広岡 達朗 コラム。 広岡達朗氏の言う「大田泰示の放出は巨人の恥」が本当なのかを検証!

広岡氏コラムに批判 ダルも呆然|BIGLOBEニュース

広岡 達朗 コラム

名将・広岡達朗が語る2019年のスワローズ 目の前にいるのはヤクルトの初代優勝監督である広岡達朗。 すでに傘寿を過ぎ、87歳を迎えてもなお、舌鋒は鋭い。 尋ねたのは「ヤクルト時代に取り組んだことは?」という質問だった。 「あの頃のヤクルトナインには拭い難い《巨人コンプレックス》があった。 優勝するためにはそれを払拭しなければならない。 そんな思いもあって、初めての海外キャンプをアメリカ・ユマで行ったんだね。 サンディエゴ・パドレスとの合同練習で「巨人コンプレックス」払拭の一助とした。 そしてこの年、チームは創設29年目にしてセ・リーグを制覇。 日本シリーズでも王者・阪急ブレーブスを倒して、初の日本一となった。 まさに、「管理野球」と称された広岡野球の結実の瞬間だった。 続いて、「今年のヤクルトをどう見ますか?」という質問を投げかけると、その本領を発揮する。 広岡さんの口調が熱を帯びる。 「私なら、バレンティンを使いません。 守れない選手がいることのデメリットを考えたら、いくらホームランを打とうと割に合わない。 バレンティンも村上(宗隆)も確かにホームランはたくさん打った。 でも、チームが最下位なら意味はないでしょう。 彼らは自分が打つことばっかりで、真剣に勝とうと思っていないですよ。 だって、チャンスでも平気で三振するじゃない。 私だったら絶対に許さない。 厳しすぎる。 しかし、これこそまさに「広岡イズム」なのだろう。 「ミスタースワローズ」こと若松勉さんにお話を聞いても、「ミスターオープンスタンス」こと八重樫幸雄さんにインタビューをしても、異口同音に「そりゃ、広岡さんは厳しかった」とか、「今でも広岡さんの前では緊張する」と語っていたのもうなずける。 ただ、その言葉は鋭いものの、常に表情は柔らかく温かかったことは意外だった。 そして、さらに驚いたのは今季の指揮を執った小川淳司前監督に対しては、その口調は柔らかくなり、ねぎらいの言葉を口にしたことだった。 「小川さんは性格がいいんですよ。 気が優しい。 そんな性格でチームを率いることは大変だったと思いますよ」 まさかの「さん付け」に、僕は驚いた。 なぜなら、それまで同じく名将の誉れ高い野村克也さんについて、ボロクソに言っていたからだ。 それまではサンケイとの共同経営だったが、70年にヤクルトの単独経営となってから、2019(平成31/令和元)年で50年目というわけである。 50年に国鉄スワローズとしてスタートして以来、チームは現在に至るまで7回のリーグ優勝、5回の日本一に輝いている。 78年は広岡達朗監督、92、93、95、97年は野村克也監督、21世紀を迎えた01年は若松勉監督、そして15年は真中満監督が、それぞれ歓喜の瞬間を迎え、神宮の宙を舞った。 長い歴史の中で、わずか4人だけが、「スワローズ優勝監督」の称号を手にしたのだ。 僕はこれまで、野村、若松、真中監督には何度もインタビューをして、それぞれの優勝体験を聞いてきたが、「初代優勝監督」である広岡監督だけは、お話を伺う機会がまったくなかった。 しかし、このたび広岡さんとの対面が実現。 これでようやく、歴代監督全員にお話を伺うことができたのだ。 僕はこれまでずっと、「4名の優勝監督にお話を聞いて、《歴代優勝監督の系譜》を書きたい」と切望していた。 かつて、極私的ヤクルトヒストリーとして、『いつも、気づけば神宮に』(集英社)という本を上梓した。 この本を執筆以来、「いつか、《優勝監督の系譜》を書こう」と考えているので、ぜひ、いつかこの物語を完成させたい。 さて、僕はかねてからヤクルト歴代優勝監督は「広岡・野村」の外部から招聘した厳しい監督と、「若松・真中」の生え抜きの優しい監督に大別できると考えていたのだが、その考えは間違いではなかったようだ。 広岡さんの話を聞いていると、かつてノムさんから聞いたことと同じような考えであることにすぐに気がついた。 それを確信したのは次の質問を投げかけたときだ。 現役生活を送った巨人で監督をしたいと思ったことはないのですか? この質問に対して、広岡さんは「ない。 あるわけがない」と即答した。

次の

【田淵幸一物語・第3部(3)】初対面、広岡達朗の注文(1/2ページ)

広岡 達朗 コラム

好敵手・平松を得た田淵。 後年、彼は「人との出会いが自分を育てた」と強調した。 その中の一人に西武に移籍したときの監督、広岡達朗がいる。 「野球の勝ち方、負け方を教わった」という。 実は驚異の2連発が飛び出した大洋戦の次のカード、16日のアトムズ戦で2人は出会った。 当時、産経新聞には多くの評論家が所属していた。 広岡もその一人。 ちょうど16日の試合が雨で中止となり、阪神の選手宿舎へ広岡が出向き「対談」を申し込んだのである。 広岡「君とは初対面だが、いろいろ話したいと思っていた。 ズバズバ言わせてもらうよ」 田淵「よろしくお願いします。 1年生ですし、何でも自分のためになると考えています」 広岡「君にぜひやってもらいたい。 それは試合前のシートノックで全力で投げて欲しい。 見ててスカッとするくらいに」 田淵「実行します。 たしかに練習のときには力を抜いてました」 広岡「阪神は昔は豪快なカラーを売り物にしていた。 ところが今は妙に灰色がかってしまった。 非情に物足りない。 だから君に期待している」 田淵「恐縮です」 広岡「グラウンドへ出たらベテランも若手もない。 むしろ引っ張り回すつもりでやれ」 田淵「いまは、何が何だかわからず、無我夢中でやってます」 広岡「ユニホームを着たときはもっと堂々とやるべき。 先輩、後輩の礼儀は背広を着たときに守ればいい。 プロの世界は技術的なものより、自分に負けないことが一番大切なことだ」.

次の

広岡氏コラムに批判 ダルも呆然|BIGLOBEニュース

広岡 達朗 コラム

巨人にV9をもたらした川上哲治監督は、「ドン」と呼ばれたほどの絶対的な権力で選手を管理した。 その川上氏から疎まれ放逐された選手がいた。 広岡達朗氏(82)である。 きっかけはV9の始まる前年、1964年8月6日の国鉄戦だった。 2点を先制され、相手投手・金田の好投に手も足も出なかった巨人は、7回表、ようやく1死三塁の好機を掴む。 打者は5番・広岡。 しかしその3球目、三塁走者・長嶋がホームスチールでアウトになる。 打撃を期待されなかった広岡氏のショックは大きかった。 三振に倒れた広岡氏は激怒してバットを叩きつけると、ベンチを素通りして帰宅してしまった。 広岡氏があの事件をついに自分の口で語った。 * * * 1961年に監督に就任した時、川上さんは私に「現役時代はいい加減なことをしたが、すべて水に流して協力してくれ」と頭を下げてきた。 私はもちろん快諾しましたよ。 その後はコーチ兼任として、V9の初期を支えたつもりです。 しかしこの時ばかりは腹が立った。 私は信用されていなかったんだと確信した。 そこから川上監督との関係が悪化していったんです。 それで、この年のオフには私を中日へトレードする話が出た。 私は「トレードなら引退します」と正力亨オーナーに直訴し、結局この時は正力松太郎さん(亨氏の父。 巨人の初代オーナー)が取り持ってくれて残留することになった。 しかし川上さんは気に入らなかったのでしょう。 その後は露骨に出番を減らされました。 優勝した翌1965年はまだ良かったが、1966年には11試合しか出られず、結局この年を最後に巨人を辞めました。 川上さんによる「広岡排除」は徹底していましたよ。 引退後、私が評論家として巨人を訪れると取材拒否された。 米国・ベロビーチキャンプに取材に行くと球団に「広岡を入れるな」と通達する。 ならば個人で行ってやれとスタンドで観戦していると、練習をやめてしまう。 海外まで来てこの仕打ちを受けた時には涙が出ましたね。

次の