京都 御所 一般 公開 2020。 京都御所見学は予約無し!時間と所要時間、アクセス、駐車場情報

御即位30年記念京都御所特別公開について

京都 御所 一般 公開 2020

内閣府と宮内庁は27日、 新型コロナウイルス感染拡大を受けて、3月1日から京都御所(京都市)で予定していた 高御座(たかみくら)の一般参観を延期すると発表した。 実施時期は未定。 高御座は2019年10月の「即位礼正殿の儀」で、天皇陛下が即位を宣言した際に立たれた玉座。 皇后さまが立たれた「御帳台(みちょうだい)」も同時に公開予定だった。 次の実施時期は未定とのことです。 天皇陛下の 即位礼正殿の儀で用いられた、 高御座 たかみくら 、 御帳台 みちょうだい が、2020年3月1日から 京都御所で一般公開されます。 平成の高御座一般公開は大混雑したのですが、今回の京都御所での高御座公開は、 コロナウイルスの影響で混雑はなく、すいてると思います。 感染予防のためにも、 混雑回避した時間帯の、 すいてる時間帯を狙うのがいいですね。 では京都御所での一般公開は、下記スケジュールです。 京都御所の高御座公開 混雑回避の時間帯は? 平成の高御座一般公開は、京都御所のみだったので、約16万2000人もの来場者が訪れました。 ですが、今回はすでに東京で開催されたので、混雑は分散されていると思います。 さらに、コロナウイルス の影響もあるので、すいているのではないかと思います。 京都御所で高御座の公開! 混雑回避時間を予想 コロナウイルス の影響で、観光地やイベント会場では、軒並み来場者数が減っていますし、中止とするイベントもあるので、京都御所での高御座の公開も、それほど混雑を心配する必要はないと思います。 とは言っても、 初日・1日 日 は、混雑する可能性は高いと思います。 通常であれば、朝から閉館まで混雑が続くところですが、コロナウイルス の影響で、ほどのどの混雑でおさまるのではないでしょうか。 また、最終日付近の 3月20日 金 、21日 土 、22日 日 は混雑する傾向にあると思います。 東京国立博物館での開催時は、平日午前中が混雑し、夕方からすいていました。 おそらく、日中のご婦人の見学が多いのかもしれません。 京都御所でも、同様な混雑傾向になるのではないでしょうか。 さて、2月下旬に特別公開の「祝賀御列の儀のオープンカー」展示の京都御所の混雑状況をご紹介します。 京都御所、京都迎賓館 祝賀御列の儀のオープンカーです。 京都の梅の写真も沢山撮れた ので、良かったです 京都市内は人は比較的少なかったですよ~ 頻繁に手洗いしましたけどね。 むしろすいてますね。 ただ、高御座の一般公開は、注目している人が多いので、「祝賀御列の儀のオープンカー」よりは混雑すると思います。 すいてる時間を狙うなら、閉館間際の時間帯が良いと思います。 一般的に、どの展示会でも、夕方の閉館間際の時間帯は、すいています。 そして、閉館前の時間は、あとから入る来場者が少ないので、ゆっくり見学できそうです。 京都御所の見学は、9:00~15:20 最終退出16:00 なので、15時位以降はすいていると思います。 Sponsored Links [京都御所]高御座公開 見学時間と日程 下が、詳細な公開スケジュールです。 京都御所へのアクセス 市バス「烏丸今出川」徒歩5分 地下鉄烏丸線「今出川駅」徒歩5分• 住所: 京都府京都市上京区京都御苑3• 電話番号:075-211-1215 手荷物検査について 京都御所では、会場の入り口で、手荷物検査があります。 危険物はもちろんのこと、大型スーツケースは持ち込めませんので、ご注意ください。 東京国立博物館の手荷物検査では、貴重品・カメラ・携帯電話などの持ち込みはできましたが、それ以外の持ち込みはできませんでした。 京都御所の公開でも、同様な手荷物検査になると思いますので、不要なものは、持参しない方がいいかもしれませんね。 展示されるもの 展示されるものは、即位礼正殿の儀で用いられた、下の展示品です。 高御座 たかみくら• 御帳台 みちょうだい• 威儀物• 即位の礼の諸儀式の写真• 装束姿を再現する人形 高御座・御帳台とは? 高御座と御帳台は、10月22日の即位正殿の儀で使われました。 天皇陛下がご使用になったのは、高御座。 高御座の高さは、およそ6. 5m、重さ約8トンです。 皇后さまがご使用になったのは御帳台で、高御座よりひとまわり小さいサイズです。

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高御座の公開[京都御所]混雑回避時間は?見学時間と手荷物検査も!|fun doors

京都 御所 一般 公開 2020

京都御所(全体)の空中写真。 (1982年撮影) を基に作成 (13年・)時の内裏は、現在の京都御所よりも1. 7キロ西の沿いにあった。 現在の京都御所は、もと(内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏)の一つであったの地である。 (半ば)から側の内裏の所在地として定着し、3年()の南北朝の合一以後、ここが正式の皇居となって2年()、の時まで存続した。 明治以降は 京都皇宮(きょうとこうぐう)とも称される。 土御門東洞院殿は、元年(3年・1331年)、が京都を脱出した後にが擁立したがこれを里内裏として以降、明治天皇のに至るまで約550年間にわたって使用され続けた内裏である。 当初は一四方の敷地だったが、によって敷地が拡大され、その後やによる整備を経て現在の様相がほぼ固まった。 内裏はだけでも度()、度(1642年)、度(1655年)、度(1662年)、度(1675年)、度(1709年)、度(1790年)、度(1855年)と8回も再建されており、このうち慶長度と寛永度は旧殿を取り壊しての建て替え、それ以外は火災焼失による再建となっている。 特に寛政度の再建は、による平安内裏の考証を多く取り入れた復古様式となった。 現存の内裏はの7年()に火災で焼失したのち、2年()に、寛政内裏の様式をほぼ踏襲して再建されたもので、安政内裏と呼ばれている。 なお、と呼ばれることになるの天皇のは二条富小路内裏であった。 現代の京都御所は土御門東洞院内裏そのものではなく、土御門東洞院内裏を基に拡充され、の年間に今日の敷地面積が確定したものである。 (10年)、東京のに移っていた明治天皇がを訪れた際、東京行幸後10年も経ずして施設及び周辺の環境の荒廃が進んでいた京都御所の様子を嘆き、『京都御所を保存し旧観を維持すべし』と(当時)に命じた。 その翌年にも明治天皇は京都御所を巡覧し、保存の方策として『将来わが朝の大礼は京都にて挙行せん』とのとの叡慮を示して、(明治16年)には京都を・の地と定めるを発している。 第11条の規定はこれを承けて制定に至った。 明治から大正にかけ、内侍所()や対屋(女官宿舎)などの建物が撤去されたが、(20年)には、総建築面積の半数近くが(空襲による類焼防止)の名のもとに解体された。 また、(昭和29年)には、近隣で打ち上げられた花火が飛来して小御所が焼失している。 その後前半にかけて、焼失した小御所や戦時中に解体された渡廊下などの一部が復元され、現在に至っている。 京都御所に隣接して、がある。 京都大宮御所は、の中宮ののために造進されたのに始まり、現在の建物は(女御)のために造営され、慶応3年()に完成したものである。 現在は、のへの(旅行)の際の宿泊やの宿泊に使用されている。 京都仙洞御所は後水尾上皇の退位後の住まいとして造られたものだが、現在は庭園と茶室を残すのみである。 現在は京都御所、京都大宮御所と京都仙洞御所は国有財産で、が管轄する「皇室用財産」に分類されており、これらの周囲のであるをが管理している。 京都市民は京都御苑も含めて、単に「 」(ごしょ)と呼ぶ事が多い。 京都御所に現存する主な建物としては、、、小御所(こごしょ)、御学問所(おがくもんじょ)、御常御殿(おつねごてん)、迎春(こうしゅん)、(おすずみしょ)、皇后宮御常御殿(こうごうぐう おつねごてん)、若宮・姫宮御殿(わかみや・ひめみやごてん)、(ひぎょうしゃ)などがある。 現存施設 [ ] 概要 [ ] 京都御苑の北西寄り、築地塀で囲まれた面積約11万平方メートルの区域が京都御所である。 御所の敷地は東西約250メートル、南北約450メートルの南北に長い長方形で、そこにはかつての内裏に属していた多くの建物と庭園が残っている。 御所の建物は近世を通じ、天正(1591年)、慶長(1613年)、寛永(1642年)、承応(1655年)、寛文(1662年)、延宝(1675年)、宝永(1709年)、寛政(1790年)、安政(1855年)の9度にわたり造営が行われている。 うち、天正度、慶長度、寛永度の造営は焼失に伴うものではなく、時の為政者(および徳川家)の威勢を示す目的のものであったが、それ以降の6度の造営はすべて火災焼失に伴うものであり、現存する御所の建物は安政度造営のものである。 建物群は大きく3つのブロックに分けられる。 南寄りには内裏の正殿であった紫宸殿、天皇が政務を執った清涼殿をはじめ、儀式や政務のために用いられた表向きの建物が残る。 その北側、敷地のほぼ中央のブロックは、天皇の日常生活や内向きの行事、対面などに使用された内向きの建物群で、小御所、御学問所、御常御殿などがここにある。 御所敷地のもっとも北寄りのブロックはかつての後宮だった場所で、多くの建物が取り払われているが、皇后御常御殿、飛香舎(ひぎょうしゃ)をはじめ、皇后や皇子皇女などの住まいだった建物が残っている。 建築様式は、表向きの建物である紫宸殿や清涼殿が平安時代の住宅建築様式であるを基調としているのに対し、これらの北にある内向きの建築群はやの要素が強くなっている。 ただし、表向きの建築物にしても外向きの建築物にしても寝殿造への復古は平面関係や障壁画や建具などについてであり、外観や立面関係、細部の建築方法は平安時代とは異なった江戸期の技術を用いたデザインとなっている。 江戸期の庭園は、紫宸殿の南庭(「だんてい」と読み慣わしている)や清涼殿の東庭が一面に白砂を敷き詰めた儀式の場としての庭であるのに対し、小御所、御学問所、御常御殿などに接した庭は池と遣水(やりみず、流水の意)を中心にした日本式の庭である。 各建物の内部は、それぞれの部屋の格や用途に応じた、さまざまの障壁画で飾られている。 これらの障壁画には、、、をはじめ、江戸時代末期の日本画壇の主要な絵師たちが絵筆を振るっている。 京都御所は、平安時代の内裏とは位置が異なり、建物も江戸時代末期の再建であるが、建築、庭園、障壁画が一体となって日本の伝統文化の粋を今に伝えている。 なお、以下の建築、庭園、障壁画の説明は、現存する京都御所(安政2年・1855年造営)についてのものである。 諸門 [ ] 京都御所は敷地の四方を築地塀(延長は東西約250メートル、南北約450メートル)で囲まれている。 築地塀は5本の筋の入った、もっとも格式の高いもので、計6か所の門がある。 すなわち、南面には、北面には、東面の南寄りに、西面は南から北へ、清所門、皇后門である。 これらの門のほかに、穴門という、屋根のない入口が12か所ある。 鬼門にあたる敷地の北東角では、築地塀がそこだけ凹んでおり、「」と称されている。 名称の由来は、ここに魔除けのために日吉山王社の神の使いとされる猿を祀ることによる。 「」は、の方位であり、凹んでいることから、「御所が鬼門を避けている」「除けている」と考えられ、それが後世まで鬼門を除ける手法とされてきた。 現代でも人々は縁起を担いで鬼門とされる住宅の北東部分に魔除けとして柊や南天、万年青を植えたり、鬼門や裏鬼門(南西)から水回りや玄関を避けて家作りをするなど、鬼門を恐れた家相を重視する社会通念は根強く残っており 、東京芸術大学、東京工業大学名誉教授 清家清の著書『現代の家相』において「家相の教え通りに凹ませている」と述べている。 事実、京都のNPO法人が2015年に行った調査では、京都市内中心部だけでも、ビルや店舗、一般住宅など約1100か所に、四角く囲って玉砂利を敷いたり、柊や南天を植えたりした鬼門除けがあることが判明している。 紫宸殿 [ ] (左)と御帳台(右) 御所敷地の南寄りに南面して建つ、かつての内裏の正殿で、「ししいでん」とも読む。 天皇の即位、元服、立太子、節会など、最重要の公的儀式が執り行われた建物である。 屋根は入母屋造、檜皮葺き。 桁行(間口)9間、梁間(奥行)3間の身舎(もや、「母屋」とも書く)の東西南北に廂をめぐらし、その外に簀子縁(すのこえん)をめぐらす(ここで言う「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を意味する。 以下同じ)。 平面規模は簀子縁を除いて、間口が33メートル余、奥行が23メートル弱である。 梁間の3間は等間ではなく、奥(北)の1間のみ柱間がごく狭くなっている。 簀子縁の周囲には高欄をめぐらし、建物正面には18段の階段を設ける。 身舎内は間仕切りを設けず広い1室とし、柱は円柱、床は畳を敷かず拭板敷(ぬぐいいたじき)とし、天井板を張らない化粧屋根裏とする。 正面の柱間装置は蔀(しとみ)とする。 なお、京都御所の紫宸殿と清涼殿では、通常「蔀」と呼ばれる柱間装置のことを伝統的呼称で「御格子」(みこうし)と呼んでいる。 以上のように、この建物は江戸時代末期の再建でありながら、柱をすべて円柱とする点、柱間装置に蔀を用い、これを建物の内側へ跳ね上げる点、内部に畳を敷かず、板敷の広い室とする点など、復古的な建物で、様式は平安時代の寝殿造を基調としている。 寝殿造は、奈良時代に伝来した中国・唐の建築様式を源流としつつ、淡泊な美を愛でる傾向の強い日本人の感性に合った、簡素な様式に変化を遂げたものである。 紫宸殿や清涼殿は、内裏の中心的建物でありながら、華美な装飾や威圧的な構えがなく、柱などの部材は素木仕上げ、蔀(御格子)の桟は黒塗りである。 ただし、長押、蔀、高欄などの要所に打たれた飾金具を朱漆塗とし、正面階段の木口を白塗として、簡素ななかにも色彩の変化を見せている。 身舎内には、中央に天皇の座である、その向かって右に皇后の座である御帳台(みちょうだい)がある。 現在の高御座および御帳台は、大正4年(1915年)、大正天皇の即位大礼に際して造られたものである。 紫宸殿の南正面は一面に白砂を敷き詰めた南庭で、建物正面左右にはとがある。 南庭は回廊で方形に囲まれ、回廊の南正面に、東面に、西面にがある。 これらの門以外に、回廊には4か所に掖門(わきもん)がある。 承明門の東と西の掖門をそれぞれ長楽門、永安門、日華門の南と月華門の南にあるのをそれぞれ左掖門(さえきもん)、右掖門(うえきもん)という。 紫宸殿が檜皮葺で素木仕上げであるのに対し、回廊やそこに開かれた門は瓦葺で、軸部や扉を朱塗とする。 承明門の南は御所の正門である建礼門である。 京都御所の建物は近世を通じてたびたび焼失と再建を繰り返しているが、紫宸殿と清涼殿が平安時代風の復古的な様式で再建されたのは、寛政度造営の時であり、次の安政度造営でもそれが踏襲された。 寛政度の造営の奉行(総責任者)を務めたのは老中である。 当時の日本は幕府の財政難と作物の凶作に苦しんでおり、平安時代風の復古様式での再建には費用がかさむことなどから、定信は当初は反対の立場であったが、結局、紫宸殿と清涼殿に限って古い様式で再建することとした。 寝殿造様式の再現には公家で故実家の(裏松固禅)の意見を取り入れたというのが通説となっている。 その結果、平面構成、建具、円柱、板敷の床などは平安時代のものが再現されているが、屋根構造までは再現できず、屋根の形や構造は江戸時代の大工の技法による近世風のものになっている。 紫宸殿の屋根は大きく、勾配が急であり、上部の切妻部分と、下部の寄棟部分との間に段差を設けて葺いた錣葺(しころぶき)になっている。 平安時代の寝殿造建物にはこのように大きく急勾配の屋根はなかった。 また、紫宸殿の軒を支える複雑な組物は寺院建築に使われる様式で、寝殿造とは異なっている。 柱の基部に用いられている礎盤も中世以降の禅宗様建築で用いられた形式である。 しかしながら、現代のような建築史学の発達していなかった江戸時代に、文献調査のみから平安時代の様式を再現したことは高く評価されている。 紫宸殿の身舎部分には間仕切りがなく、身舎と東廂および南廂との境にも間仕切りはないが、西廂および北廂との境は壁で仕切られ、後者には著名ながある。 賢聖障子とは、紫宸殿の高御座の背後、身舎と北廂との境の障壁のことで、中国の伝説時代から古代に至る忠臣功臣のなかから選ばれた32名の人物の肖像を描くことからこの名がある。 これらの肖像は、天子の御座所を飾るにふさわしい画題と考えられたもので、平安時代初期から描き継がれている由緒ある画題である。 身舎と北廂の境の柱間は9間であるが、うち中央の間は扉になっていて、獅子・狛犬・負文亀を描き、残り8つの柱間に各4人ずつ計32人の人物が立ち姿で描かれる。 この障子絵は取り外し可能であったため、嘉永7年(1854年)の火災時には持ち出されて難をのがれ、安政度再建に際しては、上述の火災に焼け残った寛政度作成の障子絵が修理のうえ再用された。 現存する賢聖障子の絵は、寛政度に住吉弘行が描いたものを住吉弘貫が修繕し、各絵の上部の色紙形の字は岡本保孝の筆になる。 建物の正面中央に掲げられた「紫宸殿」の扁額も寛政度造営時のものを再用しており、文字は賢聖障子の色紙形と同じく岡本保孝の筆である。 清涼殿 [ ] 清涼殿の昼御座(手前)と(奥) 清涼殿は、紫宸殿の北西にあり、東を正面とした南北棟の建物である。 平安時代の内裏においては清涼殿が天皇の居住の場であったが、天正期に御常御殿が造られてからは天皇の日常生活の場はそちらへ移り、清涼殿は天皇の執務と儀式の場となった。 ここでは正月の四方拝などの行事が行われた。 建物は入母屋造、檜皮葺で、紫宸殿と同様に寝殿造を基調とするが、ほとんど間仕切りのない紫宸殿とは異なり、本来居住の場であった清涼殿の内部は多くの部屋に仕切られている。 構造的には身舎、廂、孫廂からなる。 身舎は桁行(間口)9間、梁間2間と細長く、この東西南北にそれぞれ廂があり、東廂の外側(東)には床高を一段低くした孫廂(弘廂とも)がつき、さらに建物の外周には、南を除く三方に簀子縁をめぐらす。 円柱を用い、床は板張り、天井は天井板を張らず化粧屋根裏とし、建具は蔀を用いるなど、復古的様式を用いる点は紫宸殿と共通している。 身舎の南寄り、柱間5間分と、その東側の廂部分を広い1室とする。 ここは天皇が日常の公務を行った場所である。 身舎の中央に天皇の休息の場であった「御帳台」があり、一対の獅子狛犬がその前を護っている。 御帳台の手前、東廂の中央にあたる部分には「昼御座」(ひのおまし)がある。 「昼御座」とは天皇の座であって、板敷の床の上に繧繝縁(うんげんべり)の厚畳(あつじょう)2枚を敷き並べ、その上に大和錦の茵(しとね)を置く。 御帳台に向かって左(南)には「大床子」(だいしょうじ)と称する腰掛と、「台盤」と称する朱塗の食卓がある。 これらは、ハレの行事の時の儀式的な食事の際に天皇が用いたものである。 東廂の南端部には「石灰壇」(いしばいだん)と呼ばれる場所がある。 ここだけは床が板張りではなくで塗り固められており、天皇はここでなどへのを行った。 石灰壇の中に「塵壺」と称する円形の穴がある。 これは文字どおり塵を捨てた場所ともいうが、冬期はここに火を起こして暖をとったという。 身舎の北寄りには「夜御殿」(よんのおとど)と称する部屋がある。 ここは、室名のとおり、本来の用途は天皇の寝室であったが、御常御殿に天皇の生活の場が移ってからは、形式的なものとなっている。 室内には厚畳を2枚敷き並べた上にさらにもう1枚の厚畳を置く。 厚畳の周囲には「大宋屏風」と称する六曲一双の屏風を立て回す。 この屏風に描かれているのは打毬の杖を持った、騎馬または立ち姿の中国・宋の人物たちである。 夜御殿の東には「二間」(ふたま)という小部屋がある。 古くは、間口1間、奥行1間の柱間で囲まれた空間の広さを「間」といい、この部屋は間口2間、奥行1間であることから「二間」と称されている。 二間の北側には「弘徽殿上御局」(こきでんのうえのみつぼね)、夜御殿の北側には東に「萩戸」(はぎのと)、西に「藤壺上御局」(ふじつぼのうえのみつぼね)という小部屋がある。 西廂には南から北へ「鬼の間」、「台盤所」、「朝餉の間」(あさがれいのま)、「御手水の間」、「御湯殿」がある。 清涼殿 鬼の間 [ ] 古来から日本に伝わるでは、、北東を忌み嫌う言い伝えがあるが、すべて築地塀の「」が基になっているが、清涼殿内部にはが存在した。 清涼殿の南西隅、すなわち御所のの位置にある。 平安遷都(13年・)時の内裏に師、が元年(、この間に鬼を退治する像を描いたとされる。 壁に描かれていた王は、一人で剣をあげて鬼を追う勇姿であり、それを白沢王(はかたおう)といい、古代インド波羅奈国(はらなこく)の王であり、鬼を捕らえた剛勇の武将であると、が著した(きんぴしょう)()(みしょう)を解釈した 『講義』3巻上(著)に記述されている。 現在の建物(鬼の間)に、白澤王の絵は描かれていない。 なお、江戸中期の随筆「夏山雑談」には、白沢王は李の将軍、「白澤王」としても記されている。 昭和43年、が一般公開されたが、京都御所はの管理下でありながら、昭和21年11月に一般公開 されている、しかし現在でもは一般公開されていないと、 述べている。 これについて、家相を研究する小池康寿は著書『日本人なら知っておきたい正しい家相の本』において、京都御所やが鬼の災い、神の祟り(自然災害、火災、疫病の蔓延)を恐れて築地塀を凹ませていたとするより、庶民に災厄が及ばぬように皇室が一手に凹み()で受けとめ、御所内部ののに導いて鬼を切り倒すことで世の安泰を願っていた()と解釈した方が自然であると論じ 、外から見た御所の塀の凹みのみに注目した庶民の単純な考えが鬼門除けの発想に繋がったと考えるのが理に適うとしている。 その対角線上の建物の北東隅のにあたる位置には部屋がなく、簀子縁の一部となっている。 南廂は広い1室をなし、別名「殿上の間」と呼ばれる。 ここは、すなわち清涼殿への昇殿を許された人々の控えの間であり、会議室としても用いられた。 この部屋には「日給簡」(にっきゅうのふだ)という、縦長で頂部の尖った板が置かれている。 ここに殿上人の氏名を記し、当番の殿上人の名前のところに、出勤の日と時間を記した紙を貼り付けていた。 殿上の間と身舎の境の壁の高い位置には「櫛形窓」と称する半円形の小窓が開けられている。 櫛形窓は柱を挟んで左右に分かれており、右半分は昼御座のある身舎に、左半分は鬼の間に、それぞれ面している。 この窓には横桟が入り、身舎側からは殿上の間の様子が見えるが、殿上の間側からは身舎側を見ることができない。 この窓は女官たちが昇殿した殿上人たちの品定めをするのに用いたとの所伝があるが、真偽のほどは不明である。 清涼殿内の障壁画は大和絵系の土佐光清、土佐光文、土佐光武が担当している。 その他の建物 [ ] 小御所と御学問所を望む 清涼殿の西にある書院造の建物は、主たる室の名をとって「 諸大夫の間」と呼ばれている。 東から西へ3室があり、それぞれ「公卿の間」、「殿上人の間」、「諸大夫の間」と称する。 公卿の間は別名「虎の間」といい、参議以上の公家が使用した。 殿上人の間は別名「鶴の間」といい、諸侯、所司代、高家らが使用した。 諸大夫の間は別名「桜の間」といい、その名のとおり諸大夫が使用した。 このように御所内では人物の身分により、使用する部屋が厳格に分かれていた。 室名の鶴の間、虎の間、桜の間はそれぞれの部屋の障壁画の画題にちなむもので、いずれも水墨淡彩であり、虎図は岸岱、鶴図は狩野永岳、桜図は原在照の筆である。 諸大夫の間の北には「御車寄」(みくるまよせ)、南には大正天皇の即位式の時に造られた「新御車寄」がある。 小御所 小御所は、清涼殿の東、紫宸殿の北東に位置する南北棟の建物である。 屋根は入母屋造、檜皮葺。 会議、対面や皇太子の元服などの儀式に用いられた建物である。 慶応3年(1867年、新暦では1868年1月)にの処置を決めるためのいわゆる「」が開かれた場所としても知られる。 ただし、安政度造営の小御所は1954年8月16日に花火の火が燃え移って焼失し、現存する建物は1958年、旧建物に忠実に再建されたものである。 内部は身舎部分に3室を設け、東西南北にそれぞれ廂を設ける。 身舎は畳敷きで格天井、廂は板敷きで化粧屋根裏とする。 この建物は、建具に半蔀を用い、周囲に高欄をめぐらし、階段を設けるなど、外観には寝殿造風の要素があるが、内部は書院造風になっている。 ただし、床の間などの座敷飾りはない。 身舎の3室は南から北へ「下段の間」、「中段の間」、「上段の間」とする。 天井はいずれも格天井だが、下段が格天井、中段が小組格天井、上段が最上級の折上小組格天井と、部屋の格に応じて形式に差をつけている。 上段の間には厚畳2畳を敷いた上に茵を置いて天皇の座とし、その背後には大和絵の四季絵の屏風を立てる。 これらの室の障壁画は大和絵の手法で日本の四季の風景を描いたもので、伝統的な四季絵の形式を踏襲する。 上段の間には吉野の春、中段の間には富士の夏と龍田川の秋、下段の間には田上川の冬を描く。 安政度造営時の障壁画は上段を狩野永岳、中段を鶴沢探真、下段を勝山琢文が担当し、東廂を原在照、南廂を梅戸在親、北廂をが担当していたが、前述のとおり、これらは1954年に焼失した。 現在ある襖絵は登内微笑(とのうちみしょう)らによって復元されたものである。 御学問所 御学問所は小御所の北に位置する南北棟の建物である。 屋根は入母屋造、檜皮葺。 小御所と異なり、平安復古調の建物ではなく、建具は舞良戸を用い、内部の主たる室には床、棚を設けるなど、内部外観ともに書院造の意匠とする。 家康による慶長度の造営時に初めて設けられた建物で、御講書始などの行事が行われたほか、学問ばかりでなく遊興の場としても用いられた。 内部は東西2列、各列3室の6室構成になる。 東列は北から南へ「上段の間」、「中段の間」、「下段の間」とし、西列は北から南へ「菊の間」、「山吹の間」、「雁の間」とする。 上段の間と菊の間には床と違棚を設ける。 各室の障壁画は、狩野永岳、岸岱、原在照らの筆になる。 東列の表向きの諸室には中国の故事を画題とした漢画が描かれ、内向きの部屋である西列の諸室には大和絵の草花や鳥が描かれている。 御常御殿の障壁画(座田重就「高宗夢賚良弼図」) 御常御殿は御学問所の北東に位置する東西棟の建物で、天皇の日常生活の場として用いられた。 屋根は入母屋造、檜皮葺。 紫宸殿とともに、御所内で最大の建物である。 平安時代には清涼殿が天皇の居所にあてられていたが、近世になって御常御殿が別に建てられるようになってからは、こちらが天皇の居所となり、清涼殿は儀式の場となった。 御常御殿は清涼殿のような復古調ではなく、書院造を基調とした建物であり、内部は前後3列に部屋を配し、計15室に分かれている。 最前列には西から「下段の間」、「中段の間」、「上段の間」があり、これらは儀式などの行われた表向きの室である。 下段の間、中段の間、上段の間の順に床高が一段ずつ高くなっているが、これら3室の境には柱2本ずつが立つのみで、間仕切りの壁や襖はない。 上段の間の東、帳台構の奥には「剣璽の間」がある。 ここはかつて清涼殿の夜御殿に置かれていた、三種の神器のうちの剣と勾玉が置かれていた部屋である。 上段・中段・下段の間の障壁画は、中国の故事を題材としたもので、帝鑑図と呼ばれる、為政者への戒めとしての画題が選ばれており、濃彩の謹直な筆法で描かれている。 画の筆者は上段が狩野永岳、中段が鶴沢探真、下段が座田重就(さいだしげなり)である。 剣璽の間には土佐光清が花鳥図を描いている。 剣璽の間の東裏には「御小座敷下の間」、「御小座敷上の間」があり、建物の東面から北面にかけて、「一の御間」、「二の御間」、「三の御間」、「次の間」が並ぶ。 これらは内向きの部屋で、御小座敷は読書始などの内々の行事や対面に用いられ、一の御間、二の御間、三の御間、次の間は天皇の日常生活の場であった。 御小座敷下の間の南、建物の南東端には、簀子縁に張り出す形で「落長押の間」がある。 建物の西北部に位置する「申口の間」(南北の2室)は女官の伺候した部屋である。 これらの諸室に囲まれた、中央部には、外部に面していない「御寝の間」、「御清間」の2室がある。 御常御殿は以上の15室で構成される(御寝の間の西にある「中仕切の間」を含めれば16室)。 内向きの諸室の障壁画は、前述の狩野永岳、鶴沢探真のほか、土佐派、円山派などの絵師によるもので、日本の四季の風景や花鳥を題材としたものである。 御三間(おみま)は御常御殿の南西に接する東西棟の小さな建物で、上段、中段、下段の3室からなり、涅槃会、茅輪、七夕、盂蘭盆などの行事がここで行われた。 御常御殿の北側には迎春(こうしゅん)、御涼所(おすずみしょ)、聴雪(ちょうせつ)、御花御殿、参内殿など、いくつかの比較的小規模な建物がある。 迎春は孝明天皇が書見(勉強)の場として建てさせた、入母屋造、檜皮葺、南北棟の建物で、御常御殿の北に位置する。 10畳の「南の間」と、変形5畳半の「北の間」からなる小規模で簡素な建物である。 塩川文麟が襖絵を描いている。 御涼所は迎春の北に接続する入母屋造、檜皮葺、東西棟の建物で、京都の暑い夏を快適に過ごすことを主眼とした建物であり、窓を多く設けている。 内部は北が9畳の「上の間」、南が7畳半の「次の間」で、上の間の西に4畳半の「裏上の間」がある。 上の間には床(とこ)と違棚、裏上の間には床を設ける。 上の間では床と棚に挟まれた壁の腰の位置に窓を設けるなど、通風に意を用いている。 聴雪は他の建物よりやや遅れて安政4年(1857年)にの好みで建てられたもので、寄棟造、杮葺の数寄屋造建築である。 御涼所と聴雪の間は、「吹抜廊下」と称する、壁がなく吹きさらしの簡素な廊下でつないでいる。 聴雪の内部は東から西へ「上の間」、「中の間」、「下の間」がある。 中の間の床脇(とこわき)の地袋の戸に描かれた鸚鵡(おうむ)と果物籠の図は呉春の筆である。 以上の建物群のさらに北、御所敷地の北端はかつての後宮の所在地であり、すでに多くの建物が失われているが、皇后御常御殿、若宮姫宮御殿、飛香舎などの建物が残っている。 皇后御常御殿 皇后御常御殿は皇后の居所として用いられた、入母屋造、檜皮葺、東西棟の建物である。 御常御殿と同様、建物内は細かく間仕切りされて13室に分かれ、部屋の用途と格に応じて障壁画の画題が選ばれている。 建物の東面から南面にかけて鍵の手に並ぶ「御上段」、「御中段」、「御下段」の3室はもっとも格式の高い部屋であり、中国の有徳の女性にかかわる故事を題材にした「列女伝」の障壁画が描かれている。 建物の北東には「御小座敷下の間」、「御小座敷上の間」があり、建物の中央部には外部に面していない「御寝の間」がある。 御寝の間の北側から西側にかけて「御化粧の間」、「一の御間」、「二の御間」、「三の御間」、「次の御間」が並び、三の御間と次の御間の西側には南北2室の「申口の間」がある。 皇后御常御殿から渡廊下を北へ進むと、右手に「御黒戸」(仏間)があり、その先は坪庭の「藤壺」を隔てて西に若宮姫宮御殿、北に飛香舎がある。 飛香舎は平安京の内裏に存在した五舎の一つで、女官の入内の儀式がここで行われた。 五舎とは飛香舎(藤壺)、凝花舎(梅壺)、襲芳舎(雷鳴壺)、昭陽舎(梨壺)、淑景舎(桐壺)を指す。 これらは長らく姿を消していたが、寛政度造営時に飛香舎のみが平安様式で復活し、安政度造営でもこれを踏襲したもので、現存する京都御所の建物の中では、もっともよく平安時代の様式を伝えている。 建物は東西棟の入母屋造、檜皮葺で、内部は身舎の南・東・北に廂を設け、東廂の東にさらに孫廂がある。 孫廂の手前には渡廊(わたろう)が接続する。 身舎と南廂は仕切りのない1室とする。 内部は円柱、板敷の床などに寝殿造の意匠がみられ、中央に御帳台を置く。 飛香舎の北東にはがあり、これも平安時代の内裏にあった門の名前を引き継ぐものである。 ただし、平安時代には玄輝門の真北に内裏全体の北門である朔平門があったが、現在の京都御所では、スペースの関係で両門の位置関係がずれており、玄輝門は朔平門よりも東寄りに建てられている。 京都御所では、建物が表向きの儀式用のものと、内向きの居住用のものに分かれているのと同様、庭園も儀式用の部分と内向きの部分ではその様相をまったく異にしている。 紫宸殿の南の庭は 南庭と称し、一面に白砂を敷いただけの空間である。 ここは単なる空地ではなく、紫宸殿の建物と一体となった、儀式のための空間であった。 紫宸殿の前には「」と「」がある(「左」「右」は天皇から見てのそれであり、東が桜、西が橘である)。 桜と橘はそれぞれ花木と果樹を代表するものである。 ただし、左近の桜は平安遷都時には桜ではなく梅であった。 これが桜に変わったのはの時である。 『』の時代には、日本の花木の代表は梅であったが、平安時代になって人々の好みが変わって、桜が代表的な花とされるようになった。 梅から桜への変更はそれを反映したものである。 左近の桜は1855年(年間)、1930年(昭和5年)、1998年(平成10年)に植え替えられており、当代のものはの特徴を一部持った系の桜である。 右近の橘は安政6年(1859年)に植えられた記録が確認されている。 清涼殿の正面(東)の庭は 東庭と称し、やはり一面に白砂を敷いただけの空間である。 ただし、2か所に竹の植込みがある。 建物の南端近く、広廂にほど近い場所に植えられているのが 漢竹(からたけ)、それより北方、建物から数メートル離れたところに植えられているのが 呉竹(くれたけ)である。 漢竹はメダケであり、呉竹はハチクのこととされるが、現在植わっているのはホテイチクである。 『』には呉竹が、『』には漢竹と呉竹が登場する。 漢竹と呉竹は、現状では広い庭の西寄りに偏った位置にあるが、平安時代の内裏では、清涼殿の東側には別の建物(仁寿殿)があり、東庭は今より狭かった。 滝口 清涼殿の東側、弘廂に沿って南北に流れる石敷きの水流を「 御溝水」(みかわみず)という。 御溝水の北寄りには高さ20センチほどの落差がつくられており、これを「滝口」という。 「」という呼称はこれに由来する。 壺庭 [ ] 複数の建物を渡廊で連結するのが寝殿造の特色の一つである。 平安京の内裏には多くの建物が建ち並び、建物と渡廊で囲まれた小規模な庭(壺庭)が各所にあった。 これらはそこに植えられている植物にちなんで、桐壺、梨壺、藤壺などと称され、これらの庭が面している建物も桐壺などの名称で呼ばれるようになった。 現在の京都御所では、清涼殿西の「萩壺」と、飛香舎南の「藤壺」のみが残っている。 御池庭・御内庭 [ ] 小御所や御常御殿付近の庭は、池と遣水を中心とした、自然の風趣を生かしたである。 こうした池水中心の庭園が造られるようになったのは、御所の慶長度造営時にが参画してからのことであるが、現在のような庭の原型ができたのは延宝度の造営時である。 小御所、御学問所の東側の庭は大きな池を中心としたもので、御池庭(おいけにわ)と呼ばれる。 池は小御所側の西岸に玉石を敷き並べた洲浜を造る。 池の中には3つの中島があり、木橋2基、石橋3基が架かる。 御常御殿東側の遣水を中心とした庭は御内庭(ごないてい)と呼ばれる。 遣水を渡った東側には4畳半茶室の「錦台」が建つ。 御内庭に連なる、御涼所東側の庭は「龍泉の庭」と呼ばれる。 この付近では遣水は東西2つの流れに分かれ、西側の流れは、御涼所と聴雪を結ぶ吹抜廊下の下をくぐり、一部は聴雪の縁下を通っている。 遣水の対岸の東側には「地震殿」(泉殿とも)という小建物がある。 これは地震発生に備えて屋根を軽く造り、他の建物から離れて建てた建物で、緊急時の避難所とされている。 聴雪の北側にある枯山水庭園は「蝸牛の庭」と呼ばれるが、これは明治期の作庭である。 御内庭 障壁画 [ ] 京都御所内の各建物の室内は、すでに述べたように、多くの障壁画で飾られている。 これらは、各室の用途や格に応じて画題が選ばれている。 紫宸殿の「賢聖障子」については前述した。 清涼殿では、弘廂の北端に「荒海障子」、そのやや南に「昆明池障子」が立てられている。 この2点はいずれも衝立で、南面には唐絵、北面には大和絵が描き分けられていた。 「荒海障子」は『山海経』に描写された伝説の国の光景を描いたもので、障子の北面には大和絵で「宇治の網代」が描かれている。 「昆明池障子」は南面に中国の昆明池の光景、北面には大和絵で「嵯峨野小鷹狩図」が描かれている。 御常御殿などの住居用の建物では、儀式などが行われる表向きの諸室には中国の賢人功臣など、鑑戒的な主題の漢画が描かれ、日常生活や内々の対面に用いられた内向きの諸室には大和絵による風景や花鳥などが描かれている。 現存する安政度造営時の障壁画の制作にあたっては、当時の日本画壇の主たる流派の画家たちが多数動員されている。 安政度造営に参加している絵師は京都在住の者が多く、狩野派、土佐派以外の在野の絵師の多いことが目立つ。 御所の障壁画制作は、延宝度造営までは狩野派が独占していたが、宝永度造営以降、大和絵系の絵師が参入するようになり、狩野派の独占体制は崩れていく。 安政度造営では、御常御殿の上段・中段・下段など、表向きの諸室は主に狩野派の絵師が担当しているが、他の諸室は土佐派、円山四条派、岸派、原派などさまざまな流派の絵師が参入し、狩野派の相対的地位低下がうかがえる。 これは、この時代には狩野派が障壁画制作全体を差配するのではなく、各派の絵師が修理職奉行と直接交渉できるようになったことも影響している。 安政度障壁画制作に参加した絵師は、系では狩野永岳、鶴沢探真、座田重就、・では、土佐光文、住吉弘貫、円山派では円山応立(の曾孫)、円山応文、長沢芦鳳(の孫弟子)、中島来章、駒井孝礼、四条派では系の横山華暉、横山華渓、八木奇峯、岡本豊彦系の塩川文麟などであった。 その他の流派では岸派の岸連山、岸竹堂、岸誠、原派の原在照などがいる。 御所の障壁画制作に参加することは、絵師にとっては自分の存在をアピールし、後世に名を残す絶好の機会であった。 主な殿舎の障壁画の画題と筆者は以下のとおりである。 御常御殿• 上段 狩野永岳「堯任賢図治図」「桐竹鳳凰図」• 中段 鶴沢探真「大禹戒酒防微図」• 下段 座田重就「高宗夢賚良弼図」• 剣璽の間 土佐光清「花鳥図」• 御小座敷上の間 中島来章「芦辺鶴図」• 御小座敷下の間 塩川文麟「四季耕作図」• 落長押の間 国井応文「山水図」• 一の御間 狩野永岳「桃柳図」• 二の御間 鶴沢探真「花鳥図」• 三の御間 円山応立「地網引図」• 次の間 長沢芦鳳「宇治川の景図」• 御清の間 吉田元鎮「住吉の景図」• 御寝の間 土佐光文「竹に虎図」元は原在照「群鶏竹菊図」• 中仕切りの間 岸竹堂「谷川に熊図」• 申口の間(南) 岸連山「谷川に熊図」• 申口の間(北) 中島華陽「常盤木に猿図」 (以下は杉戸絵)• 原在照「安摩二舞図」「陵王納曽利図」• 岡本亮彦「曲水図」「蹴鞠図」• 中島来章「田辺の雁図」「池上の鶴図」• 山田龍淵「武陵桃源図」「王質囲碁図」• 梅戸在親「葡萄に栗鼠図」「秋草に猫図」• 大口義卿「柳に鷺図」「檜に蝉図」• 磯野華堂「松に鷹図」「牡丹に白鴎図」• 森寛斎「陶淵明帰去来図」「赤壁図」• 近藤梁渓「雪中小鳥図」 御三間• 上段 住吉弘貫「大極殿朝賀図」• 中段 駒井孝礼「賀茂祭群参図」• 下段 岸誠「駒引図」• 御献の間上の間 「嵐山春景」• 御献の間下の間 横山華渓「高雄秋景」 皇后御常御殿• 上段 土佐光清「有虞二妃図」• 中段 吉田元鎮「契母簡狄図」• 下段 鶴沢探真「妃有莘女図」• 御寝の間 岸岱「四季花鳥図」• 御化粧の間 塩川文麟「新樹図」• 御小座敷上の間 狩野永岳「富士三保浦図」• 御小座敷下の間 円山応立「塩釜浦図」• 一の御間 原在照「四季耕作図」• 二の御間 中島華陽「四季耕作図」• 三の御間 八木奇峯「雨中竹図」• 次の間 長沢芦鳳「浜松図」• 申口の間(北) 磯野「紅葉図」• 申口の間(南) 島田雅房「桜図」 皇后御常御殿には、以下の及びの作品があるが、両名とも一世代前の絵師であり、これらの作品は、何らかの事情で他所から京都御所へ移されたものと推定される。 円山応挙「虹図」(御小座敷上の間違棚天袋)• 円山応挙「鮎図」(御小座敷上の間違棚地袋)• 呉春「海辺雪景図」(一の御間違棚小襖) 若宮姫宮御殿• 若宮御殿上段 勝山琢眼「蹕輦受言図」• 姫宮御殿上段 狩野蔵之進「周室三母図」 御学問所• 上段の間 狩野永岳「十八学士登瀛洲図」• 中段の間 岸岱「蘭亭図」• 下段の間 原在照「岳陽楼図」• 菊の間 岡本亮彦「菊図」• 山吹の間 円山応立「山吹図」• 雁の間 岸連山「芦に雁図」 移築施設 [ ] 御所からの移築とされる現存施設のうち、主なものは次の通り。 慶長内裏より前の建物 方丈(国宝)• 月下門(月華門)(京都市東山区) - 寺伝では元は月華門で、文永5年(1268年)の移築という(実際は寛元4年(1246年)頃に普門院総門として造営か )。 国の重要文化財。 食堂(釈迦堂)(滋賀県大津市) - 寺伝では元は清涼殿。 室町時代中期の造営。 豊臣秀吉による園城寺堂宇破却後の移築という。 国の重要文化財。 方丈(京都市左京区) - 元は御所の建物の1つ(寺伝では清涼殿、実際は女院御所の対面御殿か)。 天正年間(1573-1591年)の造営。 なお、慶長内裏の前の紫宸殿は慶長16年(1611年)にに移築されたが、天保12年(1841年)に焼失している。 慶長内裏の建物[慶長18年(1613年)前後に造営] 金堂(国宝) 慶長内裏の紫宸殿で、紫宸殿としては現存最古。 (京都市右京区)• 金堂 - 元は紫宸殿。 寛永期に移築。 現存最古の紫宸殿。 御影堂 - 清涼殿の一部を使用。 寛永期に移築・改装。 国の重要文化財。 なお、上2棟と同時期に常御殿が移築され仁和寺の宸殿となったが、明治期に焼失している。 南禅寺勅使門 - 元は日ノ御門。 寛永期に移築。 国の重要文化財。 勅使門(京都市北区) - 元は御所の南門。 国の重要文化財。 大門(京都市東山区) - 元は御所の門。 国の重要文化財。 東福門院和子の女御御里御殿の建物[元和5年(1619年)前後に造営]• 宸殿(京都市右京区) - 元は女御御殿の宸殿。 国の重要文化財。 (京都市東山区)• 大書院 - 元は女御御殿の建物。 国の重要文化財。 玄関 - 元は女御御殿の建物。 国の重要文化財。 客殿(京都市左京区) - 元は女御御殿の奥御対面所等。 南門(京都市北区) - 元は女御御殿の門か。 社伝では慶安4年(1651年)に移築。 京都府指定文化財。 仁和寺本坊表門 - 元は西御台所門。 国の重要文化財。 江戸時代前期-後期頃の建物• 拝殿(京都市北区) - 元は小御所の釣殿。 江戸時代初期頃の造営。 寛永期に移築。 京都府登録文化財。 本殿(大阪府三島郡島本町) - 元は賢所(内侍所)。 寛永期に移築。 泉涌寺舎利殿 - 元は御所の建物の1つ。 寛永期に移築・改装。 京都府指定文化財。 本堂(滋賀県蒲生郡日野町) - 寺伝では元は清涼殿。 正保2年(1645年)の造営。 国の重要文化財。 宸殿(京都市山科区) - 後西天皇の旧殿。 寛文6年(1666年)の造営。 京都市指定文化財。 (京都市山科区)• 本堂 - 元は霊元天皇の仮内侍所。 寛文2年(1662年)の造営。 寛文12年(1672年)に移築。 京都市指定文化財。 書院 - 後西天皇(または明正天皇)の旧殿。 江戸時代中期の造営。 貞享3年(1686年)に移築。 国の重要文化財。 宸殿 - 元は明正天皇の御対面所。 延宝4年(1676年)の造営。 元禄10年(1697年)に移築。 京都市指定文化財。 書院(京都市左京区) - 元は御所の書院。 江戸時代中期の造営。 延宝4年(1676年)に移築。 国の重要文化財。 本堂(京都市伏見区) - 東山天皇の旧殿。 正徳2年(1712年)に移築。 泉涌寺御座所 - 元は御里御殿。 寛政内裏の御里御殿の古材を使用。 文化15年(1818年)に再建。 明治期に移築。 京都府指定文化財。 安政内裏以後の建物[安政2年(1855年)前後から後に造営]• (奈良県橿原市)• 本殿 - 元は賢所(内侍所)。 明治23年(1890年)に移築。 国の重要文化財。 なお、上1棟と同時期に神嘉殿が移築され橿原神宮の神楽殿(移築当初は橿原神宮拝殿)となり 、国の重要文化財に指定されていたが、平成5年(1993年)に消失した。 泉涌寺海会堂 - 元は黒戸。 明治期に移築。 京都御所で即位礼に臨む昭和天皇 は代々京都御所ので行われ、の際にがへ移ってからも、1878年のの「将来わが朝の大礼は京都にて挙行せん」という叡慮と勅令を承けて、(22年)制定の第11条により、とはで執行すると定められ、とも京都御所で即位に関わる一連の儀式を行った。 しかし、後に制定された現在のでは京都で行うというような場所の規定がなくなったため、(2年)の第125代天皇の即位にあたり、即位の礼が史上初めて東京に於いて執り行われ、(元年)の第126代天皇の即位でも平成の例に倣って東京での開催となった。 即位の際に天皇が着座し、その即位が象徴的に示される天皇の正式な御座所である並びに皇后の正式な御座所であるは京都御所の紫宸殿に常設されているため、明仁以降の(「即位礼紫宸殿の儀」に相当)に際しては、高御座と御帳台を解体した上で皇居のある東京まで運ばれた。 京都御所と水環境 [ ] 井戸側に関しては、1890年(明治23年)の京都府令により「井戸派砂又ハ小石ヲ厚サ一尺以上ノ小井ハ厚サ一寸以上ノ松ノ側壁ハ石煉瓦或ハ漆喰ヲ以テ充填 但地質堅致ニシテ汚水浸透ノ恐ナキモノハコノ限ニアラス」と規制されており、これは汚水が井戸に浸入することを防止するために、漆喰や石煉瓦で側壁を補強せよという布令である。 汚水の混入が伝染病の原因となることは、強く認識されていた。 参観 [ ] 2016年7月25日までは予約不要の春秋の特別公開と、事前の予約が必要な一般公開の2つの参観がおこなわれてきたが、参観希望者の利便性をより高めるため、2016年7月26日から予約不要の通年一般公開に再編された。 なお、月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始(12月28日から1月4日)、行事等の実施のため支障のある日は休みとなる。 公開時間は、4月から8月は9時から17時まで(入場は16時20分まで)・9月及び3月は9時から16時30分まで(入場は15時50分まで)・10から2月は9時から16時まで(入場は15時20分まで)となっている。 入場門は清所門 せいしょもん で反時計回りに京都御所を見学し、清所門から退出する。 入場時に手荷物の内容検査がにより行われる。 なお、以前は春秋の特別公開の期間だけは紫宸殿のすぐ前まで行けたが、現在は紫宸殿南庭の南東隅に入って遠望する形に変更されている。 交通アクセス [ ] 通年一般公開は清所門が出入口となる。 または、烏丸今出川バス停下車。 南へ向かい、乾御門を通って清所門まで徒歩8分。 京都市営バス烏丸一条バス停下車。 少し南の中立売御門を通って清所門まで徒歩4分。 ただし、烏丸一条バス停は1時間に1本しか運行されないだけが停車する。 京都駅より京都市営バス04系統・17系統・205系統のいずれかに乗車、「府立医大病院前」バス停下車、清和院御門まで徒歩5分• (・)• 京都市営地下鉄烏丸線 脚注 [ ] []• ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. コトバンク. 2019年9月7日閲覧。 『日本名建築写真選集18 京都御所・仙洞御所』、p. 126• (渡辺、2010)、pp. 24 - 25• 、『近代大礼関係の基本史料集成』 p. 641• (西、1993)、pp. 111 - 112• 『京の離宮と御所』(JTBキャンブックス)、pp. 96 - 97, 112 - 114• (渡辺、2010)、pp. 20 - 22• (西、1993)、pp. 92 - 94• (渡辺、2010)、pp. 12 - 13• , p. 『毎日グラフ別冊 京都御所』、pp. 9, 12• (藤岡、1984)、pp. 61 - 62• (西、1993)、pp. 95 - 96• (渡辺、2010)、p. 『毎日グラフ別冊 京都御所』、p. (西、1993)、p. (渡辺、2010)、pp. 7, 21 - 22• (西、1993)、pp. 112 - 115• (西、1993)、pp. 96 - 97, 112 - 115• 『毎日グラフ別冊 京都御所』、p. (西、1993)、pp. 96 - 97• (西、1993)、pp. 98 - 100• (渡辺、2010)、p. 31 - 32• 小池康寿 『日本人なら知っておきたい正しい家相の本』 プレジデント社 2015年 30頁• 小池康寿 『日本人なら知っておきたい正しい家相の本』 プレジデント社 2015年 30頁• 現在の建物(鬼の間)に、白澤王の絵は描かれていない。 小池康寿 『日本人なら知っておきたい正しい家相の本』 プレジデント社 2015年 31頁• 小池康寿 『日本人なら知っておきたい正しい家相の本』 プレジデント社 2015年 31頁• 小池康寿 『日本人なら知っておきたい正しい家相の本』 プレジデント社 2015年 31頁• 小池康寿 『日本人なら知っておきたい正しい家相の本』 プレジデント社 2015年 31頁• , p. , p. 『毎日グラフ別冊 京都御所』、pp. 13, 16, 17• (藤岡、1984)、pp. 62 - 63• (西、1993)、pp. 100 - 101• (渡辺、2010)、pp. 6, 8, 41, 42• 『毎日グラフ別冊 京都御所』、p. (西、1993)、pp. 92 - 93• (渡辺、2010)、pp. 42 - 43• 『毎日グラフ別冊 京都御所』、pp. 21, 26• (藤岡、1984)、p. (西、1993)、pp. 101 - 103• (渡辺、2010)、pp. 33 - 34, 43 - 44• 『毎日グラフ別冊 京都御所』、pp. 21, 24• (西、1993)、pp. 103 - 104• (渡辺、2010)、pp. 44 - 45• 『毎日グラフ別冊 京都御所』、p. (藤岡、1984)、p. (武田、1984)、pp. 123 - 127• (西、1993)、pp. 104 - 105• (渡辺、2010)、pp. 45 - 46• (西、1993)、p. 105• (渡辺、2010)、p. 『毎日グラフ別冊 京都御所』、p. (渡辺、2010)、pp. 46 - 47• 『毎日グラフ別冊 京都御所』、p. (渡辺、2010)、pp. 35, 40• 『毎日グラフ別冊 京都御所』、pp. 42, 43 - 45• (渡辺、2010)、pp. 35 - 36• 『毎日グラフ別冊 京都御所』、pp. 42, 48, 50, 52• (渡辺、2010)、p. 『毎日グラフ別冊 京都御所』、p. (武田、1984)、p. 123 - 127• 『毎日グラフ別冊 京都御所』、p. 『毎日グラフ別冊 京都御所』、p. 『毎日グラフ別冊 京都御所』、pp. 83, 92• (西、1993)、p. 105• (渡辺、2010)、p. (渡辺、2010)、p. 勝木俊雄『桜の科学』p147、SBクリエイティブ、2018年、• (村岡、1984)、p. (西、1993)、pp. 94 - 95• (渡辺、2010)、p. (村岡、1984)、p. (渡辺、2010)、p. 『毎日グラフ別冊 京都御所』、p. (渡辺、2010)、p. 『毎日グラフ別冊 京都御所』、p. (村岡、1984)、p. (渡辺、2010)、pp. 53 - 54• 『毎日グラフ別冊 京都御所』、pp. 22, 41, 42• (村岡、1984)、pp. 66 - 70• (渡辺、2010)、pp. 54 - 57• (武田、1984)、pp. 123 - 129• (渡辺、2010)、pp. 39 - 50• (武田、1984)、pp. 127 - 129、ただし杉戸絵に関しては渡辺誠『秘蔵写真で知る京都御所入門』(東京書籍、2005)による。 (武田、1984)、p. 127• 「月華門」『国史大辞典』 吉川弘文館。 - 国指定文化財等データベース()• (東福寺公式パンフレット)。 - 国指定文化財等データベース()• (三井寺公式サイト)。 - 国指定文化財等データベース()• (南禅寺公式サイト)。 1-3。 - 国指定文化財等データベース()• - 国指定文化財等データベース()• - 国指定文化財等データベース()• (南禅寺公式サイト)。 - 国指定文化財等データベース()• (京都観光Navi)。 - 国指定文化財等データベース()• - 国指定文化財等データベース()• (大覚寺公式サイト)。 - 国指定文化財等データベース()• - 国指定文化財等データベース()• (林丘寺公式サイト)。 - 国指定文化財等データベース()• 京都府教育委員会、pp. 8-9。 「水無瀬神社」 『日本大百科全書(ニッポニカ)』 小学館。 - 国指定文化財等データベース()• (正明寺公式サイト)。 - 国指定文化財等データベース()• - 国指定文化財等データベース()• (聖護院公式サイト)。 - 国指定文化財等データベース()• (橿原神宮公式サイト)。 (橿原神宮公式サイト)。 (小野、2001) pp. 53 - 54• (小野、2001) pp. 49 - 51, pp. 52 - 56• 宮内庁 2016年7月20日 参考文献 [ ]• 西川孟、西和夫、辻邦生『日本名建築写真選集18 京都御所・仙洞御所』、新潮社、1993• 西和夫「平安王朝への思慕 京都御所と仙洞御所」• 『毎日グラフ別冊 京都御所』、毎日新聞社、1984• 藤岡通夫「御所の建築 伝統と実用のはざま」• 村岡正「王朝以来の「庭の心」」• 武田恒夫「御所の襖絵 絵の間・画題・絵師たち」• 『京の離宮と御所』(JTBキャンブックス)、日本交通公社出版事業局、1995• 渡辺誠『秘蔵写真 京の御所と離宮』、講談社、2010• 『京都 御所の庭 - 京都御所・仙洞御所』、2005年。 日本史伝文選. 上巻 幸田露伴 著 1920年 大鐙閣出版 P 133• 禁秘抄釈義. 上巻 明34. 2 関根正直 著 P42 鬼の間の記述• 小野芳朗『水の環境史「京の名水」はなぜ失われたか』(PHP新書) PHP研究所、2001年• 小池康寿『日本人なら知っておきたい正しい家相の本』プレジデント社、2015年11月。 関連項目 [ ]• - 1945年には京都御所も空襲を受けた。 - 生誕伝承のある高師浜地区には、「を輩出した一族に繋がる大工集団がまで建築を担当した」と刻まれた石碑が建っている。 - 東京で設立された皇族・華族学校の以前に京都御所内に存在した教育機関。 - 1973年ドキュメンタリー撮影のため史上初めてテレビカメラによる取材がにより行われた。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 - 宮内庁• - 航空写真.

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御即位30年記念京都御所特別公開について

京都 御所 一般 公開 2020

京都御所はいつでも 予約の申込みなしで見学ができるようになりました。 令和に 改元したこともあり、京都御所の見学は人気です。 京都御所では、2020年3月1日(日)~3月22日(日・祝)の間、 即位の礼「即位礼正殿(せいでん)の儀」で用いられた 高御座(たかみくら)と御帳台(みちょうだい)を見ることができます。 現在の高御座と御帳台は、大正天皇の即位の時から使われているものです。 これを機会に京都御所へ見学に来られると良い機会になりそうです。 京都御所の見学は無料です。 年中公開しているので、随分身近に気軽に行けるようにまりました。 京都旅行のプランに入れてみるのもおすすめですよ。 京都御所見学の行き方、場所、時間についてご案内いたします。 スポンサーリンク 京都御所見学は予約なし!時間と所要時間 京都御所の一般公開の見学は、予約の申し込みなしで現地に行くだけで見学できます。 2020年3月1日(日)~3月22日(日・祝)の間、 即位の礼「即位礼正殿(せいでん)の儀」で用いられた高御座(たかみくら)と御帳台(みちょうだい)が一般公開されているので、いつもよりも多く人が訪れると思います。 いつでも京都御所を気軽に訪れることができるのは、とても嬉しいですね。 かつては、一般公開の時期は決まっていて、それはそれは大混雑だったことを記憶しています。 人混みが大変なので、長い間遠ざかっていました。 今現在は、 京都御所を見学したい人は、 清所門(せいしょもん)から入ります。 清所門は、 烏丸今出川から一番近い、 乾御門から入り、右に曲がってください。 地図を書きましたので、参考にしてください。 清所門の前には警備の警察官がおられるので、すぐにわかると思います。 門を入ってすぐのところで、 手荷物検査があります。 私はリュックを背負っていたのですが、 リュックのファスナーを開けて、簡単に中身を覗かれる程度のチェックでした。 ひもの色が入った時間によって分けられているようでした。 手荷物検査から見学をして外へ出るまでの時間は、私は 1時間くらいでした。 京都御所の見学時間は、9時から15時20分です。 16時にはもう出ていないといけません。 お休みの日は、 月曜日で祝日の場合は翌日がお休みになります。 年末年始(12月28日から1月4日)と、行事などがある日はお休みとなります。 事前にチェックをしてから行ってくださいね。 見学に必要な時間は1時間程度だと思います。 休憩所もあるので、ゆっくりできると思います。 さすが京都!進化し続けているなあって思います。 ガイドさんの案内を受けたい人は、 休憩所で待っていると案内してくださいます。 京都御所見学への行き方、アクセス、駐車場 京都御所の見学に行く場合は、先程も説明したとおり、清所門から入ります。 なので、烏丸今出川から来るのが一番近いです。 アクセスは 地下鉄烏丸線の今出川駅で下車、3番出口か、6番出口から出ると近いです。 徒歩約5分くらいで清所門へ到着します。 市バスの場合は、烏丸今出川のバス停で降りてください。 バス停の場所を地図に書きました。 京阪の場合は最寄りは出町柳駅となります。 少し遠いのですが、徒歩で約20分くらい、遠すぎるという人はそこから市バスに乗ってください。 京都御所見学に近い駐車場 京都御所の見学に来る時に駐車場を利用する場合は、 御所の中立売西駐車場が近いです。 今、中立売駐車場は工事をしていました。 (平成31年) 工事中は、蛤御門から入庫するようになっています。 右折で入ることができないので、必ず左折で入ってくださいね。

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