年には女性向けの「URE・P(ウレピー)」を発行、URE・Pはなどで入手でき、本拠地を千葉に移転するまで5年間発行され、これにより女性客も増えて観客動員数は10万人ほど増えたという。 なおこの年は、やはり落合が抜け、リーが不振で、4番は若手のやらが務めたが力不足は顕著で打線は決定的に迫力に欠け、トレードで獲得した牛島がに輝くも、首位の西武と20ゲーム差の5位に終わる。 この年は最下位だったが、の近鉄とのダブルヘッダーがパ・リーグの優勝のかかった大一番となり注目を浴びた(詳細は参照)。 この日の川崎球場に観客がかつて無い程大量に押し寄せたため、同時にトイレなどの設備の老朽化が激しく露呈し、3年後の大幅改修のきっかけとなる。 が首位打者・がに輝く。 小川、、、の4人が二桁勝利を挙げた。 二軍の本拠地がのから浦和市(現:)のに移転。 村田兆治が5月13日のでの対日本ハム戦に勝利し通算200勝を達成。 に輝く。 最下位で球団初の2年連続最下位に終わり、有藤が監督を退任。 後任には、金田正一が2度目の監督就任。 第2次金田監督時代 [ ] チーム成績はは5位。 西村がになる。 村田が現役引退。 ドラフト1位指名のが入団拒否。 首位の西武と33. 5ゲーム差の最下位。 内外野全面への敷設、スコアボードの電光化など川崎球場の改修工事を実施。 「テレビじゃ見れない川崎劇場」をうたい文句にファン拡大作戦を実施した(同年の表現部門で「川崎劇場」が金賞に選ばれた)。 観客動員は102万1千人で、球団史上初めて100万人を突破、当時の既存12球団では最後の達成となった。 が首位打者を獲得。 金田が辞任。 千葉時代 [ ] 八木沢監督時代 [ ] 1991年 、翌年から保護地域を川崎から、専用球場を同県のに移転することがオーナー会議によって承認、発表された。 移転に伴う新しい球団名は一般公募により改称されることになり、同年、新しい球団名は 千葉ロッテマリーンズ(英語で海兵隊)に決定した。 この年のオフ、金田が監督を解任された。 後任に球団OBのが就任。 奇しくも1978年に八木沢に引退勧告を行ったことがきっかけで監督を解任された金田が、再び八木沢に追い出された形となった。 本拠地移転や球団名変更に伴い、ユニフォーム・・・マスコットを一新。 、 本来開幕権はが持っていたが、オリックスから開幕権を譲渡され、新生千葉ロッテは本拠地で開幕を迎えた。 4月は首位で終えたが、その後は失速、千葉移転初年度は昨年続き最下位に沈んだ。 それでも移転景気に恵まれ、観客動員が130万人を記録するなど順調な滑り出しを思わせた。 しかし翌年もやを獲得し補強を行ったがチームの地力は上がらず5位に終わると移転景気も潰え、観客動員も93万人に激減。 千葉県民の目も徐々に冷ややかになっていった。 こうして、川崎時代から続く「12球団最低レベルの観客動員数」という大きな問題点には千葉移転後も苛まれることとなる。 この年のオフ、当時パ・リーグ会長だった原野和夫はロッテのチーム力の低下と観客動員数の低迷を強く懸念。 重光オーナー代行に対し「もっと努力してほしい」と注意を行った。 開幕当初よりチームは低迷し、八木沢は8月1日をもって休養。 その後は、が代理監督を務め、5位に終わる。 オーナーのが中西に監督就任要請をするも中西は断り退団。 第1次バレンタイン監督時代 [ ] 日本球界初のGM()としてが就任すると、広岡はメジャーリーグでの監督経験のある監督を招聘。 バレンタインの提案で、川崎から移転後3年間採用していた色を主体としたユニフォームを、ピンストライプのデザインにリニューアル。 2年間の在籍で中軸として結果を残していたメル・ホールを性格の荒さや素行の悪さを原因に解雇。 代わりに、を獲得。 序盤は出遅れるが、2年目ながらトップバッターに起用された、リーグ打率2位の、打点王を獲得した 、外国人ながら本人のプレイだけではなくチームの精神的支柱も担ったフリオ・フランコ、、、の先発三本柱、、のダブルストッパー等投打のかみ合った1年となり、結果的に貯金10の2位で10年ぶりのAクラス入りを果たす。 翌年の優勝を期待するムードが大きく高まったが、バレンタインが広岡との確執から解任される。 フランコも広岡との確執で解雇。 江尻 - 近藤 - 山本功児監督時代 [ ] バレンタインの後任にはコーチとして入閣していたが昇格したものの広岡のの後輩ということで「広岡の」と陰口を叩かれる。 またチームも投手は伊良部が最優秀防御率・ヒルマンが防御率2位・成本が最優秀救援投手を獲得、河本も前年同様の働きをし二年目のが奮闘したが、開幕投手を努めた園川が0勝7敗、小宮山も大きく負け越し防御率も前年より2点以上悪くそれ以外が計算出来なかった。 野手は外国人が活躍出来ずに、初芝もマークが厳しくなり勝負強さが発揮できず、堀が孤軍奮闘するが焼け石に水で結局5位に沈み、広岡は契約を一年残して解任され 、江尻もこの年限りで辞任。 伊良部が球団と衝突し半ば強引な形で大リーグ・に移籍。 ヒルマンも巨人へ移籍。 が新監督に就任。 これはロッテのフロントが元巨人監督のに「立て直し役に最適な人はいないか」と相談し、89年から3年間巨人・藤田監督の下でヘッドコーチを務めていた近藤を藤田がロッテ側に推薦し、監督就任に至ったものだった。 時代のの多用に代表される采配のまずさによる成績不振、らと確執を生みチーム内に不和をもたらすなどの不安要素を押しての起用となった。 投手陣は伊良部・ヒルマンの抜けた穴は大きかったが、前年不振だった小宮山が奮闘し最優秀防御率を獲得、黒木が初の二桁勝利、が初の規定投球回数をクリアするなど奮闘。 しかしストッパー成本が大怪我でシーズンを途中リタイア。 野手では新人のが新人王に輝き、投手から打者に転向したが台頭したが、外国人は長打不足、初芝・堀も不振。 また、前年まで多くのマスクを被っていた・が相次いで移籍し、ドラフトで大学ナンバーワンと評価されたが開幕戦でスタメンマスクに抜擢されたがプロの壁は厚く苦戦を強いられた。 結局投打に渡り駒不足で最下位に終わる。 近藤監督での2年目を迎え、フリオ・フランコが3年ぶりにチームに復帰するも「投手陣の踏ん張りがなければ上位食い込みは難しい」と言われた。 4月は11勝5敗の首位だったが、ストッパーの河本が肩の故障で離脱しセットアッパーのも不振で離脱するとリリーフ陣が崩壊。 日本プロ野球ワースト新記録となる18連敗(途中1引き分けを挟む)を喫した(詳細は)。 ロッテはこの18連敗の間、シーズン通算23勝43敗1分、勝率. 358まで戦績を落として最下位へ転落し、借金は一気に20まで膨れ上がった。 全18敗のうち逆転敗戦は9、サヨナラ敗戦は4であった。 連敗脱出後はリリーフとして新外国人のが加入、河本も戦線復帰でブルペンが強化されチームは復調し、シーズン最終成績は61勝71敗3分、勝率. 462。 借金10まで盛り返したものの最下位からは脱することができず、結果的にこの18連敗が大きな痛手となった。 また、総得失点差でプラス(チーム打率もリーグトップ. 271。 チーム防御率リーグ2位3. 70)でありながら最下位となった。 近藤は、シーズン終了後の監督退任会見で「今度監督をやる機会があれば、もっと強いチームでやりたい」と発言しロッテを去った。 、、、 にはが二軍監督から一軍監督へ昇格し、投手陣の充実、新人獲得の地元出身者偏重の解消などチームの構造改革に取り組むも、球団の資金難や貧打線、頼みの投手陣を克服できず定位置のBクラスからは抜け出せなかった(その黒木が故障離脱した2002年は開幕11連敗とまたしても大型連敗を経験した)。 1999年のオフにそれまでチームを支えていた小宮山が権を行使する意向を球団に伝え、結果として自由契約という形でに移籍した。 しかし、この時期にドラフトで獲得した、、、らは二軍生活を経て後のAクラス入り、日本一に大きく貢献している。 オフには限りでを退団したを獲得するが、翌年の春季キャンプ中に「野球に対する情熱が無くなっているのに気づいた」と残し、開幕を待たずに退団している。 このシーズンは特に秋に好成績を収めており、8月末まで5位に低迷していたのが9月から一気に調子を上げ、日本ハムをかわし4位に浮上している。 オフ、韓国・からを獲得。 山本は5年間監督を務めたがすべてBクラスに終わり、2003年に解任された。 第2次バレンタイン監督時代 [ ] バレンタインが「全権監督」として復帰。 サンデーユニフォーム(白地に黒のダンダラ模様を入れた上着を着用。 パンツは通常のストライプ)を採用。 4位で迎えたシーズン最終戦はプレーオフ進出をかけ西武と対戦。 3者連続ホームランで逆転し、西武に勝利するも、3位だった日本ハムも勝利したため、0. 5ゲーム差で4位が確定。 プレーオフ進出を逃した。 しかし、シーズン全体では勝率5割を記録した。 今江敏晃、西岡剛の台頭もあり好スタートを切る。 上位から下位までどこからでも点を取る打線は、1998年の横浜ベイスターズの「マシンガン打線」になぞらえて「」と呼ばれ、4番にを起用する打線が機能する。 サブローはまったく新しいタイプの4番打者としてチームに貢献した。 3月26日の千葉マリンでの開幕戦では、新球団と対戦し3-1で敗れ、楽天の公式戦初試合初勝利を献上したが、翌日には2リーグ制以降している。 この年から導入されたでは24勝11敗で優勝。 「セ・パ交流戦初代チャンピオン」となる。 8月17日の対戦に勝ち、10年ぶりの勝ち越しを決めると同時に、34年ぶりの貯金30を達成。 8月28日の対オリックス戦で勝利し、進出と10年ぶりのAクラスを確定。 9月19日、34年ぶりの80勝を達成し(最終的には84勝)、シーズンを2位で終えた。 で西武、第2ステージでは2戦先勝するも第3戦、第4戦と敗北。 第5戦でも2点先制されるが、8回表にの劇的な2点タイムリーツーベースで逆転。 その後もリードを保ち、を破り31年ぶりのリーグ優勝を果たした。 からのでは、第1戦 は試合途中から、選手全員が全く前が見えないほどの夥しい濃霧にグラウンド全体が包まれ、7回裏1死時点で試合続行不能になるほど霧が濃くなり、となる珍事が起きている。 その後も阪神を2002年の巨人以来3年ぶり、球団史上初となるストレート4連勝で下し、31年ぶり3度目の日本一に輝く。 からで行われた第一回に出場。 決勝で韓国のを5-3で下して勝利し優勝している。 二軍ではファーム日本選手権で阪神を下し優勝しており、この年は一軍・二軍合計で年間6冠を達成している。 11月20日に千葉市中心部と幕張地区の2カ所で行われた優勝パレードでは合計27万人を動員し、同年の阪神の来場者数・18万人を上回る盛り上がりを見せた。 この年のボビー政権は、変則的に打線が入れ替わる 日替わり打線などを駆使していた。 また、その采配がしばしば成功するので、 ボビーマジックと言われた。 この年、(15勝)、(12勝)、(11勝)、(10勝)、(10勝)、(10勝)が2ケタ勝利を挙げた。 また久保の新人10勝の記録は毎日時代の1950年の(26勝)・(16勝)以来球団史上3人目のことだが、荒巻と榎原は左投手なので、右投げの新人投手が2ケタ勝利を挙げたのは球団史上初である。 が巨人へ金銭トレードされ、李承燁が巨人、セラフィニがオリックスへ移籍。 交流戦は2年連続での優勝となったが、夏場以降は急失速し、最終的にシーズンを4位で終えている。 オフには、を退団したを獲得。 3月24日の開幕戦(千葉マリンの対戦)が降雨コールドで引き分け。 翌日も延長12回で引き分け。 投手陣は、中継ぎ陣がの防御率10点台を超える乱調や、の度重なる救援失敗により事実上YFKが崩壊したが、38で賞を獲得したがシーズン終盤に抑えに回り、2年目のと新人のが活躍し、強固な中継ぎを維持できた。 先発陣はエース清水直行が6勝どまりだったものの、渡辺俊介が不振から脱却、援護が無いものの安定した防御率を残し、小林宏之が自己最多の13勝。 そしてが16勝1敗、防御率1. 817で、との2冠を獲得する大活躍を見せた。 この3人が柱となり、前年を上回る成績を残した。 一方野手陣は、、の故障による離脱・不振などでシーズン通して安定した攻撃力を維持できず、の台頭もあり得点はリーグトップだったが、首位日本ハムとは2ゲーム差の2位に終わった。 ではソフトバンクに2勝1敗で勝利したが、2ndステージでは日本ハムに2勝3敗で敗退した。 先発投手陣が揃って不調に陥り、さらに開幕直後に捕手の・・が同時期に故障し、前半戦は一時期最下位に沈んだ。 後半戦は不調の先発陣をリリーフ陣が支え、打撃陣がチームを牽引し勝率を5割以上としたが、首位西武と4. 5ゲーム、3位の日本ハムと0. 5ゲーム差の4位となっている。 チーム防御率はリーグ最低となった。 野手陣に故障者が多く、復活を期待されていたズレータの不振や今江の骨折による長期離脱なども重なり、チーム打率は前年より上昇したものの打撃力は安定しなかった。 投打がうまくかみ合わず、大量得点しても大量失点してしまうという試合が多かった。 、球団はバレンタインと5年目以後の監督契約は結ばず、4年目の2009年シーズン限りとする旨を発表。 オフにを獲得。 ロッテが東京オリオンズのスポンサーとなって40周年を記念したマークを導入。 5月21日、とパートナーシップ包括協定を締結。 シーズン中に、バレンタインの監督退任騒動が浮上。 9月26日に「死刑」などのフロントを中傷するゲーフラを掲げた一部ファンに対しがヒーローインタビューにて中傷行為を止めるように要請した。 しかし9月27日にこれまでロッテの応援を引っ張ってきた 詳しくはを参照 外野応援団・が西岡の応援を妨害し、外野応援団・MVPに反発したファンから帰れコールが起こるなど球場は騒然としてしまった。 これがきっかけで外野応援団・MVPは解散することになりスキンヘッドランニングなどのチャンステーマ、旧応援歌 一部は2010年も使われた が廃止されてしまった。 これら騒動の影響もあってチームは低調な成績に終わり、2年連続Bクラスの5位でシーズンを終了。 バレンタインの後任にはヘッドコーチのが監督に昇格した。 オフには韓国・からFA宣言したを獲得。 西村監督時代 [ ] 序盤はルーキーや金泰均らの活躍で快調なスタートを切ったものの、荻野貴との長期離脱など相次ぐ主力の故障や夏場の金泰均の打撃不振などが続き、交流戦以降は徐々に調子を落としたが、上位5チームによるAクラス争いの中で終盤まで首位戦線に食い込み、首位ソフトバンクと2位西武からは2. 5ゲーム差、4位の日本ハムと0. 5ゲーム差の3位でシーズンを終えた。 のファーストステージでは、西武に2連勝。 ファイナルステージでは、ソフトバンクに王手をかけられながらその後、3連勝で4勝3敗で連破し、クライマックスシリーズを制覇。 通期での勝率3位から日本シリーズに進出したのは、前後期制時代の1973年・以来37年ぶりとなった。 日本シリーズでセリーグ優勝の中日を4勝2敗1分で下して5年ぶり4度目の日本一となり、パリーグで初めてリーグ優勝せず に日本シリーズを制した球団となった。 3位からの日本一は史上初めてである。 、ではを3-0で降して日韓王者に輝いた。 、本拠地の千葉マリンスタジアムがテレビショッピング専門チャンネル・による導入に伴い、名称を「 QVCマリンフィールド」に改めることを発表した。 オフには小林宏之が阪神へ、西岡が・へそれぞれFA移籍している。 また、堀幸一が現役続行を目指して退団するも、他球団からのオファーがなく現役引退。 に発生したでは、本拠地・QVCマリンフィールドに目立った外傷はなかったが周辺がを起こすなどあり、この年のQVCでのオープン戦はすべて中止となっている。 また開幕が当初予定のからに延期となったことから、開幕戦はQVCでの楽天戦となり 、6対4で敗れ開幕戦は6年連続敗戦となった。 の対中日戦 QVC の敗戦で勝率5割として 以降は借金生活となり、の対阪神戦 QVC の敗戦で最下位に転落。 交流戦は8勝14敗2分の10位。 にはサブローがプラス金銭で巨人にトレードされる。 前半戦は借金1の3位で折り返す。 しかし後半戦に入ると連敗するなど低迷し、の対西武戦(西武ドーム)に勝利し球団通算4000勝を達成 するが、終盤戦に入っても低迷は続き、には9年ぶりの11連敗を記録 、翌日対日本ハム戦 QVC に勝利し連敗を止めるものの、この日3位オリックスが勝利してBクラスが確定 、の対楽天戦(Kスタ宮城)に敗れたことで最下位が確定。 前年日本一のチームが最下位になるのは日本プロ野球3度目、パ・リーグでは初めて。 最終的には54勝79敗11分、首位ソフトバンクと33. 5ゲーム、3位西武と13ゲーム差、5位楽天と10ゲーム差。 得点は球団史上最低記録となる432 、チーム本塁打は46本で球団史上最少で、50本以下だったのは1959年の近鉄以来。 2桁本塁打の選手がいなかったのは球団史上初。 この年の本塁打王の(西武)の48本を下回り、1チームのチーム本塁打数が個人の本塁打数を下回るのは1959年の近鉄以来の記録となった。 金泰均が打撃不振や怪我がありシーズン途中9月に帰国、退団している。 、この年6月に巨人に移籍したサブロー がFA移籍で半年でロッテに復帰。 開幕戦から1952年以来の60年ぶりの4連勝をするなど 、序盤から首位争いをしに対ソフトバンク戦 QVC に6対4で勝利し首位浮上。 交流戦は12勝7敗5分で3位。 前半戦を42年ぶりの首位で折り返した。 しかし後半戦はの対日本ハム戦 QVC に5対3に敗れ、2カ月半ぶりに首位陥落し 、からは途中球団ワースト記録となる6試合連続1得点以下もあり 、9連敗するなど順位を落とし、ソフトバンク、楽天とクライマックスシリーズ進出を争うが、に対オリックス戦(京セラD)に2対1で敗れたことで2年連続のBクラスが確定し 、最終的に62勝67敗、優勝した日本ハムから10ゲーム、3位ソフトバンクと3. 5ゲーム差の5位に終わる。 が首位打者を獲得、独立リーグ出身の打者としては初めてとなった。 二軍はイースタンリーグ優勝、ファーム日本選手権でもソフトバンクを3対1で下し2年ぶり3度目の日本一になっている。 が中継ぎとしてリーグ2位、新人最多記録の72試合に登板し、新人記録となる41ホールド、43ホールドポイントを挙げ最優秀新人賞を獲得。 、西村が監督退任 、にはヘッドコーチのら8コーチも退団。 、監督に が就任。 伊東監督時代 [ ] 5月9日に7年ぶりの8連勝で首位に立ち 、交流戦は13勝10敗1分の5位に終わった。 7月3日に2位の楽天に敗れ、首位に並ばれると6日には4連敗で2位に 、前半戦を2位で折り返した。 9月26日の対日本ハム戦(札幌ドーム)に5対6で敗れ、楽天が対西武戦(西武ドーム)に4対3で勝利したことで楽天の優勝が決まり優勝を逃すが 、にソフトバンクが対日本ハム戦(札幌ドーム)に4対5で敗れたため、この日試合のなかったロッテの3年ぶりの進出が決定した。 10月8日の西武ドームでの西武とのシーズン最終戦は共に勝った方が2位確定となったが敗れて3位となった。 クライマックスシリーズファーストステージ(西武ドーム)は西武に2勝1敗で勝利したが 、ファイナルステージ(Kスタ宮城)は楽天に1勝4敗で敗れて敗退した。 オフに西武のをFAで獲得した。 1月1日付けで球団社長に前の山室晋也が就任した。 開幕から5連敗を喫し、チームは5月のから始まり6月の荻野、7月のと主力選手の怪我による離脱、成瀬・涌井・唐川といった主力の投手の不調などが響き、思うように順位を延ばすことができず、夏には最下位争いを繰り広げる羽目になった。 シーズン途中にキューバ出身での大砲・を獲得 、の対日本ハム戦(QVC)に敗れ、Bクラスが確定しロッテのクライマックスシリーズ進出の可能性がなくなった。 最終結果は4位に終わった。 が現役を引退し 、成瀬がFA権を行使してヤクルトに移籍した。 チームは開幕当初はAクラスの2位・3位に立つこともあったが4月中盤には徐々に脱落し、それ以降はソフトバンク・日本ハム・西武の3強の後塵を拝する状態が続いた。 交流戦では一時は首位に立つ も最終結果は10勝8敗の5位に終わった。 、この日のオリックス戦に敗れ6連敗となりロッテの自力優勝の可能性が消滅した。 その後、連敗を7で止めるも前半戦を4位で終えた。 にデスパイネが母国・キューバの大会に出場するため離日するのを球団が発表、にのを獲得した。 後半戦から終盤戦にかけては西武との激しい3位争いを繰り広げ、特に終盤はCS進出をかけて争うこととなった。 の対日本ハム戦(札幌ドーム)に勝利したことにより、西武に代わって3位に浮上した。 そしての対日本ハム戦(QVC)に5-3で勝利し3位が確定し、2年ぶりのCS進出が決定した。 のファーストステージはシーズン2位の日本ハムと対戦し、2勝1敗でファイナルステージ進出を決めた。 ファイナルステージではレギュラーシーズン1位のソフトバンクと対戦し、ファイナルステージでは3度目の組み合わせで過去2回はいずれもロッテが勝利しており、しかもそれが5年周期であったことから「下克上」・「ゴールデンイヤー」と銘打ったものの、3連敗(アドバンテージ分除く)で敗退となった。 オフに今江がで楽天に、クルーズも巨人に移籍した。 一方でソフトバンクからを獲得した。 、新外国人のが銃弾を隠し持っていたとして逮捕され、4月まで出場停止の処分を受けた。 開幕当初は首位に立つこともあったが、5月に入るとソフトバンクに首位を奪われてしまった。 それ以降ソフトバンクの後塵を拝する状況が続き、後半には日本ハムにも抜かれてしまう。 しかしながらその後は3位をキープし続け9月24日にリーグ3位が確定、クライマックスシリーズ進出と31年ぶりの2年連続Aクラス入りが決定した。 クライマックスシリーズでは、リーグ2位のソフトバンクと対戦するも2戦全敗で敗退した。 角中が首位打者とを獲得、またが2. 16で最優秀防御率を初受賞、サブローが現役を引退。 また、デスパイネが金銭面の関係で退団、への移籍が決まった。 オープン戦を首位で終えたものの、シーズンに入ると打撃陣は新外国人のと の不振などで4月のチーム打率1割台、投手陣も昨年最優秀防御率のタイトルを獲得した石川の大乱調などで4月のチーム防御率5点台と投打にわたって深刻な不振に陥り、チームは低迷した。 5月3日の日本ハム戦に敗れ最下位に転落すると 、そのままシーズン終了まで一度も最下位を脱出できなかった。 、この日の西武戦にも敗れ6連敗を喫しここまで通算37試合でわずか9勝(27敗1分け)しか挙げられず、ロッテの自力優勝の可能性が早くも消滅した。 5月から6月にかけ、の と、ソフトバンク・オリックス・楽天でプレーした を相次いで獲得する。 秋口になるとチームも復調し、9月は12勝10敗で今季初の月間勝ち越しを達成するが 最下位脱出には至ることができず、10月3日の試合で5位の日本ハムがオリックスに勝ったことでロッテの6年ぶりのシーズン最下位が確定した。 そして10月10日のシーズン最終戦にも敗れ、球団史上ワーストとなるシーズン87敗目を喫しシーズンを終えた。 一方、チーム打率・得点・本塁打・防御率もリーグ最下位に終わった。 伊東監督が辞任し、井口が現役を引退した。 オフには大量10選手が戦力外になったことに加え、外国人選手5人の退団も決まった。 また、コーチ陣も刷新。 同年10月11日に一軍野手総合兼打撃コーチのら7コーチに対して来季コーチ契約を行わないことを通告した。 井口監督時代 [ ] 2017年10月12日、現役を引退した井口が監督に就任することが正式に決定し、球団の公式ホームページで発表された。 また、井口のダイエー時代のチームメイトであったが一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチ、が一軍戦略コーチ兼バッテリーコーチ補佐に就任することが発表された。 2018年2月23日、代表取締役オーナー代行が同月13日に韓国で贈賄の罪で収監された ことを受け、代表権およびオーナー代行職を解かれ同日付での取締役が代表取締役オーナー代行に就任した。 、一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチのがヘッドコーチ専任、二軍内野守備・走塁コーチのが一軍内野・守備走塁コーチ、二軍打撃コーチ兼育成担当のが二軍内野守備・走塁コーチに配置転換されることが発表された。 また、一軍内野守備・走塁コーチの小坂がベンチ入りした影響で一軍打撃コーチ兼内野手の肩書だった福浦がコーチ登録を抹消され、福浦は内野手に専念することとなった。 この年は、4年目の、5年目の、ルーキーのらがスタメンで活躍。 また、新外国人投手のが11連勝した。 7月から8月上旬にかけてソフトバンク・オリックスとの3位争いとなったが、8月7日に4位に転落して以降、本拠地での極端な成績不振(8-10月で2勝22敗)となり、9月22日の西武戦(本拠地)でが通算2000本安打を達成してもチームは逆転負けするなど、9月5日を最後に本拠地で勝つことができず、シーズン最終戦でパ・リーグ新記録となる本拠地14連敗を喫した。 9月27日の楽天戦に敗れて2年連続のBクラスが確定、10月5日の楽天戦に勝利したことでシーズン5位が確定し、2004年に消滅した近鉄と2005年に誕生し2013年で初優勝した楽天を含む13球団で唯一30年間で1度も1位確定をしなかった。 また、球団史上初めてパ・リーグ全5球団への負け越しが確定した。 チーム盗塁数は西武に次いで2番目に多い124個を記録するも、チーム総得点は最下位の楽天に次いで少ない534点、チーム本塁打数に至ってはパ・リーグで最下位の78本にとどまり、盗塁が必ずしも得点に結びつくことが出来なかったことに加えて、チーム防御率も西武に次いで2番目に悪い4. 04を記録。 前年同様、投打にわたり課題を残すシーズンとなった。 この年限りで、、、、が現役を引退した。 また、オフに、、、の3選手がオーストラリアン・ベースボールリーグに所属するに派遣されることが決まった。 11月6日、内野手の獲得を発表した。 その他にも、元楽天の捕手や元日本ハムの内野手、北米選手の中では最年長でメジャーリーグにデビューし、元横浜の選手でもある投手、メジャーリーグ出場経験のある投手を獲得した。 また、からFA宣言した外野手の獲得にも乗り出したが、に争奪戦に敗れ、獲得には至らなかった。 開幕戦では楽天相手に中村、加藤、レアードの3本のホームラン、のプロ初ヒットなどもあり勝利。 しかし開幕4試合連続ホームランを打った新加入のレアードや中村、加藤などの好調も虚しく4月11日には最下位転落。 そこから息を吹き返し、5月中盤には2位にまで順位を上げた。 7月4日、からをとのトレードで獲得。 7月14日、外野手の獲得を発表、途中入団ながら14本塁打を放つなど結果を残した。 に僅差で躱され4位で終了。 が、を初受賞した。 プエルトリコで行われるウインターリーグに、、の三選手を、台湾で行われるウィンターリーグに、、の三選手を派遣。 オフに福浦和也が引退し、11月1日、来期より二軍ヘッドコーチ兼打撃コーチに就任することが発表された。 また、同じく引退したが二軍サブマネージャー、が一軍走塁コーチ兼打撃コーチ補佐兼外野守備コーチ補佐に就任した。 、が権を行使せずに残留するも、は楽天にFA移籍した。 も金銭トレードで、もFAの人的補償でともに楽天に移籍した。 いっぽうでは「令和の怪物」と評されたを4球団競合の末獲得に成功。 補強にも積極的に動き、楽天から、ソフトバンクからをFAで獲得。 一度のオフにFA選手を2人獲得するのは球団初のことである。 楽天からは他にもFAの人的補償としてを、また、自由契約となったとを獲得している。 さらに、元広島のも獲得した。 また、元ドミニカ共和国空軍のホセ・アコスタ、元BCリーグ富山のホセ・フローレスを育成選手として獲得した。 シーズン終了後の12月1日付で球団社長の山室晋也が退任し 、オーナー代行の河合克美が球団社長を兼任する人事が執行された。 1月19日、1971年の球団買収以来オーナーを務めたが・に於いて老衰のために死去(98歳没)。 3月10日、前年までに在籍していたを獲得。 背番号は 00。 3月24日、球団の株主総会と取締役会において、1月に死去した重光武雄の次男で、3月18日に親会社の会長職に選任されたばかりの重光昭夫が球団の代表取締役会長オーナーに就任することを正式に承認した。 重光は前述の通り、2018年2月に自身の不祥事でオーナー代行職から一旦退任していたため、2年ぶりにフロントへの復帰となった。 所属選手・監督・コーチ [ ] 「」も参照• リーグ優勝 5回(1950年、1960年、1970年、1974年、2005年)• クライマックスシリーズ優勝 1回(2010年)• 日本一 4回(1950年、1974年、2005年、2010年)• アジアシリーズ優勝 1回(2005年)• 日韓クラブチャンピオンシップ 優勝 1回(2010年)• セ・パ交流戦優勝 2回(2005年、2006年)• 前期優勝 2回(1980年前期、1981年前期)• 後期優勝 2回(1974年後期、1977年後期)• Aクラス 27回(1950年 - 1952年、1954年 - 1957年、1959年、1960年、1968年 - 1971年、1973年、1974年、1976年、1977年、1980年、1981年、1984年、1985年、1995年、2005年、2007年、2010年、2013年、2015年 - 2016年)• Bクラス 42回(1953年、1958年、1961年 - 1967年、1972年、1975年、1978年、1979年、1982年、1983年、1986年 - 1994年、1996年 - 2004年、2006年、2008年、2009年、2011年 - 2012年、2014年、2017年 - 2019年)• 連続Aクラス入り最長記録 4年(1954年 - 1957年、1968年 - 1971年)• 連続Bクラス最長記録 9年(1986年 - 1994年、1996年 - 2004年)• 最下位回数 9回(1983年、1988年 - 1989年、1991年 - 1992年、1997年、1998年、2011年、2017年)• 最多勝 85勝(1955年)• 最多敗 87敗(2017年)• 最多引分 15分(1978年、1980年、1984年)• 最高勝率. 704(1950年)• 最低勝率. 580を達成)。 以来連続45シーズン、年間勝率首位がなく、12球団で最もリーグの年間勝率首位から遠ざかっている球団である。 また、これはの大洋ホエールズ時代から続いた1961年 - 1997年の37年間を超え、最長記録となっている。 その他の記録 [ ]• 最小ゲーム差 1. 0ゲーム(1952年)• 最大ゲーム差 39. 5ゲーム(1983年)• 最多本塁打 193本(1971年)• 最少本塁打 46本(2011年)• 最高打率. 287(1985年)• 最低打率. 232(1965年)• 最高防御率 2. 40(1956年)• 最低防御率 5. 12(1983年)• 1イニング最多得点 15得点 (2009年6月11日対広島6回裏・日本プロ野球記録) チームの特徴 [ ]• まで、前身球団を含めて当時の12球団では唯一、最下位がなかった。 前・後期制だった前期と1982年前期はともに最下位に沈んでいるが、年間通算での最下位はが球団史上初である。 チームの生え抜き及び在籍経験選手が監督に昇格するやなどと比べ監督が多いことでも知られている。 このため、生え抜き監督は・・・の4人で(西本・八木沢・西村は後に他球団の指導者を経験)、現役およびコーチ時代に他球団在籍経験のあるOBを含めても、・・・・を加えた9人である。 反面、コーチはオリオンズ・マリーンズが多く、山本功児が監督を務めていた時は山本も含めてコーチ全員が球団OBだったこともある。 過去に4回、を優勝しているが、フランチャイズ制が確立されていなかった以外の3回はいずれもロードの球場(・、・、・)で胴上げをしており、本拠地(後楽園、東京、仙台、川崎、千葉)での日本一の胴上げは未だ成し遂げられていない。 ただし、リーグ優勝における胴上げはある(・東京、・仙台=プレーオフ優勝。 他に年間優勝ではないが、前期と前期の優勝を川崎で達成している。 本拠地での日本一の胴上げを未だ成し遂げられていないのは、現存する11球団では他に〔・〕のケースしかない)。 球団創立以来、現存する12球団及び合併・消滅した近鉄を含む計13球団で唯一を受賞した投手が1人もいない(2019年現在)。 完全制覇 は活動1年目のしかなく、全球団の中で最も遠ざかっている。 パ・リーグでは勝率3位からを突破してに進出した唯一の球団であり、そこから日本一を果たしたのも唯一である。 また、にはシーズン2位からプレーオフを勝ち抜いてリーグ優勝して日本一にも輝いたが、年間勝率2位以下で日本シリーズに2回進出したことのある球団はまでは12球団の中でロッテだけで、2回日本一になっているのもこれまた唯一であった。 一軍公式戦において、2004年までは全試合が対象・2005年以降はリーグ戦のみが対象で、前身球団を含む現存する12球団で唯一、全球団に負け越したシーズンが意外にも2017年まで1度も無く、2018年に初の屈辱を味わった。 東京・仙台・川崎時代 [ ] 以前のニックネーム「オリオンズ」はのが由来。 球団創立以来まで使われた。 チームの愛称は一般公募され「オリオンズ」は得票数5位だったが、星が当時の親会社・のでもあることから付けられた。 大映ユニオンズと合併した際、毎日側は新球団名として「毎日スター」を提案。 これを受けた永田雅一は一応納得はしながらも「以前、毎日新聞は『大毎』(の略称)と呼ばれ親しまれていた。 今でも自分は毎日を大毎と思っている。 何故この新球団を『大毎オリオンズ』としないのか」と反論。 毎日側も納得し、新球団名は永田案が通った。 毎日新聞がオリオンズの経営から手を引いたのちも、球団誕生に合わせて改称した喫茶店「茶房オリオンズ」が毎日新聞大阪本社ビルに(ビル建て替えに伴う移転を乗り越えて)存在し、名残をとどめていたが、2014年4月25日限りで閉店した。 閉店に際して開かれた「感謝の集い」には、千葉ロッテ球団からも集いに対する祝電が寄せられた。 千葉時代 [ ] から愛称を「オリオンズ」から「マリーンズ」に変更。 公募されたものの1位は「ドルフィンズ」だった。 しかし中日の略号「D」と被るために、他に使用例のない頭文字「M」の「マリーンズ」が選ばれた。 これは本拠地である千葉マリンスタジアムの名称にちなんだものであるが、が「マリーンズを日本語に訳すとどういう意味になるのか」と疑問に感じたため球団事務所に電話で問い合わせたところ、球団からは「一応、海の勇者という意味で使っています」との公式回答があったという。 ただし英語における名詞形のmarineには「海兵隊員」以外の意味合いはなく、このため公式サイト上の試合速報でもの文字が散見される。 オーナー企業であるは菓子の製造・販売を主たる事業としており、球団名との関連はない。 なお公募の際、「パラダイス」票が最終選考まで残った。 また変更なしの「オリオンズ」票も多数あった。 千葉にちなんで、有名な千葉を本拠地にした架空のチームを舞台にした漫画『』と同じ「パイレーツ」も多く票を集めたが、作品との混同とそれにまつわる権利上のトラブルを避けたのと、作中でのが(基本的には)笑い者にさえされている弱小チームであるため、実在のチームに名付けるのはイメージが悪いという判断で却下されている。 による選手の補強にはやや消極的である。 これまで、他球団からFAでロッテに移籍したのは、1995年オフの(前阪神)、2011年オフのサブロー(前巨人。 厳密には古巣に復帰)、2013年オフの(前西武)のみ。 かつては、所属選手でFA宣言した選手とは再契約をしない方針をとっていたが(例外は1998年オフのと)、2017年オフの涌井以降は再契約を認めるようになっている。 2018年オフに(前広島)がFA宣言した際には、地元・千葉県出身ということもあり獲得に動いた (丸は最終的に巨人に移籍)。 2000年代の後半以降になると以前にも増して長距離打者の不足に悩まされることが増え、2017年終了時点で30本塁打以上打ったのは、2005年のにまで遡る。 日本人では1986年の落合博満以来、四半世紀以上にわたって出ておらず、2019年までの33年間で日本人選手が年間最多本塁打を記録したのは初芝清が1995年と1998年にそれぞれ記録した25本であり、20本塁打以上を打った日本人選手も1987年以降では8人しかいない。 これに関しては、球場に吹く海風の影響が大きいと言われており、落合の記録も川崎球場が本拠地の頃のものである。 からまでは、12球団で唯一主催ゲームで地方開催を行っていなかった。 に千葉への本拠地移転25周年記念事業の一環として、を会場とした初の主管試合(7月12日・対ソフトバンク戦)を開催した。 地方主管試合としては2005年7月に西武ライオンズを帯同した、での試合以来11年ぶり、東京都での主管開催はジプシー時代の1977年に後楽園・神宮で各12試合ずつ・24試合を開催して以来39年ぶりのことであった (試合は4-0でホークスが勝っている)。 2017年は再び地方開催なしとなったが、2018年は5月15日に13年ぶりに富山市民球場アルペンスタジアムで、8月21日に2年ぶりに東京ドームで、それぞれ地方開催を行った。 2020年は6月30日に富山市民球場アルペンスタジアムで、9月8日に()での地方開催を予定していたが 、の感染拡大を受け、前記2球場での地方開催を断念することを2020年4月13日に発表した。 なお、水戸での開催は前身球団の大毎が1959年5月に対阪急戦を行って以来61年ぶりになる予定だった。 チームスローガン [ ]• 1993年:「心・技・体 '93」• 1994年:「激闘」• 1996年:「One at a time(一つ一つを大切に)」• 1998年:「Play Hard '98」• 1999年:「For The Team」• 2000年:「For the Team 2000」• 2001年:「For the Team Strive for Victory(チームのために勝利に向かって奮闘しよう)」• 2002年:「For the Team」• 2003年:「Ambition for Victory (勝利への執念)」• 2004年:「This year is beginning of the future. (今年から未来が始まる)」• 2005年:「BUILDING OUR DREAM! 〜夢をみんなで〜」 優勝直後には「We built our dream(夢を叶えたぞ)! 」の文字が公式サイトに現れた。 2006年:「Let us do it again(もう一度夢をみんなで)」• 2007年:「All Hands to The Flag! 〜結束、フラッグのために〜」• 2008年:「A Passion for Our Dream, A Commitment to The Flag(夢に情熱を、フラッグに誓いを)」• 2010年:「和」• 2011年:「和 2011」「今こそみんなで和の力」 「今こそみんなで和の力」は復興スローガン。 2012年:「和のもとともに戦おう」• 2013年:「翔破〜頂点を目指して〜」• 2014年:「翔破 〜頂点へ、今年こそ。 2015年:「翔破 〜熱く! 勇ましく!! 泥臭く!!! 2016年:「翔破~熱き心で~」• 2017年:「翔破~限界を超えろ! 2018年:「マクレ」• 2020年:「突ッパ! 」 マスコット [ ] マーくん 千葉ロッテマリーンズ マスコット 基本情報 国籍 出身地 幕張の浜 生年月日 8月9日 選手情報 投球・打席 右投右打 ポジション 経歴 (括弧内はプロチーム在籍年度) この表はテンプレートを用いて表示しています。 編集方法はを参照してください。 現在のマスコットである マーくんは3代目でがモチーフ。 等に使用されているほか、千葉県や千葉市のキャンペーンなどにも起用されている。 同じオーナーのもとにある兄弟球団にあたる韓国の、にもマーくん・リーンちゃん・ズーちゃんと類似のマスコット(イラストではユニフォーム・キャップなどの色違い)が制定されており、日本のマーくんにあたる ヌリがペットマークに使用されている。 マーくん 6歳・メインキャラクター ユニフォーム姿(背番号なしでネーム「MAR-KUN」のみ)。 メンバー(744号) 1992年に登場。 着ぐるみは数度変更されており、ペットマークに導入された際に現在のルックスとなった。 2012年3月1日からはのアカウントが独立。 元々千葉ロッテマリーンズの公式アカウントでつぶやいていたものの、専用のアカウントが出来たことで発言の頻度が増している 2012年4月現在。 千葉ロッテマリーンズの公式アカウントでつぶやいていたころの名残か、つぶやく際に毎回「マーです」と名乗っている。 のマスコット・曰く意外とロッテリアの競合会社であるが好きとのこと。 生粋のアイドルヲタクである。 つば九郎の妹・に想いを寄せられているようで、交流戦で神宮球場へ行くたびに猛アタックされている(『』を渡されるなど)。 しかし本人は興味を持つことなく、恐怖感を持って逃げ出したり、冷たい目で見ることが多い。 リーンちゃん 4歳・マーくんの彼女 でピンクのサンバイザーに白のトレーナーもしくはピンク系のスタジアムジャンパー・白またはピンクのプリーツミニスカート姿。 「マリーンズダンスアカデミー」の校長を務めている。 ズーちゃん 3歳・マーくんの弟 前後逆に被った黒のキャップに灰色のパーカーと水色のハーフパンツ姿で左頬に絆創膏。 クール COOL をモチーフに(登場当初はビン底メガネ。 環境問題に関するレクチャーを行なう時には掛け替えたりもする)。 マリーンズ誕生後の、オリオンズのマスコットとなるべく川崎球場にやってきてしまい、チームを探して日本や世界中をあちこち探し回ってようやく千葉にたどり着いたという設定。 、謎の新マスコットとして突然デビュー。 に名前が正式発表される。 登場当初は「ビジターチームのファンを盛り上げる」ということで相手チームのビジターユニフォームを羽織り、レフトスタンドや三塁側スタンドに陣取ったビジターチームのファンを盛り上げていたが、のちに正マスコットの座を狙う「悪のマスコット」というポジションに変更された。 8月に環境大臣(当時)より「環境戦士」に任命され、「環境戦士COOL」として環境問題啓発活動も行っている。 4月にテーマ曲「COOLだぜ! 」(作詞・作曲・演奏 )が作られた。 (普通・8トン未満限定中型一種)を持っているらしく、マイクロカーの運転までしてのける。 2017年2月5日を持って、卒業 いずれも基本的にはしゃべらないが、キャラクターショーでは野球マスコットにしては珍しくしゃべる(声優不明)。 また、イベント限定キャラクターとして、まれにの「チャンスくん」(「コアラのマーチ」にちなむ。 謎の魚 2017年5月より登場した新キャラクター。 名前は「魚」としか表記されていない。 第一形態は魚にあんこうのような提灯が点いた姿でスコアボードのビジョンに登場、第二形態はチョウチンアンコウのような見た目に、スリムな足が生えるという奇抜な出で立ちで現実世界に登場、この独特な見た目が話題となり、のサイトでも紹介された。 そして6月11日、第三形態として中身の骨が飛び出るという衝撃的なパフォーマンスを行い話題を呼んだ。 この際は、再び第二形態に戻って退場している。 その後2018年6月12日には大型化した骨の頭に緑の足が生えた第四形態、6月26日にはチョウチンアンコウ型の頭に緑の手足が生え腹にホームユニフォームと背中に虹色の模様とひれをあしらった第五形態が登場した。 コスチュームの基本は上述の通りだが、夏には謎の魚を除く4人がを着たり、に・麦藁帽子姿になったりする。 過去のキャラクター• 初代は東京オリオンズ時代の「桃太郎(刀の代わりにバットを持っている)」である。 2代目マスコットはロッテオリオンズ時代の「風船ガム坊や(バブリー君という説もある)」である。 営業・ファンサービス [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年1月) が球団代表に就任し、が監督に復帰した以降、千葉マリンスタジアムの「ボールパーク化構想」が方針付けられ、積極的なファンサービスに尽力するようになった。 によりロッテが千葉を去る可能性が取りざたされたことをきっかけに地元行政側との協力関係が結ばれるようになると、地域密着型のファンサービスがより積極的に展開された。 の際にこれを見た前オーナーのは「これこそファンサービス」と感動したという。 また、の最寄り駅ののも2005年3月26日から「We Love Marines」に変更するなど、スタジアム周辺の随所で地域との共存がアピールされ続けている。 一連のファンサービス向上には、荒木重雄事業本部長(当時)の貢献が大きく、荒木の在任時には、「12球団の中でファンサービスが一番良いのはマリーンズ」と評されていた。 ボールパーク化構想 [ ] 「ボールパーク化構想」の最大の障害となっていたのは、球団側と行政側との溝であった。 千葉移転以降のロッテの観客動員数の伸び悩みや市の財政難などにより、千葉市など行政側は施設の改修や増設にあまり積極的ではなく、球団がファンサービスの企画を立案しても行政側が条例を盾に認可を渋るケースが多々あった。 また、千葉マリンスタジアムは球場内が千葉市、の一部である駐車場などの球場外の敷地が千葉県の管理となっていた。 そのため、過去には売店の設置やフェンスの企業広告掲出が一切出来ず、球団に収益が全く入らない状態だった。 2004年以降は県と市の協力を得てこれを改善し、スタジアム敷地内に売店や屋台等を設置したり、動物とふれあう場所を作ったり、スタジアム内でもフェンス広告の掲出を開始したり、スタンド内にベビーベッドが設けられるなどの展開があった。 では、ロッテとダイエーを合併して「福岡ロッテホークス」とする案が取り沙汰された。 ロッテが千葉を去る可能性から行政側には危機感が生まれ、県と市は条例の改正などで千葉マリンスタジアムの使用規制を大幅に緩和し、さらに2006年度からはを導入して、球団を千葉マリンスタジアムのに指名して運営を委託するなど、現在では球団と行政とが一体となって地域密着策を展開している。 プロ野球球団が本拠球場の指定管理者になるのは、ロッテが初のケースとなった。 この他には、が同年開場した本拠地のの指定管理者となった他、に定める「管理許可制度」の適用による運営体制を導入しているケースとしては、が2004年まで本拠地(2005年以後は準本拠地)としていたと、2005年以後のの本拠地のの例がある。 また、2016年には、管理許可のもとでを運営していたの株式会社横浜スタジアムを、がにより買収している。 360度全席自由席 [ ] ロッテはから「360度全席自由席」と銘打って、本拠地の千葉マリンスタジアムの場内全席を自由席としてチケットを均一料金に割り引くファンサービス企画を、毎年夏の2試合を対象に行っている。 そもそも、この全席自由席企画は2005年6月28日と6月29日に予定していた韓国での公式戦(対)が中止となったことから()、その代替企画として打ち出されたものである。 韓国での開催が中止となった2試合は千葉マリンで代替開催することになったものの、週末に比べて動員力の低い平日のナイトゲームで、更に韓国開催を前提にシーズンシートの契約対象外としていたことから、球団営業部はイベントの実施を決定した。 こうして立案されたのが「来場者に色々な席で、様々な角度からゲームを見てもらえるように」という発想からスタンドを全席自由席とし、入場料も大人1500円、子供500円の均一料金にするという、NPB12球団の一軍公式戦としては初の試みだった。 加えて当日の企画案を検討した結果「夏前のフェスティバルのノリで、のように盛り上がれる企画」という方向性が決まり、ビールを通常の半額(1杯300円、ソフトドリンクも200円に割り引き)で販売するなどのサービス実施を決定、企画タイトルは「360度ビアスタジアム」と銘打たれた。 結果、2日間とも通常の平日のナイターを大幅に上回る観客を集め、概ね好評だった。 「ビアスタジアム」は翌シーズンも6月27日の対日本ハム戦、8月30日の対ソフトバンク戦の2度実施され(ただしドリンク類はブースのみでの販売とし、売り子の巡回販売は行わず)、6月の試合では観衆の一人単位までの発表を開始してから当時最多の29,152人を記録した。 はイベントのアイディアを一般ファンから募集し、全席自由席企画を「応援スタジアム」と「ビアスタジアム」の2本立てとして実施することとなった。 まず「応援スタジアム」は7月3日の対オリックス戦で実施。 通常の外野スタンド右翼側だけでなく内野スタンド一塁側も応援席とし、イニング間には応援ボードコンテストなどを実施。 また、ゲストとしてを招聘するなど(一部)、さまざまな企画が行われた。 恒例となった「ビアスタジアム」は7月31日の対楽天戦で行われ、全席自由席企画では最多となる30,016人の観客を集めた。 この全席自由席企画においては、スタンド内を全席自由とすることによって観客の動向が通常時と大きく異なることから、球団営業部では開催当日の場内を細やかにリサーチしている。 調査項目は「スタンドのどの席にニーズがあるのか」「どのような観戦スタイルをしているか」など細部にわたっており、調査結果は今後のファンサービスや座席設定など、球団の営業戦略に反映されている。 マリンスタジアム場内に設けられている特別シートは、この企画を実施する際の対応が異なっている。 一・三塁側のファウルエリアに設けられた「フィールドウィング・シート」のチケットを希望する場合は、あらかじめ前売入場券を購入した上で抽選に申し込む必要があり、当選者に限り座席指定券が発行される。 また内野1階席三塁側の「ピクニックボックス」のチケットを希望する場合も抽選に申し込む必要があり、当選者に限りチケットが販売される(販売価格は通常の15000円が7500円となる。 定員5名であるため、1人換算1500円)。 この措置は観客の安全性を確保する上で、両座席については規定の定員を遵守しなければならないため「指定席」の扱いとなることによるもので、これら抽選の申込受付はマリーンズオンラインチケットショップで開催日の3週間前に行われる。 但し、ネット裏のプレスブースに隣接する「マリーンズ・プレスシート」は座席設定・価格とも対象外で、通常時と同じ設定となっている。 その他の営業・ファンサービス [ ]• 夏休み期間中(7月下旬 - 8月いっぱい)の千葉マリンでの公式戦は全試合ナイター開催で、5回終了後にが打ち上げられる。 そのうちの1試合で開催される「花火ナイター」は毎年恒例となっている。 2007年度は平日のナイターは18時15分開始、週末は18時からの開始となっていた。 2009年度は金曜日以外の平日は18時15分、金曜ナイターのみ週末の初日で多くのファンを確保したいという観点で18時30分の開始 となった。 また、週末開催のナイターは土曜日のみ18時からは変わらないが、日曜日は薄暮デーゲームとして17時から行う。 また、この時期になるとである(・ ・)の車両で「花火ナイター号」が運行される。 は一部の例外(ロッテOBによるものなど)を除いてプレーボール直前ではなく、野手が守備位置につく前に行われる。 チームがホームゲームやイベントなどでパフォーマンスを行う。 2005年、東北楽天ゴールデンイーグルスが「スタメンに次ぐ控え選手の一人」として、背番号10をファンのための欠番にしたことが話題になったが、それに先駆けてマリーンズでは、ファンを「一軍の25人に次ぐ26番目の選手」として背番号26を欠番とした。 元々サッカーでは同様の理由で12番を欠番にしたり、サポーターが「12」という大きな横断幕を作っているが、マリーンズファンもそれに倣ってライトスタンドを覆う「26」をモチーフとしたデザインのビッグフラッグと呼ばれる大横断幕を試合開始前に広げるパフォーマンスを背番号26が欠番になる前から行っている。 スタジアム前の6冠記念モニュメントにも2005年当時の監督と選手のサイン付き手形レリーフと共にユニフォームマークの形でプレートが嵌め込まれている。 過去にはホーム戦でのラッキー7の攻撃前に「」が演奏されていた(現在は「」)。 地元千葉県のであるが、同球団およびファンクラブTEAM26のスポンサーになっている。 2004年4月からは毎年、同球団の成績により金利が変動する(通常金利に0. 026パーセント加算、リーグ優勝で0. 26パーセント加算)「マリーンズ応援団」を販売している。 2010年、2013年のでは全試合において千葉マリンスタジアムでが行われた。 入場無料ながら特別ゲストにを迎えたほか球団マスコットも総動員されるなど通常の試合以上のような盛り上がりを見せ、千葉市市長のも応援に駆け付けたほか、日本シリーズ進出が決まった試合では内野1、2階席が解放され約1万3000人の観客が訪れた。 2013年から交流戦では他球団を挑発するポスターが毎年制作されている。 2015年のクライマックスシリーズ時には対戦相手のファイターズとホークスに対する挑発ポスターを制作した。 結果はファーストステージでは2勝1敗でファイターズを下したものの、ファイナルステージではホークスに3連敗(アドバンゲージ1勝を除く)し終戦。 ポスター内にあったを意味する「二度ある事は三度ある」を達成することはできなかった。 2016年のクライマックスシリーズ時にはファイナルステージに進出した際に対戦相手のファイターズ対する挑発ポスターを制作したが、結果はファーストステージで2敗で敗れ、一時はお蔵入りの危機に瀕していたが、「来季は大谷投手に勝る存在感で優勝して欲しいとの思いから、あえて公開しました」という理由で2016年12月5日に公開された。 内容は「二刀流対伊東(いっとう)流」である。 2016年4月29日に開催された対北海道日本ハムファイターズ戦では、隣接するで同日開催された「」とタイアップ、『超野球』と題して当日のニコニコ超会議入場券所持者は特別に用意された「超野球観戦シート」にて入場無料で観戦できるようにした。 また当日は、7回裏直前にフィールド内での片づけ作業体験や、球場内で来場者が生放送配信できる「超野球ユーザー生放送」などの企画も合わせて実施された。 12球団の中では禁煙に積極的に取り組んでおり、2019年7月26日から本拠地ZOZOマリンスタジアムの喫煙所を専用に切り替え、の全面禁煙に踏み切った。 また、2020年シーズンからは選手・コーチ・球団職員も含めた全スタッフに対し、勤務時間中の禁煙が発表された。 公式ファンクラブ『TEAM26』 [ ] 球団公式ファンクラブ『 TEAM26』があり、プレミアムゴールド・ゴールド・レギュラー・カジュアルレギュラー・ジュニア(いずれも有料)・マリーンズ(無料)の6コースがある。 前売りチケットやグッズの購入で Mポイントを貯めることが出来る。 2010年度(2011年1月31日)までの「 TEAM26」会員証はとの提携による機能搭載のカード一体型だった。 独立リーグへの派遣構想(2007年) [ ] 10月1日のプロ野球運営実行委員会で、球団社長(当時)のは、5 - 8人程度のを獲得した上で、である四国アイランドリーグ(現:)のに派遣する構想を表明した。 当日の委員会では結論が出ず、継続審議の扱いになった。 一部球団からは「の混成チームであるフューチャーズの活用が先ではないか」といった意見が出された。 その後、社会人野球側から「育成選手制度の本来の趣旨と異なる」という指摘がなされ、内部の他に社会人野球側とも調整が必要な状況となった。 2007年11月6日のプロ野球運営実行委員会でも合意には至らず継続審議となったが、次回の委員会の前にドラフト会議を迎えるため、来季の派遣については困難という報道がなされた。 2007年のドラフト会議で獲得した育成選手5名(、、、、)は、支配下登録を受けた1名(宮本)を除き2009年のシーズン終了後にを受けて退団。 このうち、アイランドリーグから指名された小林は同リーグに所属していたへ入団し、白川と大谷は徳島へ入団した(池田は引退)。 約4年半が経過した3月1日にNPB実行委員会が、育成選手に限り四国アイランドリーグplusとへ選手の派遣を認めた。 ただし、ロッテはこの制度による選手派遣を実施していない(2016年現在、派遣実績がある球団は・・・・)。 3月にベースボール・チャレンジ・リーグのと業務提携を行い、ロッテ球団職員のがトレーニングコーチとして派遣されることになった。 ユニフォームの変遷 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年1月) 東京・仙台・川崎時代 [ ] 毎日時代 [ ]• (シーズン開幕前) - 練習用(プロトタイプ)として、白を基調としたものとグレーを基調としたものを使用した。 白地・濃紺ツバの帽子、白地のシャツ・パンツ(ズボン)、濃紺のアンダーシャツ。 シャツには「Mainichi」の胸マーク(筆記体)が入った。 濃紺地の帽子、グレー地のシャツ・パンツ、濃紺のアンダーシャツ。 シャツには「Mainichi」の胸マーク(筆記体)、左袖に毎日新聞社社旗を流用したデザイン(赤い社章と二本線)が使われた。 胸マークについては、発行の書籍『プロ野球ユニフォーム物語』(著:・絵:綿谷寛)では、赤となっているジン着写真(当時発売されたブロマイド)が掲載されているが、著者の綱島は「胸マークには赤は無かったとも思われる」として、綱島が推定した上で濃紺に塗り変えた写真も一緒に掲載している。 1950年 - - ホーム用は当時のニューヨーク・ヤンキース、ビジター用は当時のをイメージして作られた。 1950年シーズン途中から左袖には毎日新聞社の社章に代わりトリコロールのワッペンが付いた(からはの枝と「1950」(優勝年)の金糸文字が入った。 シーズン途中からはを起こした責任を取る形で廃止したが、には「Orions」ロゴが入る形で復活)。 シャツ・パンツは、白地に濃紺縦じま(ホーム用)、グレー地(ビジター用)。 アンダーシャツは、濃紺。 胸マークは、ホーム用 - 左胸に「M」マーク(飾り文字書体。 濃紺・白縁取り)・ビジター用 - 「Mainichi」(筆記体。 )、「Orions」(セリフ風書体。 濃紺・白縁取り。 1950年シーズン後半より使用)。 帽子は濃紺地に白い「M」マークの入ったもの。 には、白地に濃紺縦じまに白「M」マーク・濃紺ツバの入ったもの(ホーム)、グレー地に白「M」マーク・濃紺ツバの入ったもの(ビジター)も使用された。 には、グレー地などを基調としながら、首周り・袖・ズボンサイドにラインが入ったビジター用を、には、「Orions」に代わり「TOKYO」の胸マーク(の「NEWYORK」に似た書体)が入り、ラインを外したビジター用をそれぞれ使用した。 - - 球団名が毎日大映オリオンズとなり、胸マークも「Orions」となるが毎日時代のスタイルを踏襲。 また、大映からゴシック体の番号フォントが継承された。 ビジター用は最初「DAIMAI」だったが、から「TOKYO」に変更される。 この間、が付く。 帽子マークは、1958年に「D」と「M」を重ねたマークが採用。 は左上よりに「D」右下よりに「M」の字を絡ませたマーク、その後、(「O」マーク)、(「T」と「O」を絡ませたようなマーク)に帽子マークの変更を行った(いずれも白色)。 ビジター用は最初上下グレー地だったが、1960年はブルーグレー地に白の縦じまが入ったものを使用。 翌年以降は再びグレー地となった。 - 赤色をふんだんに使ったホーム用ユニフォームが登場。 左袖のワッペンは小さくマイナーチェンジされたもの(「Orions」の文字なし)が使用されたが、シーズン途中のの対近鉄戦より左袖にペットマーク(バットを持ったのイラストが描かれたもの)がつく。 帽子マークは「T」(赤色・白縁取り)。 胸マーク・番号・ライン(首周り・袖・ズボンサイド) - 赤色・濃紺縁取り。 - - ホーム用がドジャース風(ただし、青ではなく紺を基調としており、胸マーク・背番号は赤、胸番号は紺)となり、縦縞が廃止される。 左袖には桃太郎のマークが形を変え引き継がれた。 当初首周り・袖・ズボンサイドに赤ラインがあったが翌年廃止され、さらにドジャースに近くなった。 このデザインはロッテになってからも引き継がれた。 帽子は、濃紺地に白文字の「T」。 ロッテ時代 [ ]• - - 株式会社が(1971年から正式な親会社)となり、球団名がロッテオリオンズに改称。 ホーム、ビジター用共胸番号が消え、赤の「 LOTTE」だけのシンプルものになり、「Orions」のロゴは左袖に移る(色は青)。 背番号(赤色)はオリジナル書体。 また帽子のマークがLとOとの組み合わせと星のマークがついたものになる。 - - の監督就任に伴い、ユニフォームを一新。 帽子・アンダーシャツが青から紺に代わる。 また、金田のアイデアを取り入れたニット素材の特徴を生かし、肩、袖、パンツからボディにかけて、両サイドを紺で挟む赤の太ラインが入る。 「LOTTE」の胸ロゴは紺色に赤の縁取りのゴシック体(背番号も同様)となり、「Orions」のロゴは消滅(基本ユニフォームとなるホーム用に企業名のみを表したということ)。 また、背番号の上に選手名が入り、胸番号が復活する(胸番号・選手名は紺)。 帽子のLOと星マークに、赤の縁取りが入る。 ホーム用はオフホワイト地。 ビジター用はスカイブルー地で、胸ロゴはホーム同様「LOTTE」。 翌より、胸ロゴ・背番号の色が赤色に紺の縁取りへ変更され、ボタンの素材が、白の2つ穴から透明4つ穴タイプに変わる。 より、スパイクの色が黒地に白ラインから白地に紺ラインに変わる。 より、ボタンの素材が透明からユニフォームの地色と同じ色に変わる。 金田監督より、ラインは生地の上に乗せるのではなく、生地と生地との間にはめ込むよう要望があり、当時の技術では非常に苦労したという。 千葉時代 [ ]• - - 本拠地がに移転し、球団名が「千葉ロッテマリーンズ」となり、初めてプルオーバー・タイプを採用。 サンライズ・ピンクとカレント・ブルー(ブルーグレー)で千葉県のイメージを前面に押し出した。 帽子は、黒色地に帽子マークはピンクの縁取りに黒文字でCLM(Chiba Lotte Marinesの略)で真ん中に波模様が入ったもの。 シャツ・パンツは、白(ホーム)、ブルーグレー(ビジター)をそれぞれ採用。 首周り・袖口には、黒・ピンクのライン(外側にピンク)が、ズボンサイドにはピンクを黒で挟んだラインが入る。 胸マークには「Marines」(筆記体)を、左袖にはホーム「CHIBA」ビジター「LOTTE」(親会社ロッテのロゴマーク)のマークをそれぞれ採用。 胸マーク・番号にはピンク・黒縁取り、左袖マーク・背ネームには黒を使用。 - - する事情から、の提案によりユニフォームを一新。 チームカラーを白と黒を基調にしたものになる。 毎日オリオンズ時代から東京時代まで使われていた縦縞が29年ぶりに復活し、を模したデザインになる。 さらに、当時球界で主流になりつつあったユニフォームのパンツ裾を足首まで下げるスタイルを、広岡GMが非常に嫌っていたため、オールドスタイルを実現すべく長めのストッキングを採用(上部に白いMマークのが入る)。 また、スパイクは黒地にホワイトのラインのものに変更。 - 夏季の週末のホームゲーム限定で白地に黒の「M」マークを入れた「サンデーキャップ」を採用。 (初登場は7月20日のダイエー18回戦。 - 夏季の週末のホームゲーム限定で「サマーユニフォーム」を採用。 日本では中日に次いで2チーム目の採用となるノースリーブでロゴはビジター用と同じ「Marines」。 キャップはつばの部分をグレーに変更。 - - ビジターでの負けが多いことから、上下グレーのビジター用ユニフォームを上が黒、下がグレーの新たなユニフォームに変更した(球団史上初の上下ツートンカラーのユニフォームである)。 ビジターゲームでマリーンズファンが「黒の軍団」と称されるのは、この頃からである。 - 2004年 - サードユニフォームとして上下グレーのビジターユニフォームが採用(翌年はセカンドビジターユニフォーム)。 このユニフォームは金曜日、土曜日、日曜日のビジターゲームに使われ、その他の曜日のビジターゲームでは黒い上着のユニフォームが使われた。 おおむね、同時期ののビジターユニフォームに、既存のロッテのユニフォームのマーク・背番号を張り替えたようなデザインだった(ただし、ラインは阪神と違い白に黒を挟んだものであり、阪神のそれと比べ細かった)。 - - 復帰したバレンタイン監督の提案で、上記のホーム用ユニフォームにプラスする形で、黒いダンダラ帯のはいったサンデーユニフォームが登場。 初年度は縦縞の入ったホーム用の白パンツとの組み合わせだったが、翌年から法被に合わせてデザインされた新たな白パンツが登場した。 よりユニフォームの名称を変更し、法被と白パンツを組み合わせたものを「 誠(まこと)」、法被と黒パンツの組み合わせを「 侍(さむらい)」、それまで使われてきた上下縦縞を「 戦(いくさ)」とした。 また、上下グレーのセカンドビジターユニフォームは廃止され、ビジター用のユニフォームは1種類のみとなった。 パンツも「誠」と同じものへ変更。 「戦」以外のホーム時やビジターでは、帽子のツバには濃いピンクと白のギザギザがデザインされ、Mの文字にはピンクのシャドウが入ったものを使用。 ホームゲームでどのユニフォームを着るかは、メジャーと同じく先発投手が自由に選んで決められる方式にした。 (基本的に連勝中は縁起担ぎで変えた投手はいなかった)この年の後半にはいい状態でチーム状態が継続していたため、普段は「戦」を選択するさえ縁起担ぎで「誠」を使用。 ポストシーズン(・・)のホームゲームでは「誠」で戦い全勝した。 しかし、「戦」「誠」が選手に受け入れられたのに対し、「侍」は「格好が悪い」ために選手から敬遠されていた。 実際、2005年に公式戦で「侍」が着用されたのはホームゲーム連敗中のの対戦の1回だけで、先発のがこのユニフォームを選択したが、その試合は3-11と大敗。 その後「縁起が悪い」と敬遠されたのか、「侍」を選択した先発投手はいなかった。 - - 2005年のアジアシリーズ制覇を記念したチャンピオンエンブレムが袖に入る。 図案は「CHIBA LOTTE MARINES」の白文字入り黒リングで囲まれたボールを背景に「05 Marines ASIA」の文字、「CHAMPIONS」の白文字が入った赤リボン、最下部に6冠を表す銀の六連星。 - - 社がオフィシャルサプライヤー契約を締結、デザインをマイナーチェンジ。 チームカラーを「白、黒、赤」とし、ホーム用は従来のストライプタイプ「戦」と、「誠」の袖のダンダラ帯と胸ラインを赤色にした2タイプがある。 ビジター用は黒を基調とし、上から下へ向かって黒から白へと徐々にグラデーションしたもの(日本プロ野球史上初のデザイン)である。 またビジター用ユニフォームには右胸に球団ペットマークが浮き上がって出るようにあしらわれている。 「戦」以外は、背番号の書体も丸い斜体文字へ変更されている(ホーム用「誠」は赤、ビジター用は黒)。 - ロッテのプロ野球参入40周年を記念した「ORIONS-MARINES 40th ANNIVERSARY」エンブレムが袖に入る。 - - バレンタイン監督の退任に伴い、「戦」以外のユニフォームのデザインが変更(各ユニフォームのニックネームも廃止)。 チームカラーの一つとされていた赤が消えた。 ビジター用はグラデーションを廃止し、黒地に白のカットラインが入る。 サードユニフォームはラグランスリーブ部に黒を配した。 ビジターとサードにはそれぞれ右袖には2段組みで「CHIBA LOTTE」の文字が入る(ホームは今までどおり「LOTTE」のみ)。 帽子は従来の黒帽子で統一された。 右袖に2006年から付けられていたアジアシリーズチャンピオンエンブレムが廃止。 右胸のワッペンスポンサーがからに変わる。 なお、サードユニフォームが使われたのは、2010年は4月25日、6月30日、8月1日の3試合(対戦相手はいずれもソフトバンク)、2011年は6月8日の阪神タイガース戦の1試合、2012年は7月16日、17日の楽天戦の2試合のみであった。 2013年は、後述の2012年の限定ユニフォームがサードユニフォームとして着用された。 - 現在 - ホーム、ビジター共に新素材を使いユニフォームを軽量化。 また、ビジターユニフォームはデザインを変更し、「闘志あふれる勝利への執念」を表している。 前年まで使用したユニフォームと同様に黒地に白のカットラインが入る。 胸ロゴが「Marines」 胸ロゴ・胸番号・背番号共に白字で赤で縁取り 、背ネームは白字。 両袖に赤のライン、左袖に丸にカモメのロゴマークが入る。 なお、ビジターユニフォームには2段組の「CHIBA LOTTE」の文字はなし。 ズボンはグレーで、サイドの腰から膝までの部分のみ赤のラインが入る。 帽子は黒でロゴが「M」 白字で赤で縁取り 、ツバの縁が赤。 また、ホーム、ビジター共にズボンにの広告が入る。 ホーム用は帽子が前年まで使用していたもので、つばのふちが白。 - このシーズンよりキャップへの広告表示が認められ、キャップ左即部にの広告が入る。 - このシーズンよりサプライヤーがデサントからに変更される。 大きなデザインの変更はないが、刺繍から昇華プリントに変更され軽量化が図られた他、選手名・背番号の字体などが変更される。 広告はキャップ左即部が、右胸のワッペンが、ズボンがにそれぞれ変更。 - このシーズンよりビジター用のズボンがグレーから白に変更。 - サプライヤーがユニホームはに、キャップはに変更される '47がNPBのサプライヤーになるのは初めてとなる。 合わせて「PINSTRIPE PRIDE」というコンセプトの下、ビジターユニホームにもピンストライプを採用し、ビジターマリーンズの象徴である「ブラック」と掛け合わせることで強さと威厳、相手チームへの威圧感を兼ね備えたデザインに変更した。 キャップもビジター用は「M」が黒文字となっている。 限定ユニフォーム [ ]• - の2カードで、ロッテのプロ野球参入40周年記念として、オリオンズ時代のホーム用ユニフォーム(1991年まで使用)を復刻した。 「 1」の書体については、当時のものは左上が欠けていたが、復刻版は欠けていない書体(カギカッコのような書体)を使用した。 - のオリックス戦で、前年に続いてロッテのプロ野球参入40周年記念として、オリオンズ時代の1972年まで使用されたホーム用ユニフォームを復刻した。 、千葉移転20周年を記念してホームゲーム限定で、1992年から1994年までのホームユニフォームを復刻使用している。 上記の2008年のユニフォーム同様、「 1」の書体については欠けていない書体(カギカッコのような書体)を使用した。 、パ・リーグ共同企画「」の一環で、オリオンズ時代の1991年まで使用されたビジター用ユニホームを復刻。 ただし、復刻ユニフォームの右胸には、パンツ左側にはの広告が付く。 "ALL for CHIBA"シリーズ [ ] 2012年の千葉移転20周年記念イベントをきっかけに、胸に「Chiba」のロゴが入れられた特別ユニフォームを着用し千葉県への感謝と千葉県と共に戦う思いを表現した特別試合企画。 なお、マリーンズのユニホームに「CHIBA」のロゴが入ったのは1992年の移転後初。 一軍の公式戦数試合で着用するほか、二軍の公式戦でも数試合限定で着用。 2013年から2015年は「埼玉VS千葉シリーズ」ででも着用された。 2015年は4月の3連戦においてでも着用されている。 千葉県公式マスコットキャラクターのの赤・移転当時のユニフォームのサンライズピンクを掛け合わせた「サンライズレッド」をメインカラーとした「新・CHIBAユニフォーム」を着用。 胸には球団ロゴを模した「Chiba」ロゴが表記され、胸番号・背番号・選手名ロゴはマリンフェスタユニフォーム(後述)と同様。 ビジターユニフォームと同じ形の黒いカットラインが入る。 - 、「CHIBAユニホーム」をマイナーチェンジ。 胸番号・背番号・選手名ロゴは、同時にマイナーチェンジされたホーム・ビジター用と同様のタイプに変更。 前年と同様に「サンライズレッド」をメインカラーとしており、両肩から脇の部分に黒の太いラインが入っている。 さらに、キャップ、パンツの裾部分に赤いドット調をあしらうことで波しぶきを新たに表現したことが大きな特徴。 右袖に本拠地・ZOZOマリンスタジアムのある千葉市、秋季キャンプ地である鴨川市のほか、県内での2軍試合を開催する8都市、合計10都市の名前入りロゴを試合別で掲出する。 翌は2軍試合開催地が1都市増加し、合計11都市を掲出。 、ZOZOTOWNプロデュースによるデザインを採用。 サンライズレッド地にチーム名の頭文字であるMとチームの象徴であるカモメを表す黒い縁取りに白のM字型のパターンをユニフォーム全体にあしらい千葉が一丸となり未来に向かい羽ばたく思いを表現するものとした。 マリンフェスタ [ ] 「月1回のファン感謝デー」をテーマに、毎月1試合で特別ユニフォームを着用して試合を行い、さらに試合の前後に選手がトークショーやサイン会などのファンサービスを行うイベント。 なお、シーズン後に開催されるファン感謝デーは「スーパーマリンフェスタ」と題し、その年に使用された特別ユニフォームを着用する。 :「若手の多いチームの持つ元気さ爽やかさ」「ロッテの本拠地・QVCマリンフィールドのある千葉・幕張の海のイメージ」を表現した「マリンブルー」をメインカラーに使用した限定ユニフォームを着用。 胸ロゴは「Marines」で、胸番号・背番号・選手名ロゴはホーム・ビジター用とは異なる字体を採用。 脇から袖の部分に黒いラインが入る。 :前年同様の2コンセプトに加え、「海の上に広がる空」をイメージした青と白色を基調とし裾に向かって薄くなるグラデーションタイプのユニホームを使用。 なお、ロッテがグラデーションタイプのユニホームを採用するのは、2008〜2009年に使用されたビジターユニホーム以来となる。 ビジターユニフォームと同じ形の黒いカットラインが入る。 :胸の「Marines」ロゴは海をイメージした青い迷彩柄の中に白いカモメのイラストをデザイン。 また、同年の「CHIBAユニフォーム」と同様、キャップ、パンツの裾部分に青いドット調をあしらうことで波しぶきを新たに表現している。 「CHIBAユニフォーム」と共に、胸番号・背番号・選手名ロゴは、同時にマイナーチェンジされたホーム・ビジター用と同様のタイプに変更。 :井口資仁監督就任1年目から「波に乗り」「ウェーブ」を巻き起こすという気持ちを込めて、力強い波をベースにチームの象徴であるカモメを全体にあしらったデザイン。 胸の「MARINES」ロゴは前年までと異なって全て大文字となり、ロッテオリオンズ誕生50年目のシーズンを記念して、1969年にロッテオリオンズとして最初に登場したユニフォームのアーチ型ロゴをモチーフとしたデザインに変更。 :本拠地ZOZOマリンスタジアムをイメージした淡いブルーを基調に、白のストライプを球団の象徴として採用しストライプの細部に数多くのカモメを入れたデザインとし、背ネームには親近感を高めるべくニックネームを表記する。 :本拠地ZOZOマリンスタジアムをイメージしたブルー色にチームカラーであるホワイトを合わせ爽やかな幕張の海と青空を表現したものとし、背ネームのニックネームは一般から公募した。 先祖帰りのユニフォーム [ ] 「千葉ロッテマリーンズ」となった、広告代理店のがデザインを担当し、「今までのプロ野球にない色使い」を重視し、チームのイメージカラーとしてピンクが採用された。 球団旗・ペットマーク・ユニフォームにピンク色は採用され、明るいパステル調のこのピンクは「サンライズ・ピンク」と名付けられ、「陽気さ・親しみやすさ・楽しさを表し、未来へと広がる千葉のイメージをも表している」と説明された。 またビジター用ユニフォームの地色となった水色も「カレントブルー」と名付けられ、「沖合におけるとのぶつかり合い」と定義付けられた。 なおOBのが2018年に『』のインタビューに語った内容によると、初代ユニフォームの選定段階ではいくつかのカラーパターンが選手側に提示され、その中でエメラルドグリーンが一番人気を集めたという。 しかし結果的にはオーナー代行のの鶴の一声でピンクに決まり選手は一様に落胆した、と振り返っている。 ところが、に監督に就任したはピンクの「Marines」ロゴが入ったユニフォームを「戦う者の着るユニフォームではない」と批判。 全体的に毎日創立時のデザインと似通っていたため、「先祖がえりともいわれ、多くのファンに歓迎された。 」と、の書籍『プロ野球ユニフォーム物語』に、先述の変更へのいきさつとともに記述されている。 ただし、小宮山悟が前述のインタビューに語った内容によると、上記の批判をしたのはバレンタインではなくであるという。 その他 [ ] には、通常のホームユニフォームをノースリーブとしたノースリーブユニフォームを夏季に使用した。 - の日本ハム戦()で、日本ハムがブラックを基調とした特別ユニフォームを着用するのに伴い、普段のブラックのビジター用ユニフォームではなく、ホーム用のストライプユニフォームを着用。 2017年は宮城球場で東北楽天が黒のユニホームを着用するのに伴い、通常のホームユニホームを着用した。 「ブラックブラックナイト」と呼ばれる、ホームの試合で普段のホーム用のストライプユニフォームではなくビジター用ユニフォームを着用する試合を毎年1試合程度行っている。 例外としては2試合(4月4日と7月31日で、対戦相手は両日ともに同じ戦であった)。 ・の対戦相手だったはビジター用ユニホームがマリーンズのそれと同じ配色だった為、ホーム用ユニホームでプレイしている。 MAKUHARI SUMMER STADIUM 2018年 - にかけてのホーム7試合・ビジター6試合にて、オーストラリアのサーフブランド・ビラボン()によるをモチーフとしたボタニタル柄デザインのユニフォームを着用。 2019年7月7日 - 8月12日にかけてのホーム7試合・ビジター6試合にて、ビラボンによるハワイをテーマに「TRADEWINDS(貿易風)」のコンセプトで貿易風がもたらす自然や文化をヴィンテージ風に表したデザインのユニフォームを着用。 球団旗の変遷 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年1月)• 中央の白の部分に黒文字で「Orions」とロゴが染め抜かれた。 その後も3回の球団名変更後もそのまま使用される。 ちなみに、このトリコロールは当時の親会社・のグループ企業にも波及しておりやのにも採用されている(但し、両社とも上部は赤ではなく濃い橙色)。 1971年 - 1991年 - ロッテが正式な親会社となるが、球団名は変わらなかった。 おおまかなデザインはそのままだが中央の「Orions」の左に赤文字で「LOTTE」のロゴが入る。 1992年 - 1994年 - 球団名が千葉ロッテマリーンズとなる。 白地にマリーンズのロゴ(MARINESが筆記体で描かれており、その下にCHIBA・LOTTEの文字)、そして下の部分は当時のユニフォームの基調の色にも採用された「サンライズピンク」と「カレントブルー」のツートンライン。 「千葉沖の海流のぶつかり合い」をイメージ。 1995年 - 現在 - シルバーを地色に、上に黒文字で小さく「CHIBA LOTTE」、その下に大きく「Marines」ロゴ。 右斜め上に球団のマスコットにも使われているカモメを1羽。 マリーンズファンと応援スタイル [ ] 詳細は「」を参照 スポンサー [ ]• ユニフォーム右袖 (1992年度 - ビジター用ユニは1992年度 - 2013年度、2019年度 - )• ユニフォーム右胸 (2017年度 - )• パンツ右側 (2018年度 - )• ヘルメット 、• キャップ左側 (2016年度 - ) 歴代本拠地 [ ]• 1978年 - 1991年• シーズンはをに置き、宮城球場と首都圏の他球団本拠地などで主催公式戦を行った(このため名目上のとしての届け出はこの年できなかった)。 同年12月21日の実行委員会で翌から暫定的に保護地域をに移転することが決まり、1974年からの間は同県を保護地域とした。 しかし球団事務所は従来と同じく東京都に置き、試合の開催方法も1973年とほぼ同様だった。 1953年 : (登録上は1950年 - 1952年も監督 )• 1954年 - 1959年 :• 1960年 :• 1961年 - 1962年 :• 1963年 - 1965年 :• 1966年 :• 1967年 :• 1967年 - 1971年 :• 1971年 - 1972年 :• 1979年 - 1981年 :• 1982年 - 1983年 :• 1984年 - 1986年 :• 1987年 - 1989年 :• 1990年 - 1991年 : 金田正一(第2次)• 1992年 - 1994年 :• 1995年 : (第1次)• 1996年 :• 1997年 - 1998年 :• 1999年 - 2003年 :• 2013年 - 2017年:• 2018年 - :• 1952年は7月27日まで指揮、残り試合は別当薫が代行。 実際の指揮は総監督の湯浅が執っており、公式記録上も湯浅が監督として扱われている。 1952年は7月27日までで辞任。 ここから毎日大映オリオンズ• ここから東京オリオンズ• ここからロッテオリオンズ• 1975年は4月22日まで指揮、5月6日に復帰するまではが代行。 1990年は6月23日まで指揮、7月27日に復帰するまではが代行。 ここから千葉ロッテマリーンズ• 1994年は7月31日まで指揮、残り試合はが代行。 レギュラーシーズン2位からプレーオフを制してパリーグ1位• 優勝は達成無し、クライマックスシリーズを制して日本一を達成。 永久欠番 [ ] マリーンズファンの背番号26• 26 (2005年 - )- 千葉ロッテマリーンズは度以降、26をの10番同様にファンのための欠番としている(25人に次ぐ「26番目の戦士」の意)。 最後に26を付けた選手は(2003年 - 2004年)。 試合中はダッグアウトの壁に、個人ネームがなく背番号26だけが付いたユニフォームシャツがハンガーで掛けられており、試合に勝った時には、ヒーローインタビューを受けた選手が、ファンへの感謝を込めてそのユニフォームをファンの前に掲げる(マスコットのマーくんが掲げることもある)。 2006年からはこれにちなみ、ファンクラブ制度を大幅にリニューアル、 TEAM26と命名する。 準永久欠番• 8 (1987年 - 1991年)- 現役引退後欠番となっていたが、1992年の千葉移転後、が付けたことで欠番ではなくなる。 後に(1994年 - 1996年)、(1997年 - 2002年)、(2003年 - 2004年)、(2005年 - 2015年)が付けていた。 2017年からはが付けている。 俗に「ミスターマリーンズ」と称される背番号である。 沢村栄治賞受賞者 [ ] 時点の12球団ではのみ未選出である。 主な歴代の球団歌・応援歌 [ ]• 戦う男達のテーマ()• (毎日球団の歌)• われらロッテ親衛隊• オリオンズ! マリンに集う我ら 2010年に作られ、当時のでの試合開始前に流れていたが、2011年3月に球場名がQVCマリンフィールドに変わったため使われることが少なくなっていたが、同年7月に復活し、2012年から2014年は7回裏攻撃前に流れ、2015年は試合開始前、2016年は5回終了後とビジターユニで開催時の試合開始前に流れ なお、2017、2018年も 、2018年以降は9回終了後の延長戦入る前に流れるほか、2019年は試合終了後に勝利した場合に流れる。 マリンフィールドの風• 千葉、心つなげよう• ONE HEART MARINES 主なキャンプ地 [ ]• ほか( - 、 - )• ・( - )• ・( - )• ( - 、春季キャンプ)• (秋季キャンプ)• (二軍春季キャンプ) 主なトピック [ ] 最長試合 [ ] 、での戦の第2試合は試合時間が5時間15分(4-4のまま決着付かず延長13回、当時の規則に基づき時間切れ引き分け)となり、当時の最長試合時間となった。 5時間超えは当時の日本プロ野球史上初の出来事でもあった。 その後、この日本最長記録は更新(全て、または)されているが、、での戦では、セ・パ交流戦を除いたパ・リーグの公式戦では当時歴代最長となる延長12回、5時間42分を戦い9-8で勝利した。 また、ポストシーズンではの、でのとの第1戦では9回の最長試合時間記録である5時間17分を戦い4-4の引き分けに終わった。 の、でのとの第6戦では延長15回、5時間43分を戦い、2-2で引き分け、日本シリーズにおける歴代最長試合時間記録を35年ぶりに塗り替えている。 幻の合併計画 [ ] 現在の千葉ロッテマリーンズの前身である毎日オリオンズは1949年に創設され、1957年にと合併し、その後経営権の移転や改称などを経て現在に至るが、同年以降、プロ野球再編に絡むなどして球団合併構想に巻き込まれたことが2度ある。 1973年、日拓との合併構想 、ロッテオリオンズは最初のシーズンを終えた。 一方、ロッテと同じく東京都を保護地域としていたはオーナー企業の経営難等により、同年に球団の経営権がからに譲渡され「日拓ホームフライヤーズ」に改称したが、同年もパ・リーグは観客動員の面では苦戦を強いられた(ただ同年、ロッテはパ史上最多の観客動員を記録している)うえ、プレーオフを制して日本シリーズに進出したも(巨人)の前に1勝4敗で散り、巨人のを許した。 この当時の状況に、日拓のオーナー・西村昭孝はシーズン終了後「パ・リーグに将来性はない」と判断、日拓とロッテを合併し、さらに1リーグ制への移行を画策し始めた。 前述の通り、当時ロッテはジプシー生活を強いられていたため首都圏で常時主催試合を開催できる環境を求めていた。 またロッテのオーナー・も球団経営にあまり執心がないと憶測されたことから、合併調印は時間の問題といわれていた。 さらには関西でも球団合併構想が取り沙汰され、「10球団1リーグ化へ」などと先走った報道もなされた。 しかし重光はこの合併を否定。 結局、合併そのものもほどなく破談となり、球界に嫌気がさした西村は球団経営権をに売却、事態は収束した(この一連の詳細はを参照)。 2004年の球界再編問題 またには、とオリックス・ブルーウェーブの合併構想に端を発し、1リーグ制移行に加え、球団数が奇数となるためさらなる球団数削減が取り沙汰される再編問題が勃発した(詳細はを参照)。 この過程でロッテは、当時親会社の経営難から球団の維持が困難といわれていた福岡ダイエーホークスに合併を申し入れたことが判明。 オーナー企業はロッテ、本拠地は、二軍の本拠地に千葉マリンスタジアムとし、球団名は「福岡ロッテ・ホークス」とするなど、具体案についても報じられたが、結局実現には至らなかった。 また、ロッテとを合併して、「ロッテライオンズ」、と合併して「ロッテスワローズ」とする構想もあったが 、これも西武とヤクルトが単独での球団保有を表明したため実現しなかった。 結局同年オフ、ダイエーはの支援を受けて経営再建を図ることとなり 、ホークスはに売却されてとなった。 ロッテ本社は1971年から球団を保有しており(としては1969年から)、2012年現在パ・リーグの現存6球団の中では最も古くから経営権を所有している。 なお福岡移転問題はこれが最初ではなく、川崎球場時代の1984年に稲尾和久が監督に就任した際、への移転の実現を前提として就任を受諾したとされているが、このときも本拠地の移転は実現しなかった。 ライオンズとの遺恨 [ ] 詳細は「」を参照 幻となったダイエーへの球団売却構想 [ ] ロッテは1980年代後半に当時のオリオンズ球団の身売りを検討した事がある。 1987年に2年前(1985年)の優勝を機にプロ野球の球団経営に興味を持っていた流通大手のダイエーに接触。 ロッテとダイエー両社による会談に加え、行政への根回し、ダイエー各店舗におけるロッテ商品取扱を増やす、更にはまたは(後者への移転が有力視されていたが、福岡移転計画浮上時でも前者もサブフランチャイズとして検討された)への本拠地移転も検討するなど、オリオンズ球団の売却は確実の段階にまで来ていたものの、合意寸前でロッテが球団保有を継続して別の本拠地に移転する方針に変更したため、ロッテの売却は中止となり、福岡移転・神戸サブフランチャイズ化は実現されなかった。 しかし、ロッテの球団売却中止の直前に、他企業へのホークス球団譲渡を模索していたでは、ダイエーが球界参入を検討しているという情報を得ると、同社とダイエー両社のメインバンクだった(現・)に仲介を依頼。 その結果、ダイエー社長のは買収先をロッテオリオンズより変更して南海ホークスの買収を決断。 オリオンズに変わってホークスが福岡に移転する形でダイエー念願の球団保有が実現した。 悪夢の18連敗 [ ] 「」も参照 、6月13日から7月8日までの19試合で、日本プロ野球ワースト新記録となる18連敗(途中1引き分けを挟む)を喫した。 球団公式サイトのチームヒストリーでも「 悪夢の18連敗」と記されている。 開幕戦となったの1回戦は1-3で敗れ楽天に球団初白星を献上。 だが翌の2回戦はロッテが一方的にゲームを展開し、26-0で圧勝した。 打っては楽天の6投手から24安打14四死球をマークし、とりわけ2回には10者連続得点を含んで一挙11点を挙げるなど終始攻撃の手を緩めず、守っては先発のが相手打線を1安打1四球に抑え込んだ上、その許した走者をいずれも併殺で退け、結局打者27人で完封勝利を記録した。 26点差での完封勝利は、のグラウンドでの公式戦でがを相手に同じく26-0で大勝して以来、完封試合では実に59年ぶりとなる日本プロ野球史上最多得点及び得点差のタイ記録で、2リーグ分立後初の快挙となった。 また、1試合最多得点の球団記録も、毎日時代のに対戦で記録した23得点を55年ぶりに更新した。 1 2 3 4 5 6 7 8 9 計 楽天 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ロッテ 2 11 1 0 1 4 0 7 x 26 韓国での公式戦開催構想 [ ] ロッテと福岡ダイエーホークス(当時)は日本プロ野球の東アジアでの市場拡大を視野に、2004年シーズン中からとでの公式戦開催について検討を行ってきた。 その結果、翌2005年シーズンの6月28日と29日の2日間、日本プロ野球史上2度目となる日本国外での公式戦として韓国での開催が決定。 カードはロッテ主催の対ソフトバンク2連戦とし、の、ので各1試合を開催する予定だった。 しかし、首都のソウルでの試合が予定されていた蚕室野球場での開催が困難となり(韓国プロ野球のとの2チームが本拠地として使う球場のため、全く空き日がない)、代替としてソウルの衛星都市であるのでの開催に変更したものの、当時の韓国プロ野球人気の低迷から採算が取れないと判断され、開催は断念せざるを得なくなった。 だが、この開催中止がきっかけとなり、同年夏に新たなファンサービス企画「360度全席自由席」が生まれることとなる(詳細は)。 1イニング最多記録を7つ樹立 [ ] ロッテはの対4回戦(千葉マリン)で、6回裏に延べ20人の猛攻で15点を挙げ、チーム1イニングの攻撃に関する7つのプロ野球記録(チーム記録6、個人記録1)を樹立した(以下の 太字は新記録及びタイ記録)。 1イニング12安打は史上2位タイで、最多記録に1本及ばなかったものの打者2巡・ 1イニング打者20人はこれまでの18人を更新する新記録。 1イニング15得点、 1イニング15打点も、過去にセ・リーグで通算4回記録された13得点・13打点を上回った。 打者3人目のから15人目のまで3四死球を挟んで記録した 10打数連続安打は、通算3回目となる当時の最多連続タイ記録。 加えて里崎の後にはとも死球と失策で出塁し、過去の13者連続を更新する 15者連続出塁の新記録(失策による出塁を含む参考記録)。 さらにこの間、井口からランビンまで記録した 14連続得点も、にが対21回戦()で記録した12連続を17年ぶりに更新する新記録となった。 また、この回先頭のは2打席目に代走を送られたが、続くが日本プロ野球史上初の 1イニング3打席を記録した。 だが、2打席目で2点適時二塁打を放ったものの1打席目と3打席目では凡打に倒れた。 大松は試合後、「不思議な感じですね。 自分はアウトを2つ取られた。 損したのか得したのか分からないです」と苦笑いしていた。 結局、ロッテの6回裏の攻撃は約48分にも及び、試合は23-2でロッテが圧勝した。 ロッテが挙げた23得点は、セ・パ交流戦開催1シーズン目のにが対6回戦()で、記録した19得点を更新する セ・パ交流戦最多得点の新記録となり、交流戦初の20得点以上をマークした。 ロッテは前日の、広島の先発に苦しめられるなど、11残塁13三振を喫する拙攻で完封負けを喫していただけに試合後、ロッテの監督は、「昨日はラッキーな安打が出なくて苦労したのに、今日はそんな安打が何本も出たね」と満足そうだった。 一方、大量失点を喫して敗れた広島の監督は、「まるでラグビーだね。 」と怒りを通り越して呆れ返り「今日の勝者はマリーンズじゃない。 むしろ、これだけ点差があっても応援し続けてくれた左翼席のカープファンこそが真の勝者だよ。 」と悔しさをにじませていた。 球団ではこの記録達成を記念して、このイニングに出場した12人が当日使用していたバットを納めた「1イニング15得点記念モニュメント」を作成し、から千葉マリンスタジアムの内野スタンド2階Bゲート付近にて展示している。 1 2 3 4 5 6 7 8 9 計 広島 0 2 0 0 0 0 0 0 0 2 ロッテ 0 2 5 0 0 15 1 0 x 23• ロッテ6回裏の攻撃(括弧内は得点数)• 福浦 左前安打• 大松 三飛• 井口 中前安打• 橋本将 右前安打 1• サブロー 四球• 里崎 中前安打 1• ランビン 左前安打 1• 今江 四球 1• 早坂 死球 1• 福浦 右前安打 1• 大松 右二塁打 2• 塀内 右前安打 2• 橋本将 中前安打• サブロー 中前安打 1• 里崎 中前安打 1• ランビン 死球• 今江 遊ゴロ失策 1• 田中雅 中犠飛 1• 堀 中前安打 1• 大松 右飛 1イニング最多連続打席安打 [ ] ロッテは、の対4回戦()で7回表に10者連続安打・連続得点の猛攻で10点を挙げ、前年のヤクルトなどが計8回記録した1イニング最多連続打席安打のプロ野球記録(9者連続)を更新した。 1点ビハインドのこの回、ロッテは一死無走者から里崎が四球を選んで出塁したのを皮切りにの左前安打から連打攻勢がスタートした。 代打のが中前安打で満塁とすると、の遊撃と左翼の間に落ちる2点適時打で逆転に成功、ヤクルトの先発をKOした。 さらに今江も安打で続き、井口の内野適時打で1点を追加。 続けてが15号満塁、も10号ソロと2者連続で本塁打を放ち、再び打順が回ったが二塁打で出塁すると、里崎も8号2ラン本塁打を放ち前年に続いて10連続得点を達成した。 そして南がこの回2本目の中前安打を放って10者連続安打の新記録を達成している。 青野の代打で送られたが三塁ゴロに倒れ、ロッテの連続記録はストップした。 岡田は試合後「すみません。 知りませんでした」と平身低頭だった。 同日、ロッテがこの記録を達成した直後にはオリックスが対広島4回戦()の6回表にやはり1イニング10者連続安打のタイ記録を達成しており、両チームがまとめて従来の記録を更新したことになる。

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QVC時代のZOZOマリンスタジアム 収容人員 30,118人(ZOZOマリンスタジアム) フランチャイズの遍歴• ( - )• ( - )• ( - 1991年)• 千葉県(1992年 - 現在) 永久欠番 獲得タイトル アジアチャンピオン(1回) 日韓クラブチャンピオンシップ(1回) 日本一(4回)• リーグ優勝(5回)• セ・パ交流戦優勝・最高勝率(2回) (2015年から2018年までは最高勝率)• 成績(タイトル以外) アジアシリーズ出場(1回)(太字は優勝、斜体は準優勝) 1勝 日韓クラブチャンピオンシップ出場(1回)(太字は優勝、斜体は準優勝) 1勝 日本シリーズ出場(6回)(太字は勝利した年)• 4勝2敗• クライマックスシリーズ(5回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)• 1勝4敗• プレーオフ(2004-2006)(1回) (太字は勝利した年、斜体は第1ステージ敗退)• 1勝 プレーオフ(前後期制)(4回) (太字は勝利した年、斜体は後期優勝)• 1勝3敗• 球団組織 オーナー (代行) 運営母体 監督 株式会社千葉ロッテマリーンズ Chiba Lotte Marines 略称 ロッテ、マリーンズ 本社所在地 〒261-8587 美浜1番地 ZOZOマリンスタジアム 本店所在地 〒160-0023 三丁目20-1 設立 (株式会社毎日球団) 事業内容 プロ野球競技の運営並びに選手の指導、養成など 代表者 重光昭夫(代表取締役会長オーナー) 河合克美(社長兼オーナー代行) 資本金 6000万円(2017年12月31日現在) 純利益 7億5536万円(2019年12月31日時点) 純資産 12億3303万1000円(2019年12月31日時点) 総資産 62億5614万2000円(2019年12月31日時点) 従業員数 55人(2009年12月31日時点) 決算期 主要株主 関係する人物 (現法人設立時オーナー) ロッテグループ創業者、初代代表取締役社長、元オーナー 外部リンク 特記事項:に大映野球株式会社を吸収合併。 千葉ロッテマリーンズ YouTube チャンネル 目次• 球団の歴史 [ ] 東京時代 [ ] 毎日時代 [ ] 、を親会社とする毎日球団が設立され、 毎日オリオンズ(まいにちオリオンズ)が結成された。 毎日新聞社はもともと昭和初期にセミプロ野球チーム『大阪毎日野球団』を組織していた。 、からの勧誘を契機に球団結成の気運が高まり、戦前の大阪毎日野球団を基礎に、自ら主催するの有力選手をスカウトして球団を結成。 、に加盟を申請。 リーグ拡大の機運にも乗って加盟を申請したが、毎日新聞のライバル会社であった(の親会社)・(の親会社)が強く反発。 交渉は平行線を辿り、毎日オリオンズと電鉄系を中心とした毎日オリオンズ加盟賛成派の・・・・・の7球団からなる太平洋野球連盟()と毎日オリオンズ加盟反対派の・読売ジャイアンツ・中日ドラゴンズ・・・・・の8球団からなるセントラル野球連盟()が結成される「2リーグ分立騒動」に発展した。 詳細は「」を参照 この騒動の中、大阪タイガースの主力選手であった・・・・が毎日に移籍した。 加盟賛成を表明しながらリーグ分立直前に態度を翻した大阪に対し、毎日が意趣返しに大量の選手引き抜きを行ったといわれた。 パ・リーグ公式戦開始より参入。 本拠地は。 毎日新聞東京本社運動部長で、戦前はのエースから前述の大毎野球団の一員となったを総監督、前大阪監督のを監督(選手兼任)とする二頭制をとり(実質的には湯浅が監督権限を掌握し、記録上の監督も湯浅である)、大阪からの移籍組に、から獲得した・を加えて「」を形成、投手では前年の都市対抗野球を制したのエースや、大洋から獲得したが活躍。 、対東急戦に勝利して、活動1年目にしてリーグ優勝 、でもを4勝2敗で圧倒し、初の日本シリーズで優勝を達成した。 打者では別当薫が、の二冠王を獲得しとなり、投手では荒巻淳が、の二冠王でとなっている。 首位南海と22. 5ゲーム差のリーグ3位に終わる。 7月16日、・での対戦で、雨天と日没を悪用し故意に試合をノーゲームにするという毎日側の策略に観客が激怒し暴動が発生()。 、責任を取り総監督の湯浅、監督の若林が2人とも更迭される。 この年は南海と争うものの、首位南海と1ゲーム差の2位に終わる。 シーズン終了後に若林、湯浅がそれぞれ復帰。 首位南海と14. 5ゲーム差の5位。 での対阪急戦が、によるプロ野球初のテレビ中継となる。 オフには別当薫が選手兼任で監督就任。 が打率リーグ2位の. 325と打点王、が最優秀防御率をあげ、新人のが新人王を獲得。 チームは首位南海と14ゲーム差の3位に終わる。 首位西鉄と13. 5ゲーム差の4位。 シーズン成績は3位。 、成績が低迷していた(大映野球)とし 毎日大映オリオンズ(まいにちだいえいオリオンズ)に改称。 略称は 大毎オリオンズ(だいまいオリオンズ)。 新会社毎日大映球団 が設立。 球団組織と法人格は毎日側を存続させ、形式的にはとの共同経営としたが、実質的な経営は大映側が掌握し、同社社長のがオーナーに就任するという「」だった。 大毎時代 [ ] が打率リーグ3位・打点王となるがチームは4位。 この時期、パ・リーグでは西日本に本拠を置くとがリーグの覇権を握り、関東の球団で集客を期待されたオリオンズが優勝できないことがリーグの不人気の原因であるとする指摘が複数なされるほどだった。 オフには、この年セ・リーグのとなったがの権利で阪神より移籍する。 優勝した南海と6ゲーム差の2位。 山内が本塁打王、葛城が打点王となる。 が監督に就任。 新監督のもと榎本喜八、山内和弘、田宮謙次郎らを擁す破壊力抜群の「」で10年ぶり2回目のリーグ優勝。 結果的に2位の南海と4ゲーム差の僅差だった。 しかし、大洋ホエールズとのでは、4連敗で敗退。 その時の戦法が永田オーナーの逆鱗に触れ、西本は1年で解任される。 この年をもって毎日新聞社は球団から役員を全員引き上げ、経営から事実上撤退。 永田が球団経営を掌握することになる。 パシフィック・リーグ誕生時には、毎日新聞は「リーグの広報」役を期待されていた。 毎日の撤退は、その戦略が潰えたことを意味した。 毎日新聞社史『毎日新聞百年史』(1972年)ではオリオンズについての記述が著しく少ないという指摘がある。 より本拠地は永田が私財を投じてに建設した専用球場・に移転。 東京オリオンズ時代 [ ] - 、球団名を 東京オリオンズ(とうきょうオリオンズ)に改称。 この他、ヤクルトが2006年からに改称している)。 だが、この改称は毎日新聞社側への根回しがないまま行われたため、毎日側が不快感を示した挙句、毎日新聞社の資本も翌1月に引き上げ、なおかつ後援も度シーズンをもって打ち切っている。 これによって球団は完全に永田が掌握することになったが、会社名は「毎日大映球団」を維持した。 優勝した翌1961年以降、チームは7年連続Bクラスと低迷する。 原因として、主砲のや、といった主力選手をトレードで放出し、が引退するなど、それまでのを解体して守りの野球を作ろうとしたが、本拠地がそれまでの後楽園球場より狭い東京球場に移った事で、方針としては逆行しているという指摘が多くあったとされ、1964年から1967年にかけてはチーム本塁打より被本塁打の方が多いという状況で、1968年に、などを獲得してようやくこの数字を逆転し 、チームも8年ぶりのAクラス、3位入りしている。 ロッテ時代 [ ] 、永田は友人であるの斡旋により、をスポンサーに迎えて業務提携を結び、球団名を ロッテオリオンズに改称。 ただ、正式な球団買収ではないので球団の経営は従来通り毎日大映球団(=永田側)が行って、ロッテは球団名の(現在に置き換えればの制度に近い)を取得する形としてとどまった。 このため、ロッテ本社からの人材の派遣は行われなかった。 首位阪急と5. 5ゲーム差の3位。 10年ぶり3回目のリーグ優勝。 東京球場での優勝決定時には、観客が次々とグラウンドになだれ込み、そのまま真っ先に永田を胴上げした。 しかし、初の同一都道府県内のみでの開催となった(東京シリーズ)は巨人に1勝4敗で敗れる。 をもって永田は球団経営から撤退。 ロッテが正式に球団を買収して親会社となり、会社名も球団名と同じ「ロッテオリオンズ」になる。 以来40年以上にわたりロッテは球団を保有し続けているが、これはパ・リーグに現存する6球団では最長である。 西宮での対阪急戦でのハーフスイングの判定をめぐり監督が猛抗議、を宣告される。 10日後、その責任を取る形で濃人が監督を解任され二軍監督に降格、後任に二軍監督が就任。 この年は、優勝した阪急と3. 5ゲーム差の2位。 39本塁打したなど チーム193本塁打は1963年の南海が記録した183本を抜いて(当時の)日本プロ野球記録となった。 前年と一転、Bクラスの5位に転落。 本拠地・東京スタジアムは永田と共通の友人であるの斡旋で社主のが経営を引き継いだが、小佐野は経営不振を理由に単独企業での球場経営の継続は困難であると判断。 球団と球場は一体であることが望ましいと考え、ロッテに対し球場の買い取りを要求。 しかしながら、ロッテ側は費用対効果の面で難色を示し、賃借継続を要請して交渉は平行線を辿る。 結局、シーズンオフに監督に就任したが「あそこは両翼の膨らみが無くて本塁打が入りやすい。 投手泣かせの球場を買い取る必要はない」と猛烈に反対したことなどから交渉は決裂。 東京球場は閉鎖され、ロッテは本拠地球場を失った。 仙台時代 [ ] 「」も参照 この年からの(現在はの本拠地)を中心に(翌年から保護地域も宮城県に暫定移転)、首都圏では後楽園球場、、を転々としつつ主催試合を行った。 特定の本拠地を持たない状況はまで続き、この5年間は「球団」などと揶揄された(参照)。 日拓ホームフライヤーズから合併を持ちかけられるもこれを拒否、このためフライヤーズはに売却されることになった(現在の)。 また、1971年からオーナーを務めたがの経営に参画・株式会社を設立するため、プロ野球協約の一個人・団体(企業)による複数球団保有を禁じる規定に従い 、中村が保有していた株式はロッテに譲渡された。 この年からパ・リーグはを導入。 成績は前後期ともに2位で総合では3位に終わる。 金田監督の下で、、、投手では、、らが活躍して後期優勝。 では前期優勝のを3連勝で破りリーグ優勝。 中日とのでは4勝2敗で日本一になった。 このときの日本シリーズの主催3試合は施設上の問題から仙台ではなく後楽園で行われた(この年と1977年度のパシフィック・リーグのは宮城で開催されたが、にロッテが進出していた場合も、ロッテ主催試合は後楽園で行われることになっていた)。 また、日本一を決定した後の凱旋パレードも東京・銀座から新宿にかけて行われたのみで仙台では行われず、これらの行為は仙台市民や一部のスポーツ新聞から「地元無視」と批判されたこともあった。 なお、この年を最後に、パシフィック・リーグ年間勝率1位に一度もなっておらず、2019年現在存在する12球団で最も長く勝率1位から遠ざかっており 、45年間勝率1位になっていないのはの37年間 をぬいてプロ野球史上最長である。 前年の優勝から一転して前期最下位。 後期は2位に浮上するも総合4位に終わる。 前後期ともに3位で総合でも3位に終わる。 前期は5位に終わるも後期は優勝。 では前期優勝の阪急と対戦。 最終戦までもつれ込んだが3勝2敗で敗退。 総合3位に終わる。 川崎時代 [ ] 1977年 神奈川県横浜市での建設が始まったのに伴い、すでに横浜への移転が内定していた大洋と共に本拠地として使えるよう折衝を行ったものの、横浜使用については折衝に失敗。 その後川崎市から誘致を受け、翌シーズンからへの本拠地移転が決定。 10月4日に保護地域を神奈川県に移転することが承認された。 この年から正式に川崎球場を本拠地として使用(なお、県営宮城球場でも引き続き年間10試合前後の主催公式戦を開催)している。 移転1年目は、総合4位に終わる。 シーズン終盤金田の解任が一部マスコミに報道され、金田はその後辞任した。 前年オフに将来的な監督候補と見込んで獲得していたにとして後任を打診するも金田の後任は荷が重いと固辞しそのまま退団。 山内監督時代 [ ] 山内一弘が監督に就任。 就任1年目は、総合4位に終わる。 ルーキーのを山内が積極的に指導するも、落合に山内の打撃理論は習得出来なかった。 山内の下、、のリー兄弟、投手陣では、、が活躍し前期優勝したが、プレーオフで後期優勝の近鉄に3連敗で敗退した。 エース村田の大活躍もあり2年連続前期優勝。 プレーオフで後期優勝の日本ハムと対戦、1勝3敗1分で2年連続プレーオフ敗退。 10月19日に山内が1年の契約期間を残して退団、ロッテ本社はフロントを急がせ「10人の候補者リスト」を作り、片っ端から交渉を開始したが、、と次々に断られ、有藤の監督兼任案も出たが、オーナーが「あと3年、プレーヤーで専任させよう」とストップをかけに相談し次期監督にを推薦し、山本が監督に就任した。 なお、金田の再任も候補に挙がっていたが、見送られた。 山本一義監督時代 [ ] が日本プロ野球史上4人目(5度目)の打者となる。 順位は5位に終わる。 球団史上初の最下位となり、山本は同年限りで解任。 稲尾監督時代 [ ] が監督就任。 なお、稲尾は「埼玉県所沢市に移転したライオンズに替わり、ロッテを数年以内に福岡県に移転させる」という条件で監督要請を受諾したが、(結果的に)福岡への移転は実現しなかった。 落合、、レロン・リー、新人のが打率3割をマークしてチーム打率1位になったものの、投手陣は肘の手術から復帰した村田が活躍したのみにとどまった。 落合が2度目の三冠王を達成。 この年はセ・リーグでも()が打者三冠王となり、セ・パ両リーグ同時に打者三冠王が出た。 マスコミからは広岡率いる西武の管理野球に対し稲尾の「無手勝流野球」と賞賛され、前年から2年連続で勝率2位を確保したものの、リーグ優勝した西武から15ゲームも離された。 落合は3度目、前年に続き2年連続で三冠王を達成。 バースも前年に続き三冠王となり2年連続でセ・パ両リーグ同時に打者三冠王が出た。 西村がこの年から4年連続で。 リーは打率331、横田は2年連続3割、後半良く打った野手転向3年目のとバラエティに富んだ打線は昨年に引き続きリーグ1位のチーム打率、投手陣はは3年連続2桁勝利、6月から抑えに転向したは18セーブを達成したものの、村田が8勝で終わり 、チーム防御率5位に終わった。 球団の福岡移転を熱望していたが実現しなかったことにより、稲尾が監督退任。 有藤監督時代 [ ] が監督就任。 落合博満が11月4日に「稲尾さんのいないロッテに自分はいる必要がない。 来年はどこと契約しているのかわからない。 」と述べ、11月7日に「配慮に欠いた」と球団に謝罪し、契約については「それは別の話」と述べた。 落合は・・・の4選手との1対4トレードで中日に移籍した。 落合の著書によると有藤が「監督を引き受ける条件の一つに私(落合)をトレードで出すのが条件」と記している。 有藤と不仲だったも冷遇され、不調に陥り同年解雇。 また、同年には女性向けの「URE・P(ウレピー)」を発行、URE・Pはなどで入手でき、本拠地を千葉に移転するまで5年間発行され、これにより女性客も増えて観客動員数は10万人ほど増えたという。 なおこの年は、やはり落合が抜け、リーが不振で、4番は若手のやらが務めたが力不足は顕著で打線は決定的に迫力に欠け、トレードで獲得した牛島がに輝くも、首位の西武と20ゲーム差の5位に終わる。 この年は最下位だったが、の近鉄とのダブルヘッダーがパ・リーグの優勝のかかった大一番となり注目を浴びた(詳細は参照)。 この日の川崎球場に観客がかつて無い程大量に押し寄せたため、同時にトイレなどの設備の老朽化が激しく露呈し、3年後の大幅改修のきっかけとなる。 が首位打者・がに輝く。 小川、、、の4人が二桁勝利を挙げた。 二軍の本拠地がのから浦和市(現:)のに移転。 村田兆治が5月13日のでの対日本ハム戦に勝利し通算200勝を達成。 に輝く。 最下位で球団初の2年連続最下位に終わり、有藤が監督を退任。 後任には、金田正一が2度目の監督就任。 第2次金田監督時代 [ ] チーム成績はは5位。 西村がになる。 村田が現役引退。 ドラフト1位指名のが入団拒否。 首位の西武と33. 5ゲーム差の最下位。 内外野全面への敷設、スコアボードの電光化など川崎球場の改修工事を実施。 「テレビじゃ見れない川崎劇場」をうたい文句にファン拡大作戦を実施した(同年の表現部門で「川崎劇場」が金賞に選ばれた)。 観客動員は102万1千人で、球団史上初めて100万人を突破、当時の既存12球団では最後の達成となった。 が首位打者を獲得。 金田が辞任。 千葉時代 [ ] 八木沢監督時代 [ ] 1991年 、翌年から保護地域を川崎から、専用球場を同県のに移転することがオーナー会議によって承認、発表された。 移転に伴う新しい球団名は一般公募により改称されることになり、同年、新しい球団名は 千葉ロッテマリーンズ(英語で海兵隊)に決定した。 この年のオフ、金田が監督を解任された。 後任に球団OBのが就任。 奇しくも1978年に八木沢に引退勧告を行ったことがきっかけで監督を解任された金田が、再び八木沢に追い出された形となった。 本拠地移転や球団名変更に伴い、ユニフォーム・・・マスコットを一新。 、 本来開幕権はが持っていたが、オリックスから開幕権を譲渡され、新生千葉ロッテは本拠地で開幕を迎えた。 4月は首位で終えたが、その後は失速、千葉移転初年度は昨年続き最下位に沈んだ。 それでも移転景気に恵まれ、観客動員が130万人を記録するなど順調な滑り出しを思わせた。 しかし翌年もやを獲得し補強を行ったがチームの地力は上がらず5位に終わると移転景気も潰え、観客動員も93万人に激減。 千葉県民の目も徐々に冷ややかになっていった。 こうして、川崎時代から続く「12球団最低レベルの観客動員数」という大きな問題点には千葉移転後も苛まれることとなる。 この年のオフ、当時パ・リーグ会長だった原野和夫はロッテのチーム力の低下と観客動員数の低迷を強く懸念。 重光オーナー代行に対し「もっと努力してほしい」と注意を行った。 開幕当初よりチームは低迷し、八木沢は8月1日をもって休養。 その後は、が代理監督を務め、5位に終わる。 オーナーのが中西に監督就任要請をするも中西は断り退団。 第1次バレンタイン監督時代 [ ] 日本球界初のGM()としてが就任すると、広岡はメジャーリーグでの監督経験のある監督を招聘。 バレンタインの提案で、川崎から移転後3年間採用していた色を主体としたユニフォームを、ピンストライプのデザインにリニューアル。 2年間の在籍で中軸として結果を残していたメル・ホールを性格の荒さや素行の悪さを原因に解雇。 代わりに、を獲得。 序盤は出遅れるが、2年目ながらトップバッターに起用された、リーグ打率2位の、打点王を獲得した 、外国人ながら本人のプレイだけではなくチームの精神的支柱も担ったフリオ・フランコ、、、の先発三本柱、、のダブルストッパー等投打のかみ合った1年となり、結果的に貯金10の2位で10年ぶりのAクラス入りを果たす。 翌年の優勝を期待するムードが大きく高まったが、バレンタインが広岡との確執から解任される。 フランコも広岡との確執で解雇。 江尻 - 近藤 - 山本功児監督時代 [ ] バレンタインの後任にはコーチとして入閣していたが昇格したものの広岡のの後輩ということで「広岡の」と陰口を叩かれる。 またチームも投手は伊良部が最優秀防御率・ヒルマンが防御率2位・成本が最優秀救援投手を獲得、河本も前年同様の働きをし二年目のが奮闘したが、開幕投手を努めた園川が0勝7敗、小宮山も大きく負け越し防御率も前年より2点以上悪くそれ以外が計算出来なかった。 野手は外国人が活躍出来ずに、初芝もマークが厳しくなり勝負強さが発揮できず、堀が孤軍奮闘するが焼け石に水で結局5位に沈み、広岡は契約を一年残して解任され 、江尻もこの年限りで辞任。 伊良部が球団と衝突し半ば強引な形で大リーグ・に移籍。 ヒルマンも巨人へ移籍。 が新監督に就任。 これはロッテのフロントが元巨人監督のに「立て直し役に最適な人はいないか」と相談し、89年から3年間巨人・藤田監督の下でヘッドコーチを務めていた近藤を藤田がロッテ側に推薦し、監督就任に至ったものだった。 時代のの多用に代表される采配のまずさによる成績不振、らと確執を生みチーム内に不和をもたらすなどの不安要素を押しての起用となった。 投手陣は伊良部・ヒルマンの抜けた穴は大きかったが、前年不振だった小宮山が奮闘し最優秀防御率を獲得、黒木が初の二桁勝利、が初の規定投球回数をクリアするなど奮闘。 しかしストッパー成本が大怪我でシーズンを途中リタイア。 野手では新人のが新人王に輝き、投手から打者に転向したが台頭したが、外国人は長打不足、初芝・堀も不振。 また、前年まで多くのマスクを被っていた・が相次いで移籍し、ドラフトで大学ナンバーワンと評価されたが開幕戦でスタメンマスクに抜擢されたがプロの壁は厚く苦戦を強いられた。 結局投打に渡り駒不足で最下位に終わる。 近藤監督での2年目を迎え、フリオ・フランコが3年ぶりにチームに復帰するも「投手陣の踏ん張りがなければ上位食い込みは難しい」と言われた。 4月は11勝5敗の首位だったが、ストッパーの河本が肩の故障で離脱しセットアッパーのも不振で離脱するとリリーフ陣が崩壊。 日本プロ野球ワースト新記録となる18連敗(途中1引き分けを挟む)を喫した(詳細は)。 ロッテはこの18連敗の間、シーズン通算23勝43敗1分、勝率. 358まで戦績を落として最下位へ転落し、借金は一気に20まで膨れ上がった。 全18敗のうち逆転敗戦は9、サヨナラ敗戦は4であった。 連敗脱出後はリリーフとして新外国人のが加入、河本も戦線復帰でブルペンが強化されチームは復調し、シーズン最終成績は61勝71敗3分、勝率. 462。 借金10まで盛り返したものの最下位からは脱することができず、結果的にこの18連敗が大きな痛手となった。 また、総得失点差でプラス(チーム打率もリーグトップ. 271。 チーム防御率リーグ2位3. 70)でありながら最下位となった。 近藤は、シーズン終了後の監督退任会見で「今度監督をやる機会があれば、もっと強いチームでやりたい」と発言しロッテを去った。 、、、 にはが二軍監督から一軍監督へ昇格し、投手陣の充実、新人獲得の地元出身者偏重の解消などチームの構造改革に取り組むも、球団の資金難や貧打線、頼みの投手陣を克服できず定位置のBクラスからは抜け出せなかった(その黒木が故障離脱した2002年は開幕11連敗とまたしても大型連敗を経験した)。 1999年のオフにそれまでチームを支えていた小宮山が権を行使する意向を球団に伝え、結果として自由契約という形でに移籍した。 しかし、この時期にドラフトで獲得した、、、らは二軍生活を経て後のAクラス入り、日本一に大きく貢献している。 オフには限りでを退団したを獲得するが、翌年の春季キャンプ中に「野球に対する情熱が無くなっているのに気づいた」と残し、開幕を待たずに退団している。 このシーズンは特に秋に好成績を収めており、8月末まで5位に低迷していたのが9月から一気に調子を上げ、日本ハムをかわし4位に浮上している。 オフ、韓国・からを獲得。 山本は5年間監督を務めたがすべてBクラスに終わり、2003年に解任された。 第2次バレンタイン監督時代 [ ] バレンタインが「全権監督」として復帰。 サンデーユニフォーム(白地に黒のダンダラ模様を入れた上着を着用。 パンツは通常のストライプ)を採用。 4位で迎えたシーズン最終戦はプレーオフ進出をかけ西武と対戦。 3者連続ホームランで逆転し、西武に勝利するも、3位だった日本ハムも勝利したため、0. 5ゲーム差で4位が確定。 プレーオフ進出を逃した。 しかし、シーズン全体では勝率5割を記録した。 今江敏晃、西岡剛の台頭もあり好スタートを切る。 上位から下位までどこからでも点を取る打線は、1998年の横浜ベイスターズの「マシンガン打線」になぞらえて「」と呼ばれ、4番にを起用する打線が機能する。 サブローはまったく新しいタイプの4番打者としてチームに貢献した。 3月26日の千葉マリンでの開幕戦では、新球団と対戦し3-1で敗れ、楽天の公式戦初試合初勝利を献上したが、翌日には2リーグ制以降している。 この年から導入されたでは24勝11敗で優勝。 「セ・パ交流戦初代チャンピオン」となる。 8月17日の対戦に勝ち、10年ぶりの勝ち越しを決めると同時に、34年ぶりの貯金30を達成。 8月28日の対オリックス戦で勝利し、進出と10年ぶりのAクラスを確定。 9月19日、34年ぶりの80勝を達成し(最終的には84勝)、シーズンを2位で終えた。 で西武、第2ステージでは2戦先勝するも第3戦、第4戦と敗北。 第5戦でも2点先制されるが、8回表にの劇的な2点タイムリーツーベースで逆転。 その後もリードを保ち、を破り31年ぶりのリーグ優勝を果たした。 からのでは、第1戦 は試合途中から、選手全員が全く前が見えないほどの夥しい濃霧にグラウンド全体が包まれ、7回裏1死時点で試合続行不能になるほど霧が濃くなり、となる珍事が起きている。 その後も阪神を2002年の巨人以来3年ぶり、球団史上初となるストレート4連勝で下し、31年ぶり3度目の日本一に輝く。 からで行われた第一回に出場。 決勝で韓国のを5-3で下して勝利し優勝している。 二軍ではファーム日本選手権で阪神を下し優勝しており、この年は一軍・二軍合計で年間6冠を達成している。 11月20日に千葉市中心部と幕張地区の2カ所で行われた優勝パレードでは合計27万人を動員し、同年の阪神の来場者数・18万人を上回る盛り上がりを見せた。 この年のボビー政権は、変則的に打線が入れ替わる 日替わり打線などを駆使していた。 また、その采配がしばしば成功するので、 ボビーマジックと言われた。 この年、(15勝)、(12勝)、(11勝)、(10勝)、(10勝)、(10勝)が2ケタ勝利を挙げた。 また久保の新人10勝の記録は毎日時代の1950年の(26勝)・(16勝)以来球団史上3人目のことだが、荒巻と榎原は左投手なので、右投げの新人投手が2ケタ勝利を挙げたのは球団史上初である。 が巨人へ金銭トレードされ、李承燁が巨人、セラフィニがオリックスへ移籍。 交流戦は2年連続での優勝となったが、夏場以降は急失速し、最終的にシーズンを4位で終えている。 オフには、を退団したを獲得。 3月24日の開幕戦(千葉マリンの対戦)が降雨コールドで引き分け。 翌日も延長12回で引き分け。 投手陣は、中継ぎ陣がの防御率10点台を超える乱調や、の度重なる救援失敗により事実上YFKが崩壊したが、38で賞を獲得したがシーズン終盤に抑えに回り、2年目のと新人のが活躍し、強固な中継ぎを維持できた。 先発陣はエース清水直行が6勝どまりだったものの、渡辺俊介が不振から脱却、援護が無いものの安定した防御率を残し、小林宏之が自己最多の13勝。 そしてが16勝1敗、防御率1. 817で、との2冠を獲得する大活躍を見せた。 この3人が柱となり、前年を上回る成績を残した。 一方野手陣は、、の故障による離脱・不振などでシーズン通して安定した攻撃力を維持できず、の台頭もあり得点はリーグトップだったが、首位日本ハムとは2ゲーム差の2位に終わった。 ではソフトバンクに2勝1敗で勝利したが、2ndステージでは日本ハムに2勝3敗で敗退した。 先発投手陣が揃って不調に陥り、さらに開幕直後に捕手の・・が同時期に故障し、前半戦は一時期最下位に沈んだ。 後半戦は不調の先発陣をリリーフ陣が支え、打撃陣がチームを牽引し勝率を5割以上としたが、首位西武と4. 5ゲーム、3位の日本ハムと0. 5ゲーム差の4位となっている。 チーム防御率はリーグ最低となった。 野手陣に故障者が多く、復活を期待されていたズレータの不振や今江の骨折による長期離脱なども重なり、チーム打率は前年より上昇したものの打撃力は安定しなかった。 投打がうまくかみ合わず、大量得点しても大量失点してしまうという試合が多かった。 、球団はバレンタインと5年目以後の監督契約は結ばず、4年目の2009年シーズン限りとする旨を発表。 オフにを獲得。 ロッテが東京オリオンズのスポンサーとなって40周年を記念したマークを導入。 5月21日、とパートナーシップ包括協定を締結。 シーズン中に、バレンタインの監督退任騒動が浮上。 9月26日に「死刑」などのフロントを中傷するゲーフラを掲げた一部ファンに対しがヒーローインタビューにて中傷行為を止めるように要請した。 しかし9月27日にこれまでロッテの応援を引っ張ってきた 詳しくはを参照 外野応援団・が西岡の応援を妨害し、外野応援団・MVPに反発したファンから帰れコールが起こるなど球場は騒然としてしまった。 これがきっかけで外野応援団・MVPは解散することになりスキンヘッドランニングなどのチャンステーマ、旧応援歌 一部は2010年も使われた が廃止されてしまった。 これら騒動の影響もあってチームは低調な成績に終わり、2年連続Bクラスの5位でシーズンを終了。 バレンタインの後任にはヘッドコーチのが監督に昇格した。 オフには韓国・からFA宣言したを獲得。 西村監督時代 [ ] 序盤はルーキーや金泰均らの活躍で快調なスタートを切ったものの、荻野貴との長期離脱など相次ぐ主力の故障や夏場の金泰均の打撃不振などが続き、交流戦以降は徐々に調子を落としたが、上位5チームによるAクラス争いの中で終盤まで首位戦線に食い込み、首位ソフトバンクと2位西武からは2. 5ゲーム差、4位の日本ハムと0. 5ゲーム差の3位でシーズンを終えた。 のファーストステージでは、西武に2連勝。 ファイナルステージでは、ソフトバンクに王手をかけられながらその後、3連勝で4勝3敗で連破し、クライマックスシリーズを制覇。 通期での勝率3位から日本シリーズに進出したのは、前後期制時代の1973年・以来37年ぶりとなった。 日本シリーズでセリーグ優勝の中日を4勝2敗1分で下して5年ぶり4度目の日本一となり、パリーグで初めてリーグ優勝せず に日本シリーズを制した球団となった。 3位からの日本一は史上初めてである。 、ではを3-0で降して日韓王者に輝いた。 、本拠地の千葉マリンスタジアムがテレビショッピング専門チャンネル・による導入に伴い、名称を「 QVCマリンフィールド」に改めることを発表した。 オフには小林宏之が阪神へ、西岡が・へそれぞれFA移籍している。 また、堀幸一が現役続行を目指して退団するも、他球団からのオファーがなく現役引退。 に発生したでは、本拠地・QVCマリンフィールドに目立った外傷はなかったが周辺がを起こすなどあり、この年のQVCでのオープン戦はすべて中止となっている。 また開幕が当初予定のからに延期となったことから、開幕戦はQVCでの楽天戦となり 、6対4で敗れ開幕戦は6年連続敗戦となった。 の対中日戦 QVC の敗戦で勝率5割として 以降は借金生活となり、の対阪神戦 QVC の敗戦で最下位に転落。 交流戦は8勝14敗2分の10位。 にはサブローがプラス金銭で巨人にトレードされる。 前半戦は借金1の3位で折り返す。 しかし後半戦に入ると連敗するなど低迷し、の対西武戦(西武ドーム)に勝利し球団通算4000勝を達成 するが、終盤戦に入っても低迷は続き、には9年ぶりの11連敗を記録 、翌日対日本ハム戦 QVC に勝利し連敗を止めるものの、この日3位オリックスが勝利してBクラスが確定 、の対楽天戦(Kスタ宮城)に敗れたことで最下位が確定。 前年日本一のチームが最下位になるのは日本プロ野球3度目、パ・リーグでは初めて。 最終的には54勝79敗11分、首位ソフトバンクと33. 5ゲーム、3位西武と13ゲーム差、5位楽天と10ゲーム差。 得点は球団史上最低記録となる432 、チーム本塁打は46本で球団史上最少で、50本以下だったのは1959年の近鉄以来。 2桁本塁打の選手がいなかったのは球団史上初。 この年の本塁打王の(西武)の48本を下回り、1チームのチーム本塁打数が個人の本塁打数を下回るのは1959年の近鉄以来の記録となった。 金泰均が打撃不振や怪我がありシーズン途中9月に帰国、退団している。 、この年6月に巨人に移籍したサブロー がFA移籍で半年でロッテに復帰。 開幕戦から1952年以来の60年ぶりの4連勝をするなど 、序盤から首位争いをしに対ソフトバンク戦 QVC に6対4で勝利し首位浮上。 交流戦は12勝7敗5分で3位。 前半戦を42年ぶりの首位で折り返した。 しかし後半戦はの対日本ハム戦 QVC に5対3に敗れ、2カ月半ぶりに首位陥落し 、からは途中球団ワースト記録となる6試合連続1得点以下もあり 、9連敗するなど順位を落とし、ソフトバンク、楽天とクライマックスシリーズ進出を争うが、に対オリックス戦(京セラD)に2対1で敗れたことで2年連続のBクラスが確定し 、最終的に62勝67敗、優勝した日本ハムから10ゲーム、3位ソフトバンクと3. 5ゲーム差の5位に終わる。 が首位打者を獲得、独立リーグ出身の打者としては初めてとなった。 二軍はイースタンリーグ優勝、ファーム日本選手権でもソフトバンクを3対1で下し2年ぶり3度目の日本一になっている。 が中継ぎとしてリーグ2位、新人最多記録の72試合に登板し、新人記録となる41ホールド、43ホールドポイントを挙げ最優秀新人賞を獲得。 、西村が監督退任 、にはヘッドコーチのら8コーチも退団。 、監督に が就任。 伊東監督時代 [ ] 5月9日に7年ぶりの8連勝で首位に立ち 、交流戦は13勝10敗1分の5位に終わった。 7月3日に2位の楽天に敗れ、首位に並ばれると6日には4連敗で2位に 、前半戦を2位で折り返した。 9月26日の対日本ハム戦(札幌ドーム)に5対6で敗れ、楽天が対西武戦(西武ドーム)に4対3で勝利したことで楽天の優勝が決まり優勝を逃すが 、にソフトバンクが対日本ハム戦(札幌ドーム)に4対5で敗れたため、この日試合のなかったロッテの3年ぶりの進出が決定した。 10月8日の西武ドームでの西武とのシーズン最終戦は共に勝った方が2位確定となったが敗れて3位となった。 クライマックスシリーズファーストステージ(西武ドーム)は西武に2勝1敗で勝利したが 、ファイナルステージ(Kスタ宮城)は楽天に1勝4敗で敗れて敗退した。 オフに西武のをFAで獲得した。 1月1日付けで球団社長に前の山室晋也が就任した。 開幕から5連敗を喫し、チームは5月のから始まり6月の荻野、7月のと主力選手の怪我による離脱、成瀬・涌井・唐川といった主力の投手の不調などが響き、思うように順位を延ばすことができず、夏には最下位争いを繰り広げる羽目になった。 シーズン途中にキューバ出身での大砲・を獲得 、の対日本ハム戦(QVC)に敗れ、Bクラスが確定しロッテのクライマックスシリーズ進出の可能性がなくなった。 最終結果は4位に終わった。 が現役を引退し 、成瀬がFA権を行使してヤクルトに移籍した。 チームは開幕当初はAクラスの2位・3位に立つこともあったが4月中盤には徐々に脱落し、それ以降はソフトバンク・日本ハム・西武の3強の後塵を拝する状態が続いた。 交流戦では一時は首位に立つ も最終結果は10勝8敗の5位に終わった。 、この日のオリックス戦に敗れ6連敗となりロッテの自力優勝の可能性が消滅した。 その後、連敗を7で止めるも前半戦を4位で終えた。 にデスパイネが母国・キューバの大会に出場するため離日するのを球団が発表、にのを獲得した。 後半戦から終盤戦にかけては西武との激しい3位争いを繰り広げ、特に終盤はCS進出をかけて争うこととなった。 の対日本ハム戦(札幌ドーム)に勝利したことにより、西武に代わって3位に浮上した。 そしての対日本ハム戦(QVC)に5-3で勝利し3位が確定し、2年ぶりのCS進出が決定した。 のファーストステージはシーズン2位の日本ハムと対戦し、2勝1敗でファイナルステージ進出を決めた。 ファイナルステージではレギュラーシーズン1位のソフトバンクと対戦し、ファイナルステージでは3度目の組み合わせで過去2回はいずれもロッテが勝利しており、しかもそれが5年周期であったことから「下克上」・「ゴールデンイヤー」と銘打ったものの、3連敗(アドバンテージ分除く)で敗退となった。 オフに今江がで楽天に、クルーズも巨人に移籍した。 一方でソフトバンクからを獲得した。 、新外国人のが銃弾を隠し持っていたとして逮捕され、4月まで出場停止の処分を受けた。 開幕当初は首位に立つこともあったが、5月に入るとソフトバンクに首位を奪われてしまった。 それ以降ソフトバンクの後塵を拝する状況が続き、後半には日本ハムにも抜かれてしまう。 しかしながらその後は3位をキープし続け9月24日にリーグ3位が確定、クライマックスシリーズ進出と31年ぶりの2年連続Aクラス入りが決定した。 クライマックスシリーズでは、リーグ2位のソフトバンクと対戦するも2戦全敗で敗退した。 角中が首位打者とを獲得、またが2. 16で最優秀防御率を初受賞、サブローが現役を引退。 また、デスパイネが金銭面の関係で退団、への移籍が決まった。 オープン戦を首位で終えたものの、シーズンに入ると打撃陣は新外国人のと の不振などで4月のチーム打率1割台、投手陣も昨年最優秀防御率のタイトルを獲得した石川の大乱調などで4月のチーム防御率5点台と投打にわたって深刻な不振に陥り、チームは低迷した。 5月3日の日本ハム戦に敗れ最下位に転落すると 、そのままシーズン終了まで一度も最下位を脱出できなかった。 、この日の西武戦にも敗れ6連敗を喫しここまで通算37試合でわずか9勝(27敗1分け)しか挙げられず、ロッテの自力優勝の可能性が早くも消滅した。 5月から6月にかけ、の と、ソフトバンク・オリックス・楽天でプレーした を相次いで獲得する。 秋口になるとチームも復調し、9月は12勝10敗で今季初の月間勝ち越しを達成するが 最下位脱出には至ることができず、10月3日の試合で5位の日本ハムがオリックスに勝ったことでロッテの6年ぶりのシーズン最下位が確定した。 そして10月10日のシーズン最終戦にも敗れ、球団史上ワーストとなるシーズン87敗目を喫しシーズンを終えた。 一方、チーム打率・得点・本塁打・防御率もリーグ最下位に終わった。 伊東監督が辞任し、井口が現役を引退した。 オフには大量10選手が戦力外になったことに加え、外国人選手5人の退団も決まった。 また、コーチ陣も刷新。 同年10月11日に一軍野手総合兼打撃コーチのら7コーチに対して来季コーチ契約を行わないことを通告した。 井口監督時代 [ ] 2017年10月12日、現役を引退した井口が監督に就任することが正式に決定し、球団の公式ホームページで発表された。 また、井口のダイエー時代のチームメイトであったが一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチ、が一軍戦略コーチ兼バッテリーコーチ補佐に就任することが発表された。 2018年2月23日、代表取締役オーナー代行が同月13日に韓国で贈賄の罪で収監された ことを受け、代表権およびオーナー代行職を解かれ同日付での取締役が代表取締役オーナー代行に就任した。 、一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチのがヘッドコーチ専任、二軍内野守備・走塁コーチのが一軍内野・守備走塁コーチ、二軍打撃コーチ兼育成担当のが二軍内野守備・走塁コーチに配置転換されることが発表された。 また、一軍内野守備・走塁コーチの小坂がベンチ入りした影響で一軍打撃コーチ兼内野手の肩書だった福浦がコーチ登録を抹消され、福浦は内野手に専念することとなった。 この年は、4年目の、5年目の、ルーキーのらがスタメンで活躍。 また、新外国人投手のが11連勝した。 7月から8月上旬にかけてソフトバンク・オリックスとの3位争いとなったが、8月7日に4位に転落して以降、本拠地での極端な成績不振(8-10月で2勝22敗)となり、9月22日の西武戦(本拠地)でが通算2000本安打を達成してもチームは逆転負けするなど、9月5日を最後に本拠地で勝つことができず、シーズン最終戦でパ・リーグ新記録となる本拠地14連敗を喫した。 9月27日の楽天戦に敗れて2年連続のBクラスが確定、10月5日の楽天戦に勝利したことでシーズン5位が確定し、2004年に消滅した近鉄と2005年に誕生し2013年で初優勝した楽天を含む13球団で唯一30年間で1度も1位確定をしなかった。 また、球団史上初めてパ・リーグ全5球団への負け越しが確定した。 チーム盗塁数は西武に次いで2番目に多い124個を記録するも、チーム総得点は最下位の楽天に次いで少ない534点、チーム本塁打数に至ってはパ・リーグで最下位の78本にとどまり、盗塁が必ずしも得点に結びつくことが出来なかったことに加えて、チーム防御率も西武に次いで2番目に悪い4. 04を記録。 前年同様、投打にわたり課題を残すシーズンとなった。 この年限りで、、、、が現役を引退した。 また、オフに、、、の3選手がオーストラリアン・ベースボールリーグに所属するに派遣されることが決まった。 11月6日、内野手の獲得を発表した。 その他にも、元楽天の捕手や元日本ハムの内野手、北米選手の中では最年長でメジャーリーグにデビューし、元横浜の選手でもある投手、メジャーリーグ出場経験のある投手を獲得した。 また、からFA宣言した外野手の獲得にも乗り出したが、に争奪戦に敗れ、獲得には至らなかった。 開幕戦では楽天相手に中村、加藤、レアードの3本のホームラン、のプロ初ヒットなどもあり勝利。 しかし開幕4試合連続ホームランを打った新加入のレアードや中村、加藤などの好調も虚しく4月11日には最下位転落。 そこから息を吹き返し、5月中盤には2位にまで順位を上げた。 7月4日、からをとのトレードで獲得。 7月14日、外野手の獲得を発表、途中入団ながら14本塁打を放つなど結果を残した。 に僅差で躱され4位で終了。 が、を初受賞した。 プエルトリコで行われるウインターリーグに、、の三選手を、台湾で行われるウィンターリーグに、、の三選手を派遣。 オフに福浦和也が引退し、11月1日、来期より二軍ヘッドコーチ兼打撃コーチに就任することが発表された。 また、同じく引退したが二軍サブマネージャー、が一軍走塁コーチ兼打撃コーチ補佐兼外野守備コーチ補佐に就任した。 、が権を行使せずに残留するも、は楽天にFA移籍した。 も金銭トレードで、もFAの人的補償でともに楽天に移籍した。 いっぽうでは「令和の怪物」と評されたを4球団競合の末獲得に成功。 補強にも積極的に動き、楽天から、ソフトバンクからをFAで獲得。 一度のオフにFA選手を2人獲得するのは球団初のことである。 楽天からは他にもFAの人的補償としてを、また、自由契約となったとを獲得している。 さらに、元広島のも獲得した。 また、元ドミニカ共和国空軍のホセ・アコスタ、元BCリーグ富山のホセ・フローレスを育成選手として獲得した。 シーズン終了後の12月1日付で球団社長の山室晋也が退任し 、オーナー代行の河合克美が球団社長を兼任する人事が執行された。 1月19日、1971年の球団買収以来オーナーを務めたが・に於いて老衰のために死去(98歳没)。 3月10日、前年までに在籍していたを獲得。 背番号は 00。 3月24日、球団の株主総会と取締役会において、1月に死去した重光武雄の次男で、3月18日に親会社の会長職に選任されたばかりの重光昭夫が球団の代表取締役会長オーナーに就任することを正式に承認した。 重光は前述の通り、2018年2月に自身の不祥事でオーナー代行職から一旦退任していたため、2年ぶりにフロントへの復帰となった。 所属選手・監督・コーチ [ ] 「」も参照• リーグ優勝 5回(1950年、1960年、1970年、1974年、2005年)• クライマックスシリーズ優勝 1回(2010年)• 日本一 4回(1950年、1974年、2005年、2010年)• アジアシリーズ優勝 1回(2005年)• 日韓クラブチャンピオンシップ 優勝 1回(2010年)• セ・パ交流戦優勝 2回(2005年、2006年)• 前期優勝 2回(1980年前期、1981年前期)• 後期優勝 2回(1974年後期、1977年後期)• Aクラス 27回(1950年 - 1952年、1954年 - 1957年、1959年、1960年、1968年 - 1971年、1973年、1974年、1976年、1977年、1980年、1981年、1984年、1985年、1995年、2005年、2007年、2010年、2013年、2015年 - 2016年)• Bクラス 42回(1953年、1958年、1961年 - 1967年、1972年、1975年、1978年、1979年、1982年、1983年、1986年 - 1994年、1996年 - 2004年、2006年、2008年、2009年、2011年 - 2012年、2014年、2017年 - 2019年)• 連続Aクラス入り最長記録 4年(1954年 - 1957年、1968年 - 1971年)• 連続Bクラス最長記録 9年(1986年 - 1994年、1996年 - 2004年)• 最下位回数 9回(1983年、1988年 - 1989年、1991年 - 1992年、1997年、1998年、2011年、2017年)• 最多勝 85勝(1955年)• 最多敗 87敗(2017年)• 最多引分 15分(1978年、1980年、1984年)• 最高勝率. 704(1950年)• 最低勝率. 580を達成)。 以来連続45シーズン、年間勝率首位がなく、12球団で最もリーグの年間勝率首位から遠ざかっている球団である。 また、これはの大洋ホエールズ時代から続いた1961年 - 1997年の37年間を超え、最長記録となっている。 その他の記録 [ ]• 最小ゲーム差 1. 0ゲーム(1952年)• 最大ゲーム差 39. 5ゲーム(1983年)• 最多本塁打 193本(1971年)• 最少本塁打 46本(2011年)• 最高打率. 287(1985年)• 最低打率. 232(1965年)• 最高防御率 2. 40(1956年)• 最低防御率 5. 12(1983年)• 1イニング最多得点 15得点 (2009年6月11日対広島6回裏・日本プロ野球記録) チームの特徴 [ ]• まで、前身球団を含めて当時の12球団では唯一、最下位がなかった。 前・後期制だった前期と1982年前期はともに最下位に沈んでいるが、年間通算での最下位はが球団史上初である。 チームの生え抜き及び在籍経験選手が監督に昇格するやなどと比べ監督が多いことでも知られている。 このため、生え抜き監督は・・・の4人で(西本・八木沢・西村は後に他球団の指導者を経験)、現役およびコーチ時代に他球団在籍経験のあるOBを含めても、・・・・を加えた9人である。 反面、コーチはオリオンズ・マリーンズが多く、山本功児が監督を務めていた時は山本も含めてコーチ全員が球団OBだったこともある。 過去に4回、を優勝しているが、フランチャイズ制が確立されていなかった以外の3回はいずれもロードの球場(・、・、・)で胴上げをしており、本拠地(後楽園、東京、仙台、川崎、千葉)での日本一の胴上げは未だ成し遂げられていない。 ただし、リーグ優勝における胴上げはある(・東京、・仙台=プレーオフ優勝。 他に年間優勝ではないが、前期と前期の優勝を川崎で達成している。 本拠地での日本一の胴上げを未だ成し遂げられていないのは、現存する11球団では他に〔・〕のケースしかない)。 球団創立以来、現存する12球団及び合併・消滅した近鉄を含む計13球団で唯一を受賞した投手が1人もいない(2019年現在)。 完全制覇 は活動1年目のしかなく、全球団の中で最も遠ざかっている。 パ・リーグでは勝率3位からを突破してに進出した唯一の球団であり、そこから日本一を果たしたのも唯一である。 また、にはシーズン2位からプレーオフを勝ち抜いてリーグ優勝して日本一にも輝いたが、年間勝率2位以下で日本シリーズに2回進出したことのある球団はまでは12球団の中でロッテだけで、2回日本一になっているのもこれまた唯一であった。 一軍公式戦において、2004年までは全試合が対象・2005年以降はリーグ戦のみが対象で、前身球団を含む現存する12球団で唯一、全球団に負け越したシーズンが意外にも2017年まで1度も無く、2018年に初の屈辱を味わった。 東京・仙台・川崎時代 [ ] 以前のニックネーム「オリオンズ」はのが由来。 球団創立以来まで使われた。 チームの愛称は一般公募され「オリオンズ」は得票数5位だったが、星が当時の親会社・のでもあることから付けられた。 大映ユニオンズと合併した際、毎日側は新球団名として「毎日スター」を提案。 これを受けた永田雅一は一応納得はしながらも「以前、毎日新聞は『大毎』(の略称)と呼ばれ親しまれていた。 今でも自分は毎日を大毎と思っている。 何故この新球団を『大毎オリオンズ』としないのか」と反論。 毎日側も納得し、新球団名は永田案が通った。 毎日新聞がオリオンズの経営から手を引いたのちも、球団誕生に合わせて改称した喫茶店「茶房オリオンズ」が毎日新聞大阪本社ビルに(ビル建て替えに伴う移転を乗り越えて)存在し、名残をとどめていたが、2014年4月25日限りで閉店した。 閉店に際して開かれた「感謝の集い」には、千葉ロッテ球団からも集いに対する祝電が寄せられた。 千葉時代 [ ] から愛称を「オリオンズ」から「マリーンズ」に変更。 公募されたものの1位は「ドルフィンズ」だった。 しかし中日の略号「D」と被るために、他に使用例のない頭文字「M」の「マリーンズ」が選ばれた。 これは本拠地である千葉マリンスタジアムの名称にちなんだものであるが、が「マリーンズを日本語に訳すとどういう意味になるのか」と疑問に感じたため球団事務所に電話で問い合わせたところ、球団からは「一応、海の勇者という意味で使っています」との公式回答があったという。 ただし英語における名詞形のmarineには「海兵隊員」以外の意味合いはなく、このため公式サイト上の試合速報でもの文字が散見される。 オーナー企業であるは菓子の製造・販売を主たる事業としており、球団名との関連はない。 なお公募の際、「パラダイス」票が最終選考まで残った。 また変更なしの「オリオンズ」票も多数あった。 千葉にちなんで、有名な千葉を本拠地にした架空のチームを舞台にした漫画『』と同じ「パイレーツ」も多く票を集めたが、作品との混同とそれにまつわる権利上のトラブルを避けたのと、作中でのが(基本的には)笑い者にさえされている弱小チームであるため、実在のチームに名付けるのはイメージが悪いという判断で却下されている。 による選手の補強にはやや消極的である。 これまで、他球団からFAでロッテに移籍したのは、1995年オフの(前阪神)、2011年オフのサブロー(前巨人。 厳密には古巣に復帰)、2013年オフの(前西武)のみ。 かつては、所属選手でFA宣言した選手とは再契約をしない方針をとっていたが(例外は1998年オフのと)、2017年オフの涌井以降は再契約を認めるようになっている。 2018年オフに(前広島)がFA宣言した際には、地元・千葉県出身ということもあり獲得に動いた (丸は最終的に巨人に移籍)。 2000年代の後半以降になると以前にも増して長距離打者の不足に悩まされることが増え、2017年終了時点で30本塁打以上打ったのは、2005年のにまで遡る。 日本人では1986年の落合博満以来、四半世紀以上にわたって出ておらず、2019年までの33年間で日本人選手が年間最多本塁打を記録したのは初芝清が1995年と1998年にそれぞれ記録した25本であり、20本塁打以上を打った日本人選手も1987年以降では8人しかいない。 これに関しては、球場に吹く海風の影響が大きいと言われており、落合の記録も川崎球場が本拠地の頃のものである。 からまでは、12球団で唯一主催ゲームで地方開催を行っていなかった。 に千葉への本拠地移転25周年記念事業の一環として、を会場とした初の主管試合(7月12日・対ソフトバンク戦)を開催した。 地方主管試合としては2005年7月に西武ライオンズを帯同した、での試合以来11年ぶり、東京都での主管開催はジプシー時代の1977年に後楽園・神宮で各12試合ずつ・24試合を開催して以来39年ぶりのことであった (試合は4-0でホークスが勝っている)。 2017年は再び地方開催なしとなったが、2018年は5月15日に13年ぶりに富山市民球場アルペンスタジアムで、8月21日に2年ぶりに東京ドームで、それぞれ地方開催を行った。 2020年は6月30日に富山市民球場アルペンスタジアムで、9月8日に()での地方開催を予定していたが 、の感染拡大を受け、前記2球場での地方開催を断念することを2020年4月13日に発表した。 なお、水戸での開催は前身球団の大毎が1959年5月に対阪急戦を行って以来61年ぶりになる予定だった。 チームスローガン [ ]• 1993年:「心・技・体 '93」• 1994年:「激闘」• 1996年:「One at a time(一つ一つを大切に)」• 1998年:「Play Hard '98」• 1999年:「For The Team」• 2000年:「For the Team 2000」• 2001年:「For the Team Strive for Victory(チームのために勝利に向かって奮闘しよう)」• 2002年:「For the Team」• 2003年:「Ambition for Victory (勝利への執念)」• 2004年:「This year is beginning of the future. (今年から未来が始まる)」• 2005年:「BUILDING OUR DREAM! 〜夢をみんなで〜」 優勝直後には「We built our dream(夢を叶えたぞ)! 」の文字が公式サイトに現れた。 2006年:「Let us do it again(もう一度夢をみんなで)」• 2007年:「All Hands to The Flag! 〜結束、フラッグのために〜」• 2008年:「A Passion for Our Dream, A Commitment to The Flag(夢に情熱を、フラッグに誓いを)」• 2010年:「和」• 2011年:「和 2011」「今こそみんなで和の力」 「今こそみんなで和の力」は復興スローガン。 2012年:「和のもとともに戦おう」• 2013年:「翔破〜頂点を目指して〜」• 2014年:「翔破 〜頂点へ、今年こそ。 2015年:「翔破 〜熱く! 勇ましく!! 泥臭く!!! 2016年:「翔破~熱き心で~」• 2017年:「翔破~限界を超えろ! 2018年:「マクレ」• 2020年:「突ッパ! 」 マスコット [ ] マーくん 千葉ロッテマリーンズ マスコット 基本情報 国籍 出身地 幕張の浜 生年月日 8月9日 選手情報 投球・打席 右投右打 ポジション 経歴 (括弧内はプロチーム在籍年度) この表はテンプレートを用いて表示しています。 編集方法はを参照してください。 現在のマスコットである マーくんは3代目でがモチーフ。 等に使用されているほか、千葉県や千葉市のキャンペーンなどにも起用されている。 同じオーナーのもとにある兄弟球団にあたる韓国の、にもマーくん・リーンちゃん・ズーちゃんと類似のマスコット(イラストではユニフォーム・キャップなどの色違い)が制定されており、日本のマーくんにあたる ヌリがペットマークに使用されている。 マーくん 6歳・メインキャラクター ユニフォーム姿(背番号なしでネーム「MAR-KUN」のみ)。 メンバー(744号) 1992年に登場。 着ぐるみは数度変更されており、ペットマークに導入された際に現在のルックスとなった。 2012年3月1日からはのアカウントが独立。 元々千葉ロッテマリーンズの公式アカウントでつぶやいていたものの、専用のアカウントが出来たことで発言の頻度が増している 2012年4月現在。 千葉ロッテマリーンズの公式アカウントでつぶやいていたころの名残か、つぶやく際に毎回「マーです」と名乗っている。 のマスコット・曰く意外とロッテリアの競合会社であるが好きとのこと。 生粋のアイドルヲタクである。 つば九郎の妹・に想いを寄せられているようで、交流戦で神宮球場へ行くたびに猛アタックされている(『』を渡されるなど)。 しかし本人は興味を持つことなく、恐怖感を持って逃げ出したり、冷たい目で見ることが多い。 リーンちゃん 4歳・マーくんの彼女 でピンクのサンバイザーに白のトレーナーもしくはピンク系のスタジアムジャンパー・白またはピンクのプリーツミニスカート姿。 「マリーンズダンスアカデミー」の校長を務めている。 ズーちゃん 3歳・マーくんの弟 前後逆に被った黒のキャップに灰色のパーカーと水色のハーフパンツ姿で左頬に絆創膏。 クール COOL をモチーフに(登場当初はビン底メガネ。 環境問題に関するレクチャーを行なう時には掛け替えたりもする)。 マリーンズ誕生後の、オリオンズのマスコットとなるべく川崎球場にやってきてしまい、チームを探して日本や世界中をあちこち探し回ってようやく千葉にたどり着いたという設定。 、謎の新マスコットとして突然デビュー。 に名前が正式発表される。 登場当初は「ビジターチームのファンを盛り上げる」ということで相手チームのビジターユニフォームを羽織り、レフトスタンドや三塁側スタンドに陣取ったビジターチームのファンを盛り上げていたが、のちに正マスコットの座を狙う「悪のマスコット」というポジションに変更された。 8月に環境大臣(当時)より「環境戦士」に任命され、「環境戦士COOL」として環境問題啓発活動も行っている。 4月にテーマ曲「COOLだぜ! 」(作詞・作曲・演奏 )が作られた。 (普通・8トン未満限定中型一種)を持っているらしく、マイクロカーの運転までしてのける。 2017年2月5日を持って、卒業 いずれも基本的にはしゃべらないが、キャラクターショーでは野球マスコットにしては珍しくしゃべる(声優不明)。 また、イベント限定キャラクターとして、まれにの「チャンスくん」(「コアラのマーチ」にちなむ。 謎の魚 2017年5月より登場した新キャラクター。 名前は「魚」としか表記されていない。 第一形態は魚にあんこうのような提灯が点いた姿でスコアボードのビジョンに登場、第二形態はチョウチンアンコウのような見た目に、スリムな足が生えるという奇抜な出で立ちで現実世界に登場、この独特な見た目が話題となり、のサイトでも紹介された。 そして6月11日、第三形態として中身の骨が飛び出るという衝撃的なパフォーマンスを行い話題を呼んだ。 この際は、再び第二形態に戻って退場している。 その後2018年6月12日には大型化した骨の頭に緑の足が生えた第四形態、6月26日にはチョウチンアンコウ型の頭に緑の手足が生え腹にホームユニフォームと背中に虹色の模様とひれをあしらった第五形態が登場した。 コスチュームの基本は上述の通りだが、夏には謎の魚を除く4人がを着たり、に・麦藁帽子姿になったりする。 過去のキャラクター• 初代は東京オリオンズ時代の「桃太郎(刀の代わりにバットを持っている)」である。 2代目マスコットはロッテオリオンズ時代の「風船ガム坊や(バブリー君という説もある)」である。 営業・ファンサービス [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年1月) が球団代表に就任し、が監督に復帰した以降、千葉マリンスタジアムの「ボールパーク化構想」が方針付けられ、積極的なファンサービスに尽力するようになった。 によりロッテが千葉を去る可能性が取りざたされたことをきっかけに地元行政側との協力関係が結ばれるようになると、地域密着型のファンサービスがより積極的に展開された。 の際にこれを見た前オーナーのは「これこそファンサービス」と感動したという。 また、の最寄り駅ののも2005年3月26日から「We Love Marines」に変更するなど、スタジアム周辺の随所で地域との共存がアピールされ続けている。 一連のファンサービス向上には、荒木重雄事業本部長(当時)の貢献が大きく、荒木の在任時には、「12球団の中でファンサービスが一番良いのはマリーンズ」と評されていた。 ボールパーク化構想 [ ] 「ボールパーク化構想」の最大の障害となっていたのは、球団側と行政側との溝であった。 千葉移転以降のロッテの観客動員数の伸び悩みや市の財政難などにより、千葉市など行政側は施設の改修や増設にあまり積極的ではなく、球団がファンサービスの企画を立案しても行政側が条例を盾に認可を渋るケースが多々あった。 また、千葉マリンスタジアムは球場内が千葉市、の一部である駐車場などの球場外の敷地が千葉県の管理となっていた。 そのため、過去には売店の設置やフェンスの企業広告掲出が一切出来ず、球団に収益が全く入らない状態だった。 2004年以降は県と市の協力を得てこれを改善し、スタジアム敷地内に売店や屋台等を設置したり、動物とふれあう場所を作ったり、スタジアム内でもフェンス広告の掲出を開始したり、スタンド内にベビーベッドが設けられるなどの展開があった。 では、ロッテとダイエーを合併して「福岡ロッテホークス」とする案が取り沙汰された。 ロッテが千葉を去る可能性から行政側には危機感が生まれ、県と市は条例の改正などで千葉マリンスタジアムの使用規制を大幅に緩和し、さらに2006年度からはを導入して、球団を千葉マリンスタジアムのに指名して運営を委託するなど、現在では球団と行政とが一体となって地域密着策を展開している。 プロ野球球団が本拠球場の指定管理者になるのは、ロッテが初のケースとなった。 この他には、が同年開場した本拠地のの指定管理者となった他、に定める「管理許可制度」の適用による運営体制を導入しているケースとしては、が2004年まで本拠地(2005年以後は準本拠地)としていたと、2005年以後のの本拠地のの例がある。 また、2016年には、管理許可のもとでを運営していたの株式会社横浜スタジアムを、がにより買収している。 360度全席自由席 [ ] ロッテはから「360度全席自由席」と銘打って、本拠地の千葉マリンスタジアムの場内全席を自由席としてチケットを均一料金に割り引くファンサービス企画を、毎年夏の2試合を対象に行っている。 そもそも、この全席自由席企画は2005年6月28日と6月29日に予定していた韓国での公式戦(対)が中止となったことから()、その代替企画として打ち出されたものである。 韓国での開催が中止となった2試合は千葉マリンで代替開催することになったものの、週末に比べて動員力の低い平日のナイトゲームで、更に韓国開催を前提にシーズンシートの契約対象外としていたことから、球団営業部はイベントの実施を決定した。 こうして立案されたのが「来場者に色々な席で、様々な角度からゲームを見てもらえるように」という発想からスタンドを全席自由席とし、入場料も大人1500円、子供500円の均一料金にするという、NPB12球団の一軍公式戦としては初の試みだった。 加えて当日の企画案を検討した結果「夏前のフェスティバルのノリで、のように盛り上がれる企画」という方向性が決まり、ビールを通常の半額(1杯300円、ソフトドリンクも200円に割り引き)で販売するなどのサービス実施を決定、企画タイトルは「360度ビアスタジアム」と銘打たれた。 結果、2日間とも通常の平日のナイターを大幅に上回る観客を集め、概ね好評だった。 「ビアスタジアム」は翌シーズンも6月27日の対日本ハム戦、8月30日の対ソフトバンク戦の2度実施され(ただしドリンク類はブースのみでの販売とし、売り子の巡回販売は行わず)、6月の試合では観衆の一人単位までの発表を開始してから当時最多の29,152人を記録した。 はイベントのアイディアを一般ファンから募集し、全席自由席企画を「応援スタジアム」と「ビアスタジアム」の2本立てとして実施することとなった。 まず「応援スタジアム」は7月3日の対オリックス戦で実施。 通常の外野スタンド右翼側だけでなく内野スタンド一塁側も応援席とし、イニング間には応援ボードコンテストなどを実施。 また、ゲストとしてを招聘するなど(一部)、さまざまな企画が行われた。 恒例となった「ビアスタジアム」は7月31日の対楽天戦で行われ、全席自由席企画では最多となる30,016人の観客を集めた。 この全席自由席企画においては、スタンド内を全席自由とすることによって観客の動向が通常時と大きく異なることから、球団営業部では開催当日の場内を細やかにリサーチしている。 調査項目は「スタンドのどの席にニーズがあるのか」「どのような観戦スタイルをしているか」など細部にわたっており、調査結果は今後のファンサービスや座席設定など、球団の営業戦略に反映されている。 マリンスタジアム場内に設けられている特別シートは、この企画を実施する際の対応が異なっている。 一・三塁側のファウルエリアに設けられた「フィールドウィング・シート」のチケットを希望する場合は、あらかじめ前売入場券を購入した上で抽選に申し込む必要があり、当選者に限り座席指定券が発行される。 また内野1階席三塁側の「ピクニックボックス」のチケットを希望する場合も抽選に申し込む必要があり、当選者に限りチケットが販売される(販売価格は通常の15000円が7500円となる。 定員5名であるため、1人換算1500円)。 この措置は観客の安全性を確保する上で、両座席については規定の定員を遵守しなければならないため「指定席」の扱いとなることによるもので、これら抽選の申込受付はマリーンズオンラインチケットショップで開催日の3週間前に行われる。 但し、ネット裏のプレスブースに隣接する「マリーンズ・プレスシート」は座席設定・価格とも対象外で、通常時と同じ設定となっている。 その他の営業・ファンサービス [ ]• 夏休み期間中(7月下旬 - 8月いっぱい)の千葉マリンでの公式戦は全試合ナイター開催で、5回終了後にが打ち上げられる。 そのうちの1試合で開催される「花火ナイター」は毎年恒例となっている。 2007年度は平日のナイターは18時15分開始、週末は18時からの開始となっていた。 2009年度は金曜日以外の平日は18時15分、金曜ナイターのみ週末の初日で多くのファンを確保したいという観点で18時30分の開始 となった。 また、週末開催のナイターは土曜日のみ18時からは変わらないが、日曜日は薄暮デーゲームとして17時から行う。 また、この時期になるとである(・ ・)の車両で「花火ナイター号」が運行される。 は一部の例外(ロッテOBによるものなど)を除いてプレーボール直前ではなく、野手が守備位置につく前に行われる。 チームがホームゲームやイベントなどでパフォーマンスを行う。 2005年、東北楽天ゴールデンイーグルスが「スタメンに次ぐ控え選手の一人」として、背番号10をファンのための欠番にしたことが話題になったが、それに先駆けてマリーンズでは、ファンを「一軍の25人に次ぐ26番目の選手」として背番号26を欠番とした。 元々サッカーでは同様の理由で12番を欠番にしたり、サポーターが「12」という大きな横断幕を作っているが、マリーンズファンもそれに倣ってライトスタンドを覆う「26」をモチーフとしたデザインのビッグフラッグと呼ばれる大横断幕を試合開始前に広げるパフォーマンスを背番号26が欠番になる前から行っている。 スタジアム前の6冠記念モニュメントにも2005年当時の監督と選手のサイン付き手形レリーフと共にユニフォームマークの形でプレートが嵌め込まれている。 過去にはホーム戦でのラッキー7の攻撃前に「」が演奏されていた(現在は「」)。 地元千葉県のであるが、同球団およびファンクラブTEAM26のスポンサーになっている。 2004年4月からは毎年、同球団の成績により金利が変動する(通常金利に0. 026パーセント加算、リーグ優勝で0. 26パーセント加算)「マリーンズ応援団」を販売している。 2010年、2013年のでは全試合において千葉マリンスタジアムでが行われた。 入場無料ながら特別ゲストにを迎えたほか球団マスコットも総動員されるなど通常の試合以上のような盛り上がりを見せ、千葉市市長のも応援に駆け付けたほか、日本シリーズ進出が決まった試合では内野1、2階席が解放され約1万3000人の観客が訪れた。 2013年から交流戦では他球団を挑発するポスターが毎年制作されている。 2015年のクライマックスシリーズ時には対戦相手のファイターズとホークスに対する挑発ポスターを制作した。 結果はファーストステージでは2勝1敗でファイターズを下したものの、ファイナルステージではホークスに3連敗(アドバンゲージ1勝を除く)し終戦。 ポスター内にあったを意味する「二度ある事は三度ある」を達成することはできなかった。 2016年のクライマックスシリーズ時にはファイナルステージに進出した際に対戦相手のファイターズ対する挑発ポスターを制作したが、結果はファーストステージで2敗で敗れ、一時はお蔵入りの危機に瀕していたが、「来季は大谷投手に勝る存在感で優勝して欲しいとの思いから、あえて公開しました」という理由で2016年12月5日に公開された。 内容は「二刀流対伊東(いっとう)流」である。 2016年4月29日に開催された対北海道日本ハムファイターズ戦では、隣接するで同日開催された「」とタイアップ、『超野球』と題して当日のニコニコ超会議入場券所持者は特別に用意された「超野球観戦シート」にて入場無料で観戦できるようにした。 また当日は、7回裏直前にフィールド内での片づけ作業体験や、球場内で来場者が生放送配信できる「超野球ユーザー生放送」などの企画も合わせて実施された。 12球団の中では禁煙に積極的に取り組んでおり、2019年7月26日から本拠地ZOZOマリンスタジアムの喫煙所を専用に切り替え、の全面禁煙に踏み切った。 また、2020年シーズンからは選手・コーチ・球団職員も含めた全スタッフに対し、勤務時間中の禁煙が発表された。 公式ファンクラブ『TEAM26』 [ ] 球団公式ファンクラブ『 TEAM26』があり、プレミアムゴールド・ゴールド・レギュラー・カジュアルレギュラー・ジュニア(いずれも有料)・マリーンズ(無料)の6コースがある。 前売りチケットやグッズの購入で Mポイントを貯めることが出来る。 2010年度(2011年1月31日)までの「 TEAM26」会員証はとの提携による機能搭載のカード一体型だった。 独立リーグへの派遣構想(2007年) [ ] 10月1日のプロ野球運営実行委員会で、球団社長(当時)のは、5 - 8人程度のを獲得した上で、である四国アイランドリーグ(現:)のに派遣する構想を表明した。 当日の委員会では結論が出ず、継続審議の扱いになった。 一部球団からは「の混成チームであるフューチャーズの活用が先ではないか」といった意見が出された。 その後、社会人野球側から「育成選手制度の本来の趣旨と異なる」という指摘がなされ、内部の他に社会人野球側とも調整が必要な状況となった。 2007年11月6日のプロ野球運営実行委員会でも合意には至らず継続審議となったが、次回の委員会の前にドラフト会議を迎えるため、来季の派遣については困難という報道がなされた。 2007年のドラフト会議で獲得した育成選手5名(、、、、)は、支配下登録を受けた1名(宮本)を除き2009年のシーズン終了後にを受けて退団。 このうち、アイランドリーグから指名された小林は同リーグに所属していたへ入団し、白川と大谷は徳島へ入団した(池田は引退)。 約4年半が経過した3月1日にNPB実行委員会が、育成選手に限り四国アイランドリーグplusとへ選手の派遣を認めた。 ただし、ロッテはこの制度による選手派遣を実施していない(2016年現在、派遣実績がある球団は・・・・)。 3月にベースボール・チャレンジ・リーグのと業務提携を行い、ロッテ球団職員のがトレーニングコーチとして派遣されることになった。 ユニフォームの変遷 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年1月) 東京・仙台・川崎時代 [ ] 毎日時代 [ ]• (シーズン開幕前) - 練習用(プロトタイプ)として、白を基調としたものとグレーを基調としたものを使用した。 白地・濃紺ツバの帽子、白地のシャツ・パンツ(ズボン)、濃紺のアンダーシャツ。 シャツには「Mainichi」の胸マーク(筆記体)が入った。 濃紺地の帽子、グレー地のシャツ・パンツ、濃紺のアンダーシャツ。 シャツには「Mainichi」の胸マーク(筆記体)、左袖に毎日新聞社社旗を流用したデザイン(赤い社章と二本線)が使われた。 胸マークについては、発行の書籍『プロ野球ユニフォーム物語』(著:・絵:綿谷寛)では、赤となっているジン着写真(当時発売されたブロマイド)が掲載されているが、著者の綱島は「胸マークには赤は無かったとも思われる」として、綱島が推定した上で濃紺に塗り変えた写真も一緒に掲載している。 1950年 - - ホーム用は当時のニューヨーク・ヤンキース、ビジター用は当時のをイメージして作られた。 1950年シーズン途中から左袖には毎日新聞社の社章に代わりトリコロールのワッペンが付いた(からはの枝と「1950」(優勝年)の金糸文字が入った。 シーズン途中からはを起こした責任を取る形で廃止したが、には「Orions」ロゴが入る形で復活)。 シャツ・パンツは、白地に濃紺縦じま(ホーム用)、グレー地(ビジター用)。 アンダーシャツは、濃紺。 胸マークは、ホーム用 - 左胸に「M」マーク(飾り文字書体。 濃紺・白縁取り)・ビジター用 - 「Mainichi」(筆記体。 )、「Orions」(セリフ風書体。 濃紺・白縁取り。 1950年シーズン後半より使用)。 帽子は濃紺地に白い「M」マークの入ったもの。 には、白地に濃紺縦じまに白「M」マーク・濃紺ツバの入ったもの(ホーム)、グレー地に白「M」マーク・濃紺ツバの入ったもの(ビジター)も使用された。 には、グレー地などを基調としながら、首周り・袖・ズボンサイドにラインが入ったビジター用を、には、「Orions」に代わり「TOKYO」の胸マーク(の「NEWYORK」に似た書体)が入り、ラインを外したビジター用をそれぞれ使用した。 - - 球団名が毎日大映オリオンズとなり、胸マークも「Orions」となるが毎日時代のスタイルを踏襲。 また、大映からゴシック体の番号フォントが継承された。 ビジター用は最初「DAIMAI」だったが、から「TOKYO」に変更される。 この間、が付く。 帽子マークは、1958年に「D」と「M」を重ねたマークが採用。 は左上よりに「D」右下よりに「M」の字を絡ませたマーク、その後、(「O」マーク)、(「T」と「O」を絡ませたようなマーク)に帽子マークの変更を行った(いずれも白色)。 ビジター用は最初上下グレー地だったが、1960年はブルーグレー地に白の縦じまが入ったものを使用。 翌年以降は再びグレー地となった。 - 赤色をふんだんに使ったホーム用ユニフォームが登場。 左袖のワッペンは小さくマイナーチェンジされたもの(「Orions」の文字なし)が使用されたが、シーズン途中のの対近鉄戦より左袖にペットマーク(バットを持ったのイラストが描かれたもの)がつく。 帽子マークは「T」(赤色・白縁取り)。 胸マーク・番号・ライン(首周り・袖・ズボンサイド) - 赤色・濃紺縁取り。 - - ホーム用がドジャース風(ただし、青ではなく紺を基調としており、胸マーク・背番号は赤、胸番号は紺)となり、縦縞が廃止される。 左袖には桃太郎のマークが形を変え引き継がれた。 当初首周り・袖・ズボンサイドに赤ラインがあったが翌年廃止され、さらにドジャースに近くなった。 このデザインはロッテになってからも引き継がれた。 帽子は、濃紺地に白文字の「T」。 ロッテ時代 [ ]• - - 株式会社が(1971年から正式な親会社)となり、球団名がロッテオリオンズに改称。 ホーム、ビジター用共胸番号が消え、赤の「 LOTTE」だけのシンプルものになり、「Orions」のロゴは左袖に移る(色は青)。 背番号(赤色)はオリジナル書体。 また帽子のマークがLとOとの組み合わせと星のマークがついたものになる。 - - の監督就任に伴い、ユニフォームを一新。 帽子・アンダーシャツが青から紺に代わる。 また、金田のアイデアを取り入れたニット素材の特徴を生かし、肩、袖、パンツからボディにかけて、両サイドを紺で挟む赤の太ラインが入る。 「LOTTE」の胸ロゴは紺色に赤の縁取りのゴシック体(背番号も同様)となり、「Orions」のロゴは消滅(基本ユニフォームとなるホーム用に企業名のみを表したということ)。 また、背番号の上に選手名が入り、胸番号が復活する(胸番号・選手名は紺)。 帽子のLOと星マークに、赤の縁取りが入る。 ホーム用はオフホワイト地。 ビジター用はスカイブルー地で、胸ロゴはホーム同様「LOTTE」。 翌より、胸ロゴ・背番号の色が赤色に紺の縁取りへ変更され、ボタンの素材が、白の2つ穴から透明4つ穴タイプに変わる。 より、スパイクの色が黒地に白ラインから白地に紺ラインに変わる。 より、ボタンの素材が透明からユニフォームの地色と同じ色に変わる。 金田監督より、ラインは生地の上に乗せるのではなく、生地と生地との間にはめ込むよう要望があり、当時の技術では非常に苦労したという。 千葉時代 [ ]• - - 本拠地がに移転し、球団名が「千葉ロッテマリーンズ」となり、初めてプルオーバー・タイプを採用。 サンライズ・ピンクとカレント・ブルー(ブルーグレー)で千葉県のイメージを前面に押し出した。 帽子は、黒色地に帽子マークはピンクの縁取りに黒文字でCLM(Chiba Lotte Marinesの略)で真ん中に波模様が入ったもの。 シャツ・パンツは、白(ホーム)、ブルーグレー(ビジター)をそれぞれ採用。 首周り・袖口には、黒・ピンクのライン(外側にピンク)が、ズボンサイドにはピンクを黒で挟んだラインが入る。 胸マークには「Marines」(筆記体)を、左袖にはホーム「CHIBA」ビジター「LOTTE」(親会社ロッテのロゴマーク)のマークをそれぞれ採用。 胸マーク・番号にはピンク・黒縁取り、左袖マーク・背ネームには黒を使用。 - - する事情から、の提案によりユニフォームを一新。 チームカラーを白と黒を基調にしたものになる。 毎日オリオンズ時代から東京時代まで使われていた縦縞が29年ぶりに復活し、を模したデザインになる。 さらに、当時球界で主流になりつつあったユニフォームのパンツ裾を足首まで下げるスタイルを、広岡GMが非常に嫌っていたため、オールドスタイルを実現すべく長めのストッキングを採用(上部に白いMマークのが入る)。 また、スパイクは黒地にホワイトのラインのものに変更。 - 夏季の週末のホームゲーム限定で白地に黒の「M」マークを入れた「サンデーキャップ」を採用。 (初登場は7月20日のダイエー18回戦。 - 夏季の週末のホームゲーム限定で「サマーユニフォーム」を採用。 日本では中日に次いで2チーム目の採用となるノースリーブでロゴはビジター用と同じ「Marines」。 キャップはつばの部分をグレーに変更。 - - ビジターでの負けが多いことから、上下グレーのビジター用ユニフォームを上が黒、下がグレーの新たなユニフォームに変更した(球団史上初の上下ツートンカラーのユニフォームである)。 ビジターゲームでマリーンズファンが「黒の軍団」と称されるのは、この頃からである。 - 2004年 - サードユニフォームとして上下グレーのビジターユニフォームが採用(翌年はセカンドビジターユニフォーム)。 このユニフォームは金曜日、土曜日、日曜日のビジターゲームに使われ、その他の曜日のビジターゲームでは黒い上着のユニフォームが使われた。 おおむね、同時期ののビジターユニフォームに、既存のロッテのユニフォームのマーク・背番号を張り替えたようなデザインだった(ただし、ラインは阪神と違い白に黒を挟んだものであり、阪神のそれと比べ細かった)。 - - 復帰したバレンタイン監督の提案で、上記のホーム用ユニフォームにプラスする形で、黒いダンダラ帯のはいったサンデーユニフォームが登場。 初年度は縦縞の入ったホーム用の白パンツとの組み合わせだったが、翌年から法被に合わせてデザインされた新たな白パンツが登場した。 よりユニフォームの名称を変更し、法被と白パンツを組み合わせたものを「 誠(まこと)」、法被と黒パンツの組み合わせを「 侍(さむらい)」、それまで使われてきた上下縦縞を「 戦(いくさ)」とした。 また、上下グレーのセカンドビジターユニフォームは廃止され、ビジター用のユニフォームは1種類のみとなった。 パンツも「誠」と同じものへ変更。 「戦」以外のホーム時やビジターでは、帽子のツバには濃いピンクと白のギザギザがデザインされ、Mの文字にはピンクのシャドウが入ったものを使用。 ホームゲームでどのユニフォームを着るかは、メジャーと同じく先発投手が自由に選んで決められる方式にした。 (基本的に連勝中は縁起担ぎで変えた投手はいなかった)この年の後半にはいい状態でチーム状態が継続していたため、普段は「戦」を選択するさえ縁起担ぎで「誠」を使用。 ポストシーズン(・・)のホームゲームでは「誠」で戦い全勝した。 しかし、「戦」「誠」が選手に受け入れられたのに対し、「侍」は「格好が悪い」ために選手から敬遠されていた。 実際、2005年に公式戦で「侍」が着用されたのはホームゲーム連敗中のの対戦の1回だけで、先発のがこのユニフォームを選択したが、その試合は3-11と大敗。 その後「縁起が悪い」と敬遠されたのか、「侍」を選択した先発投手はいなかった。 - - 2005年のアジアシリーズ制覇を記念したチャンピオンエンブレムが袖に入る。 図案は「CHIBA LOTTE MARINES」の白文字入り黒リングで囲まれたボールを背景に「05 Marines ASIA」の文字、「CHAMPIONS」の白文字が入った赤リボン、最下部に6冠を表す銀の六連星。 - - 社がオフィシャルサプライヤー契約を締結、デザインをマイナーチェンジ。 チームカラーを「白、黒、赤」とし、ホーム用は従来のストライプタイプ「戦」と、「誠」の袖のダンダラ帯と胸ラインを赤色にした2タイプがある。 ビジター用は黒を基調とし、上から下へ向かって黒から白へと徐々にグラデーションしたもの(日本プロ野球史上初のデザイン)である。 またビジター用ユニフォームには右胸に球団ペットマークが浮き上がって出るようにあしらわれている。 「戦」以外は、背番号の書体も丸い斜体文字へ変更されている(ホーム用「誠」は赤、ビジター用は黒)。 - ロッテのプロ野球参入40周年を記念した「ORIONS-MARINES 40th ANNIVERSARY」エンブレムが袖に入る。 - - バレンタイン監督の退任に伴い、「戦」以外のユニフォームのデザインが変更(各ユニフォームのニックネームも廃止)。 チームカラーの一つとされていた赤が消えた。 ビジター用はグラデーションを廃止し、黒地に白のカットラインが入る。 サードユニフォームはラグランスリーブ部に黒を配した。 ビジターとサードにはそれぞれ右袖には2段組みで「CHIBA LOTTE」の文字が入る(ホームは今までどおり「LOTTE」のみ)。 帽子は従来の黒帽子で統一された。 右袖に2006年から付けられていたアジアシリーズチャンピオンエンブレムが廃止。 右胸のワッペンスポンサーがからに変わる。 なお、サードユニフォームが使われたのは、2010年は4月25日、6月30日、8月1日の3試合(対戦相手はいずれもソフトバンク)、2011年は6月8日の阪神タイガース戦の1試合、2012年は7月16日、17日の楽天戦の2試合のみであった。 2013年は、後述の2012年の限定ユニフォームがサードユニフォームとして着用された。 - 現在 - ホーム、ビジター共に新素材を使いユニフォームを軽量化。 また、ビジターユニフォームはデザインを変更し、「闘志あふれる勝利への執念」を表している。 前年まで使用したユニフォームと同様に黒地に白のカットラインが入る。 胸ロゴが「Marines」 胸ロゴ・胸番号・背番号共に白字で赤で縁取り 、背ネームは白字。 両袖に赤のライン、左袖に丸にカモメのロゴマークが入る。 なお、ビジターユニフォームには2段組の「CHIBA LOTTE」の文字はなし。 ズボンはグレーで、サイドの腰から膝までの部分のみ赤のラインが入る。 帽子は黒でロゴが「M」 白字で赤で縁取り 、ツバの縁が赤。 また、ホーム、ビジター共にズボンにの広告が入る。 ホーム用は帽子が前年まで使用していたもので、つばのふちが白。 - このシーズンよりキャップへの広告表示が認められ、キャップ左即部にの広告が入る。 - このシーズンよりサプライヤーがデサントからに変更される。 大きなデザインの変更はないが、刺繍から昇華プリントに変更され軽量化が図られた他、選手名・背番号の字体などが変更される。 広告はキャップ左即部が、右胸のワッペンが、ズボンがにそれぞれ変更。 - このシーズンよりビジター用のズボンがグレーから白に変更。 - サプライヤーがユニホームはに、キャップはに変更される '47がNPBのサプライヤーになるのは初めてとなる。 合わせて「PINSTRIPE PRIDE」というコンセプトの下、ビジターユニホームにもピンストライプを採用し、ビジターマリーンズの象徴である「ブラック」と掛け合わせることで強さと威厳、相手チームへの威圧感を兼ね備えたデザインに変更した。 キャップもビジター用は「M」が黒文字となっている。 限定ユニフォーム [ ]• - の2カードで、ロッテのプロ野球参入40周年記念として、オリオンズ時代のホーム用ユニフォーム(1991年まで使用)を復刻した。 「 1」の書体については、当時のものは左上が欠けていたが、復刻版は欠けていない書体(カギカッコのような書体)を使用した。 - のオリックス戦で、前年に続いてロッテのプロ野球参入40周年記念として、オリオンズ時代の1972年まで使用されたホーム用ユニフォームを復刻した。 、千葉移転20周年を記念してホームゲーム限定で、1992年から1994年までのホームユニフォームを復刻使用している。 上記の2008年のユニフォーム同様、「 1」の書体については欠けていない書体(カギカッコのような書体)を使用した。 、パ・リーグ共同企画「」の一環で、オリオンズ時代の1991年まで使用されたビジター用ユニホームを復刻。 ただし、復刻ユニフォームの右胸には、パンツ左側にはの広告が付く。 "ALL for CHIBA"シリーズ [ ] 2012年の千葉移転20周年記念イベントをきっかけに、胸に「Chiba」のロゴが入れられた特別ユニフォームを着用し千葉県への感謝と千葉県と共に戦う思いを表現した特別試合企画。 なお、マリーンズのユニホームに「CHIBA」のロゴが入ったのは1992年の移転後初。 一軍の公式戦数試合で着用するほか、二軍の公式戦でも数試合限定で着用。 2013年から2015年は「埼玉VS千葉シリーズ」ででも着用された。 2015年は4月の3連戦においてでも着用されている。 千葉県公式マスコットキャラクターのの赤・移転当時のユニフォームのサンライズピンクを掛け合わせた「サンライズレッド」をメインカラーとした「新・CHIBAユニフォーム」を着用。 胸には球団ロゴを模した「Chiba」ロゴが表記され、胸番号・背番号・選手名ロゴはマリンフェスタユニフォーム(後述)と同様。 ビジターユニフォームと同じ形の黒いカットラインが入る。 - 、「CHIBAユニホーム」をマイナーチェンジ。 胸番号・背番号・選手名ロゴは、同時にマイナーチェンジされたホーム・ビジター用と同様のタイプに変更。 前年と同様に「サンライズレッド」をメインカラーとしており、両肩から脇の部分に黒の太いラインが入っている。 さらに、キャップ、パンツの裾部分に赤いドット調をあしらうことで波しぶきを新たに表現したことが大きな特徴。 右袖に本拠地・ZOZOマリンスタジアムのある千葉市、秋季キャンプ地である鴨川市のほか、県内での2軍試合を開催する8都市、合計10都市の名前入りロゴを試合別で掲出する。 翌は2軍試合開催地が1都市増加し、合計11都市を掲出。 、ZOZOTOWNプロデュースによるデザインを採用。 サンライズレッド地にチーム名の頭文字であるMとチームの象徴であるカモメを表す黒い縁取りに白のM字型のパターンをユニフォーム全体にあしらい千葉が一丸となり未来に向かい羽ばたく思いを表現するものとした。 マリンフェスタ [ ] 「月1回のファン感謝デー」をテーマに、毎月1試合で特別ユニフォームを着用して試合を行い、さらに試合の前後に選手がトークショーやサイン会などのファンサービスを行うイベント。 なお、シーズン後に開催されるファン感謝デーは「スーパーマリンフェスタ」と題し、その年に使用された特別ユニフォームを着用する。 :「若手の多いチームの持つ元気さ爽やかさ」「ロッテの本拠地・QVCマリンフィールドのある千葉・幕張の海のイメージ」を表現した「マリンブルー」をメインカラーに使用した限定ユニフォームを着用。 胸ロゴは「Marines」で、胸番号・背番号・選手名ロゴはホーム・ビジター用とは異なる字体を採用。 脇から袖の部分に黒いラインが入る。 :前年同様の2コンセプトに加え、「海の上に広がる空」をイメージした青と白色を基調とし裾に向かって薄くなるグラデーションタイプのユニホームを使用。 なお、ロッテがグラデーションタイプのユニホームを採用するのは、2008〜2009年に使用されたビジターユニホーム以来となる。 ビジターユニフォームと同じ形の黒いカットラインが入る。 :胸の「Marines」ロゴは海をイメージした青い迷彩柄の中に白いカモメのイラストをデザイン。 また、同年の「CHIBAユニフォーム」と同様、キャップ、パンツの裾部分に青いドット調をあしらうことで波しぶきを新たに表現している。 「CHIBAユニフォーム」と共に、胸番号・背番号・選手名ロゴは、同時にマイナーチェンジされたホーム・ビジター用と同様のタイプに変更。 :井口資仁監督就任1年目から「波に乗り」「ウェーブ」を巻き起こすという気持ちを込めて、力強い波をベースにチームの象徴であるカモメを全体にあしらったデザイン。 胸の「MARINES」ロゴは前年までと異なって全て大文字となり、ロッテオリオンズ誕生50年目のシーズンを記念して、1969年にロッテオリオンズとして最初に登場したユニフォームのアーチ型ロゴをモチーフとしたデザインに変更。 :本拠地ZOZOマリンスタジアムをイメージした淡いブルーを基調に、白のストライプを球団の象徴として採用しストライプの細部に数多くのカモメを入れたデザインとし、背ネームには親近感を高めるべくニックネームを表記する。 :本拠地ZOZOマリンスタジアムをイメージしたブルー色にチームカラーであるホワイトを合わせ爽やかな幕張の海と青空を表現したものとし、背ネームのニックネームは一般から公募した。 先祖帰りのユニフォーム [ ] 「千葉ロッテマリーンズ」となった、広告代理店のがデザインを担当し、「今までのプロ野球にない色使い」を重視し、チームのイメージカラーとしてピンクが採用された。 球団旗・ペットマーク・ユニフォームにピンク色は採用され、明るいパステル調のこのピンクは「サンライズ・ピンク」と名付けられ、「陽気さ・親しみやすさ・楽しさを表し、未来へと広がる千葉のイメージをも表している」と説明された。 またビジター用ユニフォームの地色となった水色も「カレントブルー」と名付けられ、「沖合におけるとのぶつかり合い」と定義付けられた。 なおOBのが2018年に『』のインタビューに語った内容によると、初代ユニフォームの選定段階ではいくつかのカラーパターンが選手側に提示され、その中でエメラルドグリーンが一番人気を集めたという。 しかし結果的にはオーナー代行のの鶴の一声でピンクに決まり選手は一様に落胆した、と振り返っている。 ところが、に監督に就任したはピンクの「Marines」ロゴが入ったユニフォームを「戦う者の着るユニフォームではない」と批判。 全体的に毎日創立時のデザインと似通っていたため、「先祖がえりともいわれ、多くのファンに歓迎された。 」と、の書籍『プロ野球ユニフォーム物語』に、先述の変更へのいきさつとともに記述されている。 ただし、小宮山悟が前述のインタビューに語った内容によると、上記の批判をしたのはバレンタインではなくであるという。 その他 [ ] には、通常のホームユニフォームをノースリーブとしたノースリーブユニフォームを夏季に使用した。 - の日本ハム戦()で、日本ハムがブラックを基調とした特別ユニフォームを着用するのに伴い、普段のブラックのビジター用ユニフォームではなく、ホーム用のストライプユニフォームを着用。 2017年は宮城球場で東北楽天が黒のユニホームを着用するのに伴い、通常のホームユニホームを着用した。 「ブラックブラックナイト」と呼ばれる、ホームの試合で普段のホーム用のストライプユニフォームではなくビジター用ユニフォームを着用する試合を毎年1試合程度行っている。 例外としては2試合(4月4日と7月31日で、対戦相手は両日ともに同じ戦であった)。 ・の対戦相手だったはビジター用ユニホームがマリーンズのそれと同じ配色だった為、ホーム用ユニホームでプレイしている。 MAKUHARI SUMMER STADIUM 2018年 - にかけてのホーム7試合・ビジター6試合にて、オーストラリアのサーフブランド・ビラボン()によるをモチーフとしたボタニタル柄デザインのユニフォームを着用。 2019年7月7日 - 8月12日にかけてのホーム7試合・ビジター6試合にて、ビラボンによるハワイをテーマに「TRADEWINDS(貿易風)」のコンセプトで貿易風がもたらす自然や文化をヴィンテージ風に表したデザインのユニフォームを着用。 球団旗の変遷 [ ] この節はなが全く示されていないか、不十分です。 して記事の信頼性向上にご協力ください。 ( 2013年1月)• 中央の白の部分に黒文字で「Orions」とロゴが染め抜かれた。 その後も3回の球団名変更後もそのまま使用される。 ちなみに、このトリコロールは当時の親会社・のグループ企業にも波及しておりやのにも採用されている(但し、両社とも上部は赤ではなく濃い橙色)。 1971年 - 1991年 - ロッテが正式な親会社となるが、球団名は変わらなかった。 おおまかなデザインはそのままだが中央の「Orions」の左に赤文字で「LOTTE」のロゴが入る。 1992年 - 1994年 - 球団名が千葉ロッテマリーンズとなる。 白地にマリーンズのロゴ(MARINESが筆記体で描かれており、その下にCHIBA・LOTTEの文字)、そして下の部分は当時のユニフォームの基調の色にも採用された「サンライズピンク」と「カレントブルー」のツートンライン。 「千葉沖の海流のぶつかり合い」をイメージ。 1995年 - 現在 - シルバーを地色に、上に黒文字で小さく「CHIBA LOTTE」、その下に大きく「Marines」ロゴ。 右斜め上に球団のマスコットにも使われているカモメを1羽。 マリーンズファンと応援スタイル [ ] 詳細は「」を参照 スポンサー [ ]• ユニフォーム右袖 (1992年度 - ビジター用ユニは1992年度 - 2013年度、2019年度 - )• ユニフォーム右胸 (2017年度 - )• パンツ右側 (2018年度 - )• ヘルメット 、• キャップ左側 (2016年度 - ) 歴代本拠地 [ ]• 1978年 - 1991年• シーズンはをに置き、宮城球場と首都圏の他球団本拠地などで主催公式戦を行った(このため名目上のとしての届け出はこの年できなかった)。 同年12月21日の実行委員会で翌から暫定的に保護地域をに移転することが決まり、1974年からの間は同県を保護地域とした。 しかし球団事務所は従来と同じく東京都に置き、試合の開催方法も1973年とほぼ同様だった。 1953年 : (登録上は1950年 - 1952年も監督 )• 1954年 - 1959年 :• 1960年 :• 1961年 - 1962年 :• 1963年 - 1965年 :• 1966年 :• 1967年 :• 1967年 - 1971年 :• 1971年 - 1972年 :• 1979年 - 1981年 :• 1982年 - 1983年 :• 1984年 - 1986年 :• 1987年 - 1989年 :• 1990年 - 1991年 : 金田正一(第2次)• 1992年 - 1994年 :• 1995年 : (第1次)• 1996年 :• 1997年 - 1998年 :• 1999年 - 2003年 :• 2013年 - 2017年:• 2018年 - :• 1952年は7月27日まで指揮、残り試合は別当薫が代行。 実際の指揮は総監督の湯浅が執っており、公式記録上も湯浅が監督として扱われている。 1952年は7月27日までで辞任。 ここから毎日大映オリオンズ• ここから東京オリオンズ• ここからロッテオリオンズ• 1975年は4月22日まで指揮、5月6日に復帰するまではが代行。 1990年は6月23日まで指揮、7月27日に復帰するまではが代行。 ここから千葉ロッテマリーンズ• 1994年は7月31日まで指揮、残り試合はが代行。 レギュラーシーズン2位からプレーオフを制してパリーグ1位• 優勝は達成無し、クライマックスシリーズを制して日本一を達成。 永久欠番 [ ] マリーンズファンの背番号26• 26 (2005年 - )- 千葉ロッテマリーンズは度以降、26をの10番同様にファンのための欠番としている(25人に次ぐ「26番目の戦士」の意)。 最後に26を付けた選手は(2003年 - 2004年)。 試合中はダッグアウトの壁に、個人ネームがなく背番号26だけが付いたユニフォームシャツがハンガーで掛けられており、試合に勝った時には、ヒーローインタビューを受けた選手が、ファンへの感謝を込めてそのユニフォームをファンの前に掲げる(マスコットのマーくんが掲げることもある)。 2006年からはこれにちなみ、ファンクラブ制度を大幅にリニューアル、 TEAM26と命名する。 準永久欠番• 8 (1987年 - 1991年)- 現役引退後欠番となっていたが、1992年の千葉移転後、が付けたことで欠番ではなくなる。 後に(1994年 - 1996年)、(1997年 - 2002年)、(2003年 - 2004年)、(2005年 - 2015年)が付けていた。 2017年からはが付けている。 俗に「ミスターマリーンズ」と称される背番号である。 沢村栄治賞受賞者 [ ] 時点の12球団ではのみ未選出である。 主な歴代の球団歌・応援歌 [ ]• 戦う男達のテーマ()• (毎日球団の歌)• われらロッテ親衛隊• オリオンズ! マリンに集う我ら 2010年に作られ、当時のでの試合開始前に流れていたが、2011年3月に球場名がQVCマリンフィールドに変わったため使われることが少なくなっていたが、同年7月に復活し、2012年から2014年は7回裏攻撃前に流れ、2015年は試合開始前、2016年は5回終了後とビジターユニで開催時の試合開始前に流れ なお、2017、2018年も 、2018年以降は9回終了後の延長戦入る前に流れるほか、2019年は試合終了後に勝利した場合に流れる。 マリンフィールドの風• 千葉、心つなげよう• ONE HEART MARINES 主なキャンプ地 [ ]• ほか( - 、 - )• ・( - )• ・( - )• ( - 、春季キャンプ)• (秋季キャンプ)• (二軍春季キャンプ) 主なトピック [ ] 最長試合 [ ] 、での戦の第2試合は試合時間が5時間15分(4-4のまま決着付かず延長13回、当時の規則に基づき時間切れ引き分け)となり、当時の最長試合時間となった。 5時間超えは当時の日本プロ野球史上初の出来事でもあった。 その後、この日本最長記録は更新(全て、または)されているが、、での戦では、セ・パ交流戦を除いたパ・リーグの公式戦では当時歴代最長となる延長12回、5時間42分を戦い9-8で勝利した。 また、ポストシーズンではの、でのとの第1戦では9回の最長試合時間記録である5時間17分を戦い4-4の引き分けに終わった。 の、でのとの第6戦では延長15回、5時間43分を戦い、2-2で引き分け、日本シリーズにおける歴代最長試合時間記録を35年ぶりに塗り替えている。 幻の合併計画 [ ] 現在の千葉ロッテマリーンズの前身である毎日オリオンズは1949年に創設され、1957年にと合併し、その後経営権の移転や改称などを経て現在に至るが、同年以降、プロ野球再編に絡むなどして球団合併構想に巻き込まれたことが2度ある。 1973年、日拓との合併構想 、ロッテオリオンズは最初のシーズンを終えた。 一方、ロッテと同じく東京都を保護地域としていたはオーナー企業の経営難等により、同年に球団の経営権がからに譲渡され「日拓ホームフライヤーズ」に改称したが、同年もパ・リーグは観客動員の面では苦戦を強いられた(ただ同年、ロッテはパ史上最多の観客動員を記録している)うえ、プレーオフを制して日本シリーズに進出したも(巨人)の前に1勝4敗で散り、巨人のを許した。 この当時の状況に、日拓のオーナー・西村昭孝はシーズン終了後「パ・リーグに将来性はない」と判断、日拓とロッテを合併し、さらに1リーグ制への移行を画策し始めた。 前述の通り、当時ロッテはジプシー生活を強いられていたため首都圏で常時主催試合を開催できる環境を求めていた。 またロッテのオーナー・も球団経営にあまり執心がないと憶測されたことから、合併調印は時間の問題といわれていた。 さらには関西でも球団合併構想が取り沙汰され、「10球団1リーグ化へ」などと先走った報道もなされた。 しかし重光はこの合併を否定。 結局、合併そのものもほどなく破談となり、球界に嫌気がさした西村は球団経営権をに売却、事態は収束した(この一連の詳細はを参照)。 2004年の球界再編問題 またには、とオリックス・ブルーウェーブの合併構想に端を発し、1リーグ制移行に加え、球団数が奇数となるためさらなる球団数削減が取り沙汰される再編問題が勃発した(詳細はを参照)。 この過程でロッテは、当時親会社の経営難から球団の維持が困難といわれていた福岡ダイエーホークスに合併を申し入れたことが判明。 オーナー企業はロッテ、本拠地は、二軍の本拠地に千葉マリンスタジアムとし、球団名は「福岡ロッテ・ホークス」とするなど、具体案についても報じられたが、結局実現には至らなかった。 また、ロッテとを合併して、「ロッテライオンズ」、と合併して「ロッテスワローズ」とする構想もあったが 、これも西武とヤクルトが単独での球団保有を表明したため実現しなかった。 結局同年オフ、ダイエーはの支援を受けて経営再建を図ることとなり 、ホークスはに売却されてとなった。 ロッテ本社は1971年から球団を保有しており(としては1969年から)、2012年現在パ・リーグの現存6球団の中では最も古くから経営権を所有している。 なお福岡移転問題はこれが最初ではなく、川崎球場時代の1984年に稲尾和久が監督に就任した際、への移転の実現を前提として就任を受諾したとされているが、このときも本拠地の移転は実現しなかった。 ライオンズとの遺恨 [ ] 詳細は「」を参照 幻となったダイエーへの球団売却構想 [ ] ロッテは1980年代後半に当時のオリオンズ球団の身売りを検討した事がある。 1987年に2年前(1985年)の優勝を機にプロ野球の球団経営に興味を持っていた流通大手のダイエーに接触。 ロッテとダイエー両社による会談に加え、行政への根回し、ダイエー各店舗におけるロッテ商品取扱を増やす、更にはまたは(後者への移転が有力視されていたが、福岡移転計画浮上時でも前者もサブフランチャイズとして検討された)への本拠地移転も検討するなど、オリオンズ球団の売却は確実の段階にまで来ていたものの、合意寸前でロッテが球団保有を継続して別の本拠地に移転する方針に変更したため、ロッテの売却は中止となり、福岡移転・神戸サブフランチャイズ化は実現されなかった。 しかし、ロッテの球団売却中止の直前に、他企業へのホークス球団譲渡を模索していたでは、ダイエーが球界参入を検討しているという情報を得ると、同社とダイエー両社のメインバンクだった(現・)に仲介を依頼。 その結果、ダイエー社長のは買収先をロッテオリオンズより変更して南海ホークスの買収を決断。 オリオンズに変わってホークスが福岡に移転する形でダイエー念願の球団保有が実現した。 悪夢の18連敗 [ ] 「」も参照 、6月13日から7月8日までの19試合で、日本プロ野球ワースト新記録となる18連敗(途中1引き分けを挟む)を喫した。 球団公式サイトのチームヒストリーでも「 悪夢の18連敗」と記されている。 開幕戦となったの1回戦は1-3で敗れ楽天に球団初白星を献上。 だが翌の2回戦はロッテが一方的にゲームを展開し、26-0で圧勝した。 打っては楽天の6投手から24安打14四死球をマークし、とりわけ2回には10者連続得点を含んで一挙11点を挙げるなど終始攻撃の手を緩めず、守っては先発のが相手打線を1安打1四球に抑え込んだ上、その許した走者をいずれも併殺で退け、結局打者27人で完封勝利を記録した。 26点差での完封勝利は、のグラウンドでの公式戦でがを相手に同じく26-0で大勝して以来、完封試合では実に59年ぶりとなる日本プロ野球史上最多得点及び得点差のタイ記録で、2リーグ分立後初の快挙となった。 また、1試合最多得点の球団記録も、毎日時代のに対戦で記録した23得点を55年ぶりに更新した。 1 2 3 4 5 6 7 8 9 計 楽天 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 ロッテ 2 11 1 0 1 4 0 7 x 26 韓国での公式戦開催構想 [ ] ロッテと福岡ダイエーホークス(当時)は日本プロ野球の東アジアでの市場拡大を視野に、2004年シーズン中からとでの公式戦開催について検討を行ってきた。 その結果、翌2005年シーズンの6月28日と29日の2日間、日本プロ野球史上2度目となる日本国外での公式戦として韓国での開催が決定。 カードはロッテ主催の対ソフトバンク2連戦とし、の、ので各1試合を開催する予定だった。 しかし、首都のソウルでの試合が予定されていた蚕室野球場での開催が困難となり(韓国プロ野球のとの2チームが本拠地として使う球場のため、全く空き日がない)、代替としてソウルの衛星都市であるのでの開催に変更したものの、当時の韓国プロ野球人気の低迷から採算が取れないと判断され、開催は断念せざるを得なくなった。 だが、この開催中止がきっかけとなり、同年夏に新たなファンサービス企画「360度全席自由席」が生まれることとなる(詳細は)。 1イニング最多記録を7つ樹立 [ ] ロッテはの対4回戦(千葉マリン)で、6回裏に延べ20人の猛攻で15点を挙げ、チーム1イニングの攻撃に関する7つのプロ野球記録(チーム記録6、個人記録1)を樹立した(以下の 太字は新記録及びタイ記録)。 1イニング12安打は史上2位タイで、最多記録に1本及ばなかったものの打者2巡・ 1イニング打者20人はこれまでの18人を更新する新記録。 1イニング15得点、 1イニング15打点も、過去にセ・リーグで通算4回記録された13得点・13打点を上回った。 打者3人目のから15人目のまで3四死球を挟んで記録した 10打数連続安打は、通算3回目となる当時の最多連続タイ記録。 加えて里崎の後にはとも死球と失策で出塁し、過去の13者連続を更新する 15者連続出塁の新記録(失策による出塁を含む参考記録)。 さらにこの間、井口からランビンまで記録した 14連続得点も、にが対21回戦()で記録した12連続を17年ぶりに更新する新記録となった。 また、この回先頭のは2打席目に代走を送られたが、続くが日本プロ野球史上初の 1イニング3打席を記録した。 だが、2打席目で2点適時二塁打を放ったものの1打席目と3打席目では凡打に倒れた。 大松は試合後、「不思議な感じですね。 自分はアウトを2つ取られた。 損したのか得したのか分からないです」と苦笑いしていた。 結局、ロッテの6回裏の攻撃は約48分にも及び、試合は23-2でロッテが圧勝した。 ロッテが挙げた23得点は、セ・パ交流戦開催1シーズン目のにが対6回戦()で、記録した19得点を更新する セ・パ交流戦最多得点の新記録となり、交流戦初の20得点以上をマークした。 ロッテは前日の、広島の先発に苦しめられるなど、11残塁13三振を喫する拙攻で完封負けを喫していただけに試合後、ロッテの監督は、「昨日はラッキーな安打が出なくて苦労したのに、今日はそんな安打が何本も出たね」と満足そうだった。 一方、大量失点を喫して敗れた広島の監督は、「まるでラグビーだね。 」と怒りを通り越して呆れ返り「今日の勝者はマリーンズじゃない。 むしろ、これだけ点差があっても応援し続けてくれた左翼席のカープファンこそが真の勝者だよ。 」と悔しさをにじませていた。 球団ではこの記録達成を記念して、このイニングに出場した12人が当日使用していたバットを納めた「1イニング15得点記念モニュメント」を作成し、から千葉マリンスタジアムの内野スタンド2階Bゲート付近にて展示している。 1 2 3 4 5 6 7 8 9 計 広島 0 2 0 0 0 0 0 0 0 2 ロッテ 0 2 5 0 0 15 1 0 x 23• ロッテ6回裏の攻撃(括弧内は得点数)• 福浦 左前安打• 大松 三飛• 井口 中前安打• 橋本将 右前安打 1• サブロー 四球• 里崎 中前安打 1• ランビン 左前安打 1• 今江 四球 1• 早坂 死球 1• 福浦 右前安打 1• 大松 右二塁打 2• 塀内 右前安打 2• 橋本将 中前安打• サブロー 中前安打 1• 里崎 中前安打 1• ランビン 死球• 今江 遊ゴロ失策 1• 田中雅 中犠飛 1• 堀 中前安打 1• 大松 右飛 1イニング最多連続打席安打 [ ] ロッテは、の対4回戦()で7回表に10者連続安打・連続得点の猛攻で10点を挙げ、前年のヤクルトなどが計8回記録した1イニング最多連続打席安打のプロ野球記録(9者連続)を更新した。 1点ビハインドのこの回、ロッテは一死無走者から里崎が四球を選んで出塁したのを皮切りにの左前安打から連打攻勢がスタートした。 代打のが中前安打で満塁とすると、の遊撃と左翼の間に落ちる2点適時打で逆転に成功、ヤクルトの先発をKOした。 さらに今江も安打で続き、井口の内野適時打で1点を追加。 続けてが15号満塁、も10号ソロと2者連続で本塁打を放ち、再び打順が回ったが二塁打で出塁すると、里崎も8号2ラン本塁打を放ち前年に続いて10連続得点を達成した。 そして南がこの回2本目の中前安打を放って10者連続安打の新記録を達成している。 青野の代打で送られたが三塁ゴロに倒れ、ロッテの連続記録はストップした。 岡田は試合後「すみません。 知りませんでした」と平身低頭だった。 同日、ロッテがこの記録を達成した直後にはオリックスが対広島4回戦()の6回表にやはり1イニング10者連続安打のタイ記録を達成しており、両チームがまとめて従来の記録を更新したことになる。

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