川 の 流れ の よう に 秋元 康。 川の流れのように 元ネタ・似てる曲 美空ひばり 秋元康

昭和の幕を閉じた曲 平成元年の「川の流れのように」(美空ひばり)【柴那典 平成ヒット曲史】

川 の 流れ の よう に 秋元 康

普段は一発で終わる美空ひばりさんのレコーディングに、あえてお願いした秋元康 さんが1989年6月24日に52歳で亡くなる前、最後に発表したシングルが『川の流れのように』(1989年1月11日)だった。 作詞を手掛けたは、後にの総合プロデューサーとして一世を風靡することになる。 そのAKB48で初代総監督を務めたが、2月8日に放送された福岡ローカルの旅バラエティ番組『ちょっと福岡行ってきました』(TVQ九州放送)で『川の流れのように』を巡る美空ひばりさんと秋元康の貴重なエピソードを明かした。 12歳でデビューして「天才少女歌手」と注目を集め、やがて「歌謡界の女王」と呼ばれる存在になった美空ひばりさん。 演歌や歌謡曲のみならずジャズまで歌いこなす才能は今でも高く評価されており、がラジオ番組で「美空ひばりと松田聖子は天才」と絶賛したことがあるほどだ。 そんな美空ひばりさんだけにレコーディングでも1回歌えば「100点」のパフォーマンスを見せて、関係者が「これで大丈夫ですね、素晴らしいです」とOKを出すのが常だった。 『川の流れのように』のレコーディングも一発で「素晴らしいですね、じゃあこれで」という流れになるはずだった。 しかし、秋元康が「すみません、もう1回歌ってもらえますか?」と要望したのである。 レコーディングスタジオにいた関係者がピリつくなか、当の美空ひばりさんは落ち着いたもので「わかったわ〜」と応じてもう1回歌ったところ、さらに素晴らしいものになった。 そのエピソードを明かした高橋みなみは「美空ひばりさんに『もう1回歌ってもらえますか』と言ったのは秋元さんが初めてらしい」という。 当初はアルバム『川の流れのように〜不死鳥パートII』(1988年12月発売)からポップス調のナンバー『ハハハ』をシングルカットする予定で、スタッフの意見は決まっていた。 しかし美空ひばりさんが、自分の人生とアルバム表題曲『川の流れのように』の歌詞を重ねて「お願いだから、これだけは私に決めさせて」とシングルカットを熱望したというエピソードは有名だ。 作詞した秋元康は彼女の『川の流れのように』に対する思いを誰よりも分かっていたからこそ、可能性を信じて「もう1回歌ってもらえますか」とさらに踏み込めたのではないだろうか。 Twitter上では「そして今日も音楽に助けられるのだ 川の流れのように 美空ひばり」、「美空ひばりさんの歌を聴くとすごく癒やされます。 特に川の流れのようにが好き、辛いことがあるたびに、この歌を聞いて、泣いて、また乗り越えてこれからも、その繰り返しです」といった声が見受けられるように、美空ひばりさんの思いは作品を通じて人々の心に残り続けることだろう。 画像2枚目は『高橋みなみ 2018年6月9日付Instagram「昨日秋元さんとお久しご飯してきました」』のスクリーンショット.

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川の流れのように

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【取材後記】 「目の前に、秋元康がいる…」 何十年にも渡ってエンタメ界の頂点に君臨してきた男が、 目の前に座り、僕の質問に答えている。 それが夢でないことは、手の震えや心臓の鼓動が教えてくれた。 勝新太郎のことを「勝新太郎さん」とは言わない。 黒澤明のことを「黒澤明さん」とは言わない。 僕にとってはそれと同じことなのだ。 なぜ、僕がそんな人を取材することが出来たのか? それは取材当日からさかのぼること約1か月前。 この『日本放送作家名鑑』を開設した6月15日のお昼。 放送作家名鑑の立ち上げについて、 僕自身が取材を受けたニュースサイトの記事も同時に公開された。 その記事で僕は「放送作家名鑑で1番取材したい人は?」という質問に 「秋元康さん」と答えていた。 すると、その日の夕方、 『青春高校3年C組』の会議でテレビ東京の佐久間さんから 「秋元さんが深田君の取材受けていいって言ってるよ」と報告を受けた。 記事が公開されてから、わずか4時間後のことだった。 怖かった… それはもう震えが止まらないほど。 そして、迎えた取材当日。 生身の秋元康と向かい合い、話を聞かせてもらった1時間の中で、 最も強く印象に残り、強い違和感を抱いたことがある。 その話し様を目の前で目撃した僕の感覚として、 確信に近いものがある。 それはセルフプロデュースやリップサービスではなく、 「この人は本当に自分を天才と思っていない」 それが今回の取材で1番印象的であり、1番ゾッとしたことだった。 おそらく深田史上1・2を争う緊張ゆえに、 取材中の僕のリアクションは決して良くなかったはずだし、 会話のラリーもうまく出来ていなかったはずだ。 しかし、取材を録音したテープを聴き直してみると、 秋元さんは本当に優しく、丁寧に僕の質問に答えてくれていた。 最初は多かった敬語が、会話が進むにつれてなくなっていく様子も、 テープを聴き直したことで気づき、とても嬉しくなった。 緊張したけど本当に楽しい時間だった。 ずっとこの人の話を聞いていたいなと思った。 だからこそ、心残りがある。 秋元さんに感謝の気持ちを伝える余裕が、取材時の僕にはなかったことだ。 無趣味だった僕が欅坂46のファンになり、 ライブのチケットが外れたにも関わらず、 グッズを買うためだけに車を借りて富士急ハイランドまで行っちゃうくらい、 人生を楽しませてもらっていること。 『青春高校3年C組』で、 元々引きこもりだったり、自分に自信がなかった子たちが、 番組に出演したことよって日に日に輝きはじめ、 少しずつ世間に知られていく過程を番組スタッフとして見ることが出来て、 本当に幸せを感じられているということ。 中学の時、学年主任の先生が退職する際に 生徒一同で『川の流れのように』を合唱して、 凄く怖かった先生がボロボロに泣く姿を見て、 歌が持つパワーに人生で初めて感動を覚えたこと。 そして、その後の人生で困難に直面した時には 『川の流れのように』を聴いて自分を鼓舞してきたこと。 そして何より、この取材を受けてくれたこと。 秋元さんが旅行カバンをパンパンにしながら、 寝る時間を惜しんで40年以上も頑張ってきてくれたおかげで、 僕の人生がとてもとても豊かになったということを 「本当にありがとうございます」って伝えたかった。 だから、また会えるように頑張ります。 取材した人に一律で渡している謝礼の3000円も渡せなかったので、 その時に渡します。 そして今日からは、どんな時でも「秋元さん」ってちゃんと言います。 深田憲作.

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リリース日 1989年1月11日 川の流れのように の語源・由来 川のモデルはニューヨークの『イースト川』 『川の流れのように』の作詞を手がけた秋元康さんは、作曲当時にニューヨークに在住していました。 秋元康さんは、 ニューヨークのカフェ・ランターナ(La Lanterna di Vittorio)にて、『イースト川』をモデルに『川の流れのように』の歌詞を書き上げたと語っています。 イースト川は、ニューヨーク・マンハッタン島の東側を流れる海峡です。 元々このアルバムは『 若い世代にメッセージを残したい』という美空ひばりさんの想いの元作成されたもので、当時、作詞家・放送作家として活躍し始めていた秋元康さんが作詞を担当しました。 記録・功績• 第31回日本レコード大賞:特別栄誉歌手賞• 第31回日本レコード大賞:金賞• 第31回日本レコード大賞:作曲賞• 第20回日本歌謡大賞:特別栄誉賞• 第22回日本有線大賞:有線音楽賞• 第22回日本作詞大賞:特別賞• 第18回FNS歌謡祭:特別賞.

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